RenHazumi / 第15話

第15話「報酬は、金だけじゃない」

第15話「報酬は、金だけじゃない」 --- 月曜、7時00分 赤坂レジデンス――1203号室(港区) 蓮は、いつもとは少し違う感覚で目を覚ました。 夢を見たからではない。 外の物音のせいでもない。 ただ、頭の中がいつもより鮮明だった。 蓮はベッドの端に腰を下ろし、サイドテーブルに置かれていたスマートフォンを手に取る。 そして《絶対資産支配システム》を開いた。 透明な画面が浮かび上がる。 《絶対資産支配システム》 黒瀬 蓮 年齢:21歳 純資産:199億円 物質欲求:2% 無欲倍率:×65 保有スキル: ・《資産分析 EX》――資産分析(ランク:EX) ・《企業管理》――企業管理(ランク:C) ・《交渉術》――交渉術(ランク:A) ・《空間管理》――空間管理(ランク:C) ・《組織管理》――組織管理(ランク:B) 新規スキル: ・《交渉術 EX》――交渉術(ランク:EX) 《交渉術》がランクEXへ上昇しました。 蓮は、その文字をしばらく見つめた。 新しいスキル。 正確には、すでに持っていた能力の強化だった。 《交渉術 EX》。 相手の話を理解し、状況を読み取り、双方の接点を見つけ、さらに高い精度で交渉の手順を組み立てる能力。 蓮は画面をロックした。 「使えるなら、そのうち分かるだろ」 ベッドから立ち上がる。 キッチンでは電気ケトルが湯を沸かし始めていた。 蓮は側面に小さなひびの入った白いマグカップを取り、インスタントコーヒーを入れる。 そしてノートパソコンを開いた。 新しいメールが一通届いている。 差出人:高橋 健司 件名:取引先の危機――ヤマト物流 «黒瀬様。 緊急の問題が発生しております。 ヤマト物流の主要取引先の一社、Sakura Freight株式会社が社内危機に直面しております。 同社の経営者、佐倉 大輔氏は現在、契約違反の疑いに関する法的問題を抱えております。 Sakura Freightは、関東地域におけるヤマト物流の輸送需要のおよそ40%を担っております。 同社の営業継続が困難となった場合、ヤマト物流は極めて重要な輸送網を失うことになります。 財務的な影響は年間8億円に達する可能性があります。 早急な対応を推奨いたします。 高橋 健司» 蓮はメールを二度読んだ。 Sakura Freight。 主要取引先。 関東の輸送網の40%。 蓮はマグカップを持ち上げ、コーヒーを一口飲む。 苦い。 熱い。 いつも通り。 蓮はマグカップを見る。 「……少なくとも、これはまだ変わってないな」 再びノートパソコンへ視線を戻す。 もし本当にその会社が倒れれば、影響を受けるのはSakura Freightだけではない。 ヤマトも直接的な打撃を受ける。 そして、その二社の背後には、彼らの業務に生活を預けている何百人もの人間がいる。 蓮は短く息を吐いた。 「面倒だな」 だが、すでに手はキーボードへ伸びていた。 --- 8時00分 赤坂レジデンス――1203号室 蓮は新しいメールを開いた。 宛先:高橋 健司 件名:Re: 取引先の危機――ヤマト物流 «高橋さん。 この件は俺が対応する。 今日中に佐倉 大輔さんとの面談を設定してくれ。 黒瀬 蓮» クリック。 メールが送信される。 蓮はノートパソコンを閉じた。 寝室へ向かう。 クローゼットの扉を開く。 その中には、以前ならほとんど持っていなかった服が、今ではきれいに並んでいた。 スーツ。 シャツ。 フォーマルパンツ。 靴。 腕時計。 すべてシステムから与えられた一連の報酬だった。 蓮はいくつかの服を見比べる。 ビジネスの面談。 正式な式典ではない。 だが、服装を適当に選べるほど重要度が低いわけでもない。 最終的に、白いシャツ、ダークグレーのブレザー、黒いパンツ、革のフォーマルシューズを選んだ。 左手首にはGrand Seiko Snowflake。 蓮は鏡の前に立つ。 髪を適当に整える。 余計なアクセサリーはつけない。 目立とうともしていない。 「これでいい」 黒いリュックを手に取る。 そして1203号室を出た。 --- 9時30分 赤坂レジデンス――地下B2 → 新宿方面 蓮は駐車場へ降りた。 B2では、二台の車がそれぞれのスペースに並んでいる。 47番スロット。 MANSORY P9LM EVO 900。 その隣、48番スロット。 Ghost Series II by MANSORY。 そして、最新の車両報酬―― Ko〇〇nigsegg Je〇〇ko by MANSORYは、B3の専用スロットに保管されている。 蓮は三台の前を通り過ぎる。 今日選んだのはP9LMだった。 Jeskoが劣っているからではない。 むしろ逆だ。 ビジネス街へ入り、新宿周辺を移動するなら、P9LMのほうが実用的に感じる。 蓮は運転席へ乗り込む。 エンジンが始動する。 低い音が駐車場に響いた。 数秒後、車は赤坂レジデンスを出る。 赤坂。 六本木通り。 