白井黒也 / 第8話

第7話「静かな猶予」

喫茶店の地下基地に逃げ込んでどれくらい経ったんだろう。 ……わからない。 外界と隔絶されたこの場所は、時間の感覚をじわじわと狂わせる。 地下へ続く階段はすでに閉ざされ、分厚い隔壁に遮られた向こう側の気配は何ひとつ届かない。 車の音も、人の声も、街の喧騒も。 あれだけさっきまで命懸けで駆け抜けていた世界が、まるで最初から存在しなかったみたいに静かだった。 薄く唸る機械音。 モニターの電子音。 どこかで換気装置が回り続ける低い駆動音。 耳に入るのは、それくらいだ。 古びたソファに身体を預けながら、俺は深く息を吐いた。 「……なぁ、今何時だ?」 正直、自分でも間抜けな質問だと思った。 壁一面に並んだモニターの前で外の監視映像を確認していた澪が、振り返りもせずに淡々と返す。 「……スマホ、あるでしょ」 「……あ」 言われてから気づき、ポケットからスマホを取り出す。 画面をつけると、電波表示は当然のように圏外。 けれど、時刻だけは無機質にそこに表示されていた。 15:42 「……嘘だろ」 思わず、素で声が漏れた。 体感じゃ、もう夜でもおかしくない。 日常が壊れて、澪から連絡が来て、追われて、走って、車に飛び乗って、銃撃戦までやって。 それだけ詰め込まれて、まだこんな時間なのか。 「今日は、随分と濃い一日だったみたいね」 どこか皮肉っぽく、でも少しだけ疲れの混じった声。 モニターを見つめたまま、澪が小さく息を吐く。 その姿をぼんやり眺めながら、俺は改めて地下基地の内部を見渡した。 古いソファにローテーブル。壁際には簡易ベッド。 保存食や飲料水の箱が積まれ、医療用品らしき棚まである。 さらに、監視用モニター、端末、発電設備。 喫茶店の地下というより、長期潜伏前提の避難所だ。 「……本当に、こんな場所用意してたんだな」 思わず漏らすと、澪は少しだけ視線を伏せた。 「……色々あったのよ」 その言い方は、踏み込みすぎるなって線引きにも聞こえた。 だから今は、それ以上聞かない。 代わりに。 ぐぅ…… 「……」 「……」 腹が鳴った。 しかも、思ったよりしっかりと。 「……ふふ」 澪が小さく、本当に小さく肩を震わせた。 「笑うなよ……」 「ごめん。でも、少し安心した」 そう言って、澪はモニター前を離れる。 部屋の隅に積まれていた備蓄箱を開け、中から保存食らしき栄養バーとペットボトルの水を取り出してきた。 そして、それをローテーブル越しに俺へ差し出す。 「……とりあえず、これでお腹を満たして」 「……随分、色気のない飯だな」 銀色の包装を見つめながらぼやくと、澪は呆れたように肩をすくめた。 「文句言えるだけ元気なら十分よ」 「それは、まあ……そうだけど」 『肉はねぇのかよ。使えねぇ基地だな』 頭の奥で、戦闘狂が即座に不満を漏らす。 「あるわけないだろ」 『非常時に贅沢を言うものではありません』 賢者の冷静な声が割って入る。 『せめて紅茶くらいありませんの?』 お嬢からも無茶な要望が飛んでくる。 『……でも、少し落ち着いたね』 僕の小さな声に、不思議と少しだけ肩の力が抜けた。 包装を開け、栄養バーを一口かじる。 「……うわ、味気な」 ぼそっと漏らしながらも、空腹の身体にはそれでも十分だった。 派手さも温かさもない。 でも、生き延びた実感だけはあった。 澪は再びモニターへ視線を戻し、外の様子を確認している。 俺は古いソファに深く身体を沈めながら、保存食をかじった。 まだ、何も終わってないけど、少なくとも今だけは―― ほんの少しだけ、走らなくていいらしい。 ◇ ◇ ◇ 保存食を水で流し込み、俺はようやくソファから身体を起こした。 味気ないにも程がある食事だったけど、空っぽだった腹には十分だった。 少しでも身体を動かしていた方が、今は余計なことを考えずに済みそうだった。 「……どこ行くの?」 モニターを確認していた澪が、視線だけをこちらへ向ける。 「いや……ちょっと、この辺」 改めて見れば見るほど、ここは突発的な避難場所なんかじゃないとわかる。 「……思ったより、ちゃんとしてるんだな」 思わず漏らすと、背後でキーボードを叩く音が止まる。 「……“いざという時”のための備えよ」 澪はモニターの光を横顔に受けながら、小さく息を吐いた。 