白井黒也 / 第10話

第9話「地下からの出発」

目を覚ました時、地下基地の空気は昨夜より少しだけ冷えていた。 外の朝日なんて当然見えない。 けれど、壁際に置かれた古びたデジタル時計が示す時刻―― AM5:25 もう夜じゃないことだけを無機質に教えてくる。 「……早」 掠れた声を漏らしながら、簡易ベッドの上でゆっくり身体を起こす。 慣れない時間に起きたからか、まだ少し頭が重い。 しかし視線を上げた先に広がる光景が、眠気を少しずつ現実へ引き戻した。 「……なんだ、これ」 地下基地の簡易テーブル。 昨夜までは保存食や簡易器具が置かれていたそこに、 今は古いノートPC、数枚の紙資料、手書きのメモ、そして大まかな地図まで広げられている。 まるで、小さな作戦室だった。 「起きたのね」 モニターの淡い光を横顔に受けながら、澪が椅子に座ったまま振り向く。 ……もう、とっくに起きていたらしい。 というより、多分あまり寝ていない。 目の下に薄く残る疲労の気配が、それを物語っていた。 「……いつから起きてんだよ」 「二時間くらい前」 「寝ろよ」 「寝てる場合じゃないもの」 当然みたいな顔で言うあたりが澪らしい。 呆れ半分で息を吐きながら、ベッドから降りる。 そして、テーブルへ近づいたところで気づく。 地図の一部。 都内外れと思われる地点に、赤い丸印。 その横に雑な筆跡で書かれていた一つの単語。 『RAVEN』 「……レイヴン?」 口にすると、澪の表情がほんの少しだけ引き締まった。 「これから会いに行く男のコードネームよ」 短く、淡々とした声音だが、少しだけ警戒が混じっている。 「本名は?」 「知らない方がいいわ」 「は?」 「こっちも、あっちも。その方が都合がいい世界ってこと」 ……なるほど。 朝イチで理解した。 普通じゃない。 いや、もう今さらだけど。 それでも、こうして改めて“名前すら本物かわからない相手”が次の目的地になると聞かされると、嫌でも現実味が増す。 澪は地図上の赤丸を指先で軽く叩いた。 「……準備を整えて、早く行こう」 自分でも驚くくらい、声は思ったより落ち着いていた。 澪は数秒だけ俺を見て――小さく頷く。 「ええ」 テーブルの上に並ぶ地図と資料は、もう“潜伏”だけじゃ終われないことをはっきり示していた。 今日、俺たちは地下から次の危険へ向かう。 ◇ ◇ ◇ 「……まず、その格好を変える」 澪はそう言って、地下基地の隅に置かれていた古い金属ロッカーを開けた。 中から取り出されたのは、いかにも“その辺に紛れそうな”地味な服。 色褪せたカーキのライトジャケット。 灰色の無地シャツ。 癖のないダークブラウンのパンツ。 良く言えば無難。 悪く言えば、驚くほど華がない。 「……これ着ろって?」 「その服も、奴等に覚えられてる可能性があるわ」 ……まあ、それは分かる。分かるけど。 「何その反応」 「いや……なんか、“俺”感なくなるなって」 『もっとマシな格好はありませんの?地味を通り越して、没個性ですわよそれ』 頭の中で、真っ先に食いついたのはお嬢だった。 「お前が着る訳じゃねぇだろ」 『ですけど、美意識というものが――』 『どーでもいいから早く行こうぜ。服なんざ何でもいい。動けりゃ十分だろ』 お嬢に割り込むように戦闘狂が吐き捨てる。 『目立たないことを優先してください。現状、外見的特徴を減らすことは合理的です』 賢者の冷静な声が、その場を強制的に終了させた。 「……はいはい」 結局、まともなのは賢者だけか。 軽くため息を吐きながら服を受け取る。 澪は慣れた手つきで、次に俺のスマホへ視線を向けた。 「それも置いていくわ」 「……あ?」 数秒の間。 