「使わないで済むなら、それが一番だったけど」 その言葉は妙に現実的で、軽くなかった。 冗談でもなく、気休めでもなく――本当に、そういう時を想定していた声音。 「……その“いざ”って、俺のことか?」 一瞬、静寂が落ちた。 澪はすぐには答えず、視線を伏せてから静かに口を開く。 「ええ…貴方がNABに追われる可能性を考慮して、ね」 「……」 言葉が出なかった。 “もしも”なんて軽い話じゃない。 もっと現実的で、もっと切実な響きだった。 澪はそれ以上深くは語らず、再びモニターへ視線を戻す。 「……だから、備えてた。それだけよ」 そう片付けるには、きっと重すぎる。 でも、今はそれ以上踏み込ませる気がないこともなんとなくわかった。 聞きたいことは山ほどある。 けど、多分まだその時じゃない。 「……そっか」 短く返し、ロッカーの脇に手を置きながら小さく息を吐く。 「……ありがとな」 「え?」 「いや……助けてくれて」 言った後で少し気まずくなる。 ……柄じゃない。 改まると妙に照れる。 けれど澪は少しだけ目を丸くした後、本当にわずかに表情を緩めた。 「……どういたしまして」 その声は、今までで一番自然だった。 状況は何も解決していない。 NABも、追跡も、俺の過去も、何ひとつ。 それでも薄暗い地下基地の中で、ほんの少しだけ思う。 ――少なくとも今は、完全に一人ってわけじゃないらしい。 ロッカーから手を離し、ふっと息を吐く。 「……少し、横になる」 「ええ。今のうちに休んで」 澪の声を背に、俺は壁際の簡易ベッドへ向かう。 無機質な造りだ。 最低限のフレームに、薄いマット。 寝心地がいいとは到底言えない。 けど、今はそんなことどうでもよかった。 身体を預けた瞬間、全身から力が抜ける。 「っはぁ……」 天井を見上げる。 病院でもホテルでもない、完全に“避難所”って感じの景色。 なのに、不思議と少しだけ安心した。 少なくとも今は、追われて走らなくていい。 『……少し、落ち着いた?』 最初に声をかけてきたのは、僕だった。 相変わらず控えめで、心配そうな声。 「……まあ、少しはな」 『よかった……』 僕の、本当に心から安堵したみたいな声。 こいつは、なんというか。 この中で一番“普通にいいやつ”かもしれない。 『ですが、完全な安全確認には至っていません。休息は必要ですが、警戒は継続すべきです』 続くのは賢者。 相変わらず理性的というか、ブレない。 「こういう時まで真面目だな、お前」 『……せめて、もう少し快適さが欲しいですわね』 呆れたように、お嬢の声が響く。 「文句言うな。寝られるだけマシだろ」 『狭ぇし、退屈だし、飯は味気ねぇし。次はもっと派手にやろうぜ』 戦闘狂が不満をぶちまける。 「却下だ」 『ちっ、つまんねぇな~!』 不満そうなのが腹立つ。 ……ほんと、賑やかだな。 頭の中だけでこんなに騒がしいってどうなんだ。 けど、不思議だった。 少し前まで“異常”とか“意味不明”とか、そういう感情の方が強かったのに。 今はもう、こいつらが頼もしく思える。 騒がしいし、疲れるしで面倒なのは間違いないけどな。 でも、一人で頭を抱えてるよりは、少しだけマシなのかもしれない。 ……そう思った、その時だった。 『……ククッ』 不意に頭の奥で小さく笑う声が響き、ぞくりと背筋に薄い冷たさが走る。 甘いようでいて底の見えないその声音に、俺は無意識に眉をひそめた。 悪の権化だ。 「……何が可笑しいんだよ」 『いや……なんとなく、懐かしくてね』 その言い方が妙に引っかかる。 「……なにがだよ」 わざと間を置くような沈黙の後、悪はくすりと笑った。 『……あの場所を、思い出さないかい?』 「あの場所……?」 心当たりなんて、あるはずがない。 ――ない、はずなのに。 その言葉だけが、なぜか胸の奥に嫌な形で引っかかった。 『察しが悪いね……あの研究施設のことだよ』 「――っ」 その瞬間、頭の奥で何かが軋んだ。 白い部屋。 冷たい拘束具。 薬品臭。 耳障りな電子音。 そしてガラス越しにこちらを見下ろす“誰か”。 「っ……!」 こめかみに鈍い痛みが走り、思わず押さえる。 「……翔?どうかしたの?」 澪の声が少し遠くから聞こえた。 「……いや、なんでもない」 呼吸を整えながら短く返す。 なんだ、今の。 思い出した……いや、違う。 記憶というより、封じられていた何かの断片が無理やり引っかいたような、不快な感覚。 「……研究施設?」 『おや、本当にほとんど覚えていないんだね』 悪が少し楽しそうに笑う。 『……やめて。その話は……あまり、よくないよ……』 珍しく、僕の声が割って入った。 いつもの穏やかさより少しだけ強張っている。 『推奨しません。記憶への急激な刺激は、混乱を招く可能性があります』 賢者も即座に続く。 『はっ、なんだよそれ。ビビってんのか?』 戦闘狂は相変わらずらしい。 『……野暮ですわね。せっかく休めそうでしたのに』 お嬢が小さく呆れたように息をつく。 ……なんだよ。 まるで全員、何か知ってるみたいじゃないか。 「おい……お前ら」 問いかけようとして、言葉が少し詰まる。 「……もしかして、知ってるのか?」 俺がいた場所。 何をされていたのか。 どうしてこうなったのか。 一瞬、頭の中が妙に静かになった。 さっきまであれだけ騒がしかったくせに、今は誰もすぐには答えない。 その沈黙が、逆に答えみたいだった。 『……まだ、その時じゃないかな。思い出すには、順番ってものがあるのさ』 最後にそう告げたのは、悪だった。 低く、静かで、さっきまでの嘲るような響きとは違う。 まるで本当に、“まだ早い”とでも言うように。 「……ふざけんな」 苛立ちが漏れる。 けど同時に、理解してしまった。 こいつらは何も知らないわけじゃない。 少なくとも――俺よりは、知っている。 そして今はまだ、全部を言う気がない。 簡易ベッドの上で重く息を吐き、薄暗い地下基地の天井を見上げる。 少し落ち着いたと思ったのに、結局また新しい疑問が増えただけだ。 NABの研究施設で……俺は、一体何をされていた? 答えはまだ遠いけれど、少なくとも俺の中に“何か”があることだけは――もう、嫌でも理解し始めていた。 なのに、考えようとすればするほど、意識に鈍い靄がかかっていく。 身体が重いし、頭も回らない。 そりゃそうだ。 今日だけで何回“普通じゃないこと”が起きた? その上で、自分の知らない“過去”まで突きつけられた。 もう、処理しきれるわけがない。 「……っは……」 小さく息を吐く。 まぶたが、やけに重かった。 『……もう、休んだ方がいいよ』 僕の声が、どこか遠くで響く。 『現在の脳疲労は深刻と推測されます』 賢者の声すら、少し遠い。 『ここで倒れられましても困りますものね』 『ちっ……仕方ねぇな』 お嬢も戦闘狂も、いつもより少しだけ静かだった。 『……おやすみ』 最後にそう呟いたのが、誰だったのか。 もう、よくわからない。 「……翔?」 澪の声が、少しだけ近くて、少しだけ遠い。 「……今日は、もう休んで」 その言葉に返事をしようとした。 した、つもりだった。 けど、声になる前に意識の方が先に沈んでいく。 現実の音が、少しずつ遠ざかる。 代わりに誰かの声が聞こえてくる。 ――被検体……番号…… 聞き取れない。 いや、聞き取りたくない。 視界の向こうには白衣を纏った影。 その瞬間。 「――っ!」 身体がびくりと跳ねそうになる。 けど、それすら現実にはならない。 意識は、深く沈んでいく途中だった。 思い出したいのか、自分でももうよくわからない。 ただひとつだけ言えるのは、あそこは決して“普通”の場所じゃなかった。 そんな確信にも似た嫌悪だけを残して、俺の意識はゆっくりと闇の底へ沈んでいった。 ――まるで、思い出すことそのものを拒むみたいに。
翔「……結局、まともに休めた気がしないんだけど」 澪「追われながら地下基地に逃げ込んで、快眠できると思ってる方がおかしいわ」 戦闘狂『戦いがねぇと落ち着かねぇな』 お嬢『せめて次は、もう少し文化的な食事を希望しますわ……』 僕『ぼ、僕は静かな方がいいかな……』 賢者『ですが、状況は確実に動き始めています』 悪の権化『ククッ…逃げてばかりじゃつまらないからね』 翔「次回、第8話『次の一手』……俺は、自分が何者なのか知りたい」

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