「……いや、ちょっと待てよ」 「GPS、通信履歴、位置情報、端末識別。追跡される理由を持ち歩く気?」 「それは……」 正論すぎて返す言葉が見つからない。 昨日まで当たり前みたいに持ってた物。 連絡先、写真、メモ。 そういう“普通”が詰まってる。 「……マジかよ」 思ったより、声に未練が滲んだ。 澪は少しだけ表情を和らげる。 「気持ちは分かる。でも、それを持ってる限り“昨日まで”に引っ張られる」 スマホを握る手に、少しだけ力が入る。 けれど数秒後、俺は観念したように息を吐いた。 「……分かったよ」 スマホをテーブルの上へ置くと、やけに重い音がした気がした。 澪はそれを確認すると、すぐに電源を落とし、金属箱の中へ。 「後で処分する」 本当に容赦がない。 でも、多分それが正しい。 そして澪は、地下基地の監視端末へ向き直る。 古いモニターに映るのは、喫茶店周辺の外部カメラ映像。 「……やっぱり」 澪の声が、少し低くなる。 「何だよ」 「監視が増えてる」 画面の端に、不自然に長く同じエリアへ留まる車両。 巡回頻度の高いドローン。 昨日より明らかに、“探している側”の気配が濃い。 「包囲、まではされてない。でも……時間の問題ね」 「……急ぐしかない、ってことか」 「正面は避ける。裏通路から出るわ」 安全なんてどこにもない。 だけどここで立ち止まっていれば、もっと確実に詰む。 澪が最終確認のために端末を操作している少しの間、壁にもたれた俺は、妙に落ち着かない呼吸を一つ吐いた。 ここから出れば、もう後戻りは簡単じゃない。 レイヴンが敵か味方かも分からない。 全部、自分で選んだはずなのに。 喉の奥に、言葉にならない重さが残る。 『……怖い』 不意に聞こえた僕の声は、小さかった。 怯えるようでいて、でも確かにそこにある声。 それは今の俺が一番、口にしたくなかった本音だったのかもしれない。 「……俺もだよ」 小さく返す。 強がって否定するほど、もう子供じゃない。 知らない場所、知らない真実、知らない自分。 怖いものは怖い。 『俺達がいるんだ、怖いもんなんてねぇだろうが!』 その空気をぶち壊すみたいに、戦闘狂の声が頭の中へ響いた。 ……相変わらず、暑苦しい。 でも、その真っ直ぐすぎる物言いに、少しだけ肩の力が抜けた。 「それは……まぁ」 否定しきれず、思わず苦笑が漏れる。 実際、こいつらの戦闘能力は折り紙付きだ。 『……ククッ。どうなるか愉しみだね』 背筋に薄く冷たいものを這わせるみたいに、悪の権化が嗤う。 多分こいつにとっては、本当にそうなんだろう。 真実も、危険も、破滅すら。 全部まとめて、“面白い”側に分類していそうで腹が立つ。 「人の気も知らねぇで」 『知ってるさ……だからこそ、愉しみなんじゃない?』 「……は?」 意味深な言葉だけ残して、悪はそれ以上語らない。 相変わらず、性格が悪い。 「……行くぞ」 誰に向けたのか、自分でも分からないまま呟く。 その言葉は、“止まる側”じゃなく、“進む側”の声だった。 ◇ ◇ ◇ 「……行くわよ」 澪の低い声が、地下基地の空気を静かに切り替えた。 それまでモニターに向けられていた視線が、今度は奥まった壁際――一見すると古い棚にしか見えない場所へ向く。 澪は迷いなくその一角へ手をかけた。 鈍い金属音。 次の瞬間、僅かに響く駆動音と共に、棚が横へとスライドしていく。 「……うわ」 その奥に現れたのは、人一人が通れる程度の細い通路。 コンクリート剥き出しで最低限の照明があるだけ。 まるで、地下基地そのものが“逃げるため”に作られていたみたいだった。 「元々、緊急脱出用よ」 澪は短く言って、先に足を踏み入れる。 「私から離れないで」 「了解」 通路は思ったより長かった。 無言のまま進む数分。 足音だけが、狭い空間に小さく反響する。 途中、古びた配管や使われなくなった資材が視界を掠めるたび、 ここが“普通の避難経路”じゃないことを嫌でも理解させられる。 ずっと昔から、こういう“もしも”を想定していた場所。 ……澪は、どこまでを想定してここまで備えていたんだ。 やがて前方に、微かな自然光が見えた。 地下の人工灯とは違う。 白く、薄く、それでも確かに“外”を感じさせる光。 通路の突き当たりには古びた重い鉄扉があった。 長年使われ続けたのか、表面には細かな傷と錆が浮いている。 澪はすぐには開けない。 まず呼吸を潜めるように静止し、耳を澄ませる。 物音、足音、人の気配。 数秒にも満たない沈黙。 けれど、その短い時間が妙に長く感じた。 澪は、ゆっくりと鉄扉へ手をかける。 ……ギィ。 軋みを最小限に抑えるよう、慎重に。 扉をほんの僅かだけ開く。 差し込んだ朝の光が、暗い通路へ細く流れ込んだ。 その隙間から外を確認する澪の横顔は、地下基地で見せていた時以上に鋭い。 視線だけで周囲を探る。 「……今なら行ける」 その一言で、自分でも気づかないうちに詰めていた息を少しだけ吐き出す。 澪は扉を人一人通れる程度まで開き、先に外へ出た。 「私から離れないで」 「ああ」 その背中を追って、地下から外へ足を踏み出す。 そこは喫茶店の裏口――というより、建物裏の搬入口に近い場所だった。 表通りからは死角。 古いコンテナや清掃道具、使われなくなった看板に紛れるように存在している。 なるほど。 確かに、正面から見るだけじゃ気づきにくい。 「こっち」 そこに停まっていたのは、ここへ来る時に使った車じゃない。 もっと古い。 少し色褪せたシルバーのコンパクトカー。 正直、どこにでもありそうで印象に残りにくい。 「……別の車?」 「昨日の車をそのまま使うほど甘くないわ」 言いながら、澪は運転席のロックを解除する。 「追跡される可能性があるものは、できるだけ切る。基本でしょ」 ……本当に、徹底してる。 少しだけ呆れながらも、その“徹底”が今の生存率を支えていることも理解していた。 助手席へ乗り込んでシートに深く腰を下ろした瞬間、地下とは違う“動き出すための現実”が急に輪郭を持つ。 エンジンが静かにかかる。 澪は前方を見据えたまま、小さく息を吐いた。 「目的地は、レイヴンの指定ポイント付近」 「……いよいよ、って感じだな」 「ここから先は……今までより、ずっと危険よ」 その言葉に、軽さはなかった。 俺は短く、前を向いたまま返す。 「……だから行くんだろ」 一瞬だけ、澪がほんの僅かに口元を緩めた気がした。 「そうね」 車が静かに動き出す。 喫茶店の裏口、地下基地、束の間の潜伏。 それらを少しずつ後ろへ置き去りにしながら朝の街へ。 何も知らず、朝を生きる人々の中へ。 そして俺たちは、その普通の裏側にある真実へ向かう。 もう、止まれない。 ここから先は――自分の足で、自分の意志で、“知らないまま”を終わらせに行くんだ。
翔「レイヴン…名前だけでもうさんくせぇな」 澪「裏社会を生きる人間なんて、そんなもんでしょ」 僕『僕、嫌な予感がするよ……』 戦闘狂『おっ、いよいよ戦えんのか!?』 賢者『判断材料にはなりませんが、警戒は推奨します』 お嬢『ふふっ、危険な硝煙の香りがしますわね』 悪の権化『ククッ……玩具は壊してこそ、だよねぇ?』 翔「次回、第10話『待ち伏せ』――お前ら遠足じゃねぇんだぞ?」

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