新宿方面。 東京の朝は、いつも通りに動いていた。 薄い青空。 細い雲。 交通量は多いが、流れはまだ順調だ。 蓮は落ち着いてハンドルを握る。 頭の中には、先ほどの高橋からのメールが残っていた。 佐倉 大輔。 法的問題。 45人の従業員。 関東の輸送需要40%。 「もし、あの会社が倒れたら……」 信号が変わり、蓮は速度を落とす。 「……ヤマトも巻き込まれる」 蓮は問題が好きではない。 だが、今回の問題はすでに、自分が責任を負う領域へ入っている。 蓮は息を吐く。 「俺が片付ける」 --- 10時15分 ヤマト物流――3階・会議室 会議室のドアが開く。 蓮が入る。 数人がすぐに立ち上がった。 中島 浩が二人のマネージャーとともにテーブルの端に座っている。 反対側には、50歳ほどの男が座っていた。 白いシャツには少し皺がある。 裾がズボンからわずかに出ている。 ネクタイは緩く結ばれていた。 髪は少し薄くなっている。 何日もまともに眠れていないような顔だった。 佐倉 大輔。 Sakura Freightの経営者。 中島が頭を下げる。 「黒瀬様」 蓮は席に座る。 「座ってください」 全員がそれぞれの席に戻る。 蓮は佐倉へ視線を向けた。 男は明らかに緊張している。 「黒瀬様……お時間をいただき、本当にありがとうございます」 「何があった?」 質問は直接的だった。 前置きはない。 佐倉は息を吸う。 「法的な問題を抱えています」 テーブルを見る。 「ある大手企業から、契約違反を指摘されています」 「やったのか?」 佐倉はすぐに首を横に振った。 「いいえ」 答えは即座だった。 「私は、その契約に違反したことは一度もありません。ですが、法的手続きは進んでいて、その間も会社は運営費用を払い続けなければなりません」 蓮は彼の顔を見る。 「会社はどれくらい持つ?」 佐倉は黙った。 「このまま何も変わらなければ……そう長くはありません」 「ヤマトへの影響は?」 「ヤマトは関東地域の輸送能力の約40%を失うことになります」 蓮は背もたれに身体を預ける。 「従業員は?」 「45人です」 その答えは少しだけ小さかった。 「全員、私と長く働いてきた人間です」 蓮はすぐには答えなかった。 数秒、佐倉を見つめる。 この男は疲れている。 だが、心配しているのは自分自身だけではない。 それがはっきりと分かった。 蓮はスマートフォンを取り出す。 システム画面が開く。 《交渉術 EX》 ランク:EX 状態:稼働中 複雑な交渉を高い精度と速度で理解・分析・解決する能力。 適用範囲: ・相手の心理を読み取る ・双方に利益のある解決策を見つける ・強みと弱点を特定する ・交渉戦略を構築する ・信頼関係を築く 蓮はすべてを読む。 そして画面を閉じた。 「……面白い」 再び佐倉を見る。 「佐倉さん」 「はい?」 「最初から話して」 佐倉が瞬きをする。 「最初から……ですか?」 「あなたが小さいと思ってる部分も飛ばさないで」 蓮の口調は変わらない。 「そういうところが、意外と重要だったりする」 佐倉は長く息を吐いた。 「分かりました」 そして、話し始めた。 --- 10時30分 ヤマト物流――3階・会議室 それから約30分。 佐倉はすべてを説明した。 大手企業との契約について。 自分では曖昧だと感じていた条項について。 契約違反を指摘された経緯。 遅々として進まない法的手続き。 積み重なり続ける支払い義務。 Sakura Freightの現在の状況。 そして、彼からの判断を待つ45人の従業員について。 蓮は口を挟まなかった。 焦って助言することもしなかった。 ただ聞いていた。 時折、佐倉の表情に合わせて視線を動かす。 《交渉術 EX》が静かに働いている。 声の調子。 答え方のパターン。 迷い。 プレッシャー。 口にされなかったこと。 すべてが、以前よりはっきりと見えていた。 結論は単純だった。 佐倉は蓮を利用しようとしているわけではない。 本当に追い詰められている。 蓮は続いて、佐倉が説明した契約の構造へ意識を向けた。 何かがおかしい。 一つの抜け道。 どうやら大手企業側は、条項の曖昧さを利用してSakura Freightを追い込んでいるらしい。 蓮は指先で一度だけテーブルを叩いた。 佐倉が話し終える。 「以上です」 蓮は中島を見る。 「契約書のデータを全部用意して」 中島はすぐにメモを取る。 「追加資料もですか?」 「全部」 蓮は続けた。 「過去のやり取り、正式な通知、契約変更の履歴、それから問題になったことのある条項を全部」 中島が頷く。 「すぐに用意します」 蓮は再び佐倉を見る。 「俺が手伝う」 佐倉は驚いたような顔をした。 「なぜ……?」 「Sakura Freightはヤマトの取引先だから」 蓮は一度言葉を止める。 「それに、話を聞く限り、あなたはその違反をしていない」 佐倉は頭を下げる。 肩がわずかに震えた。 「ありがとうございます……」 蓮はその場を長引かせなかった。 「じゃあ、解決策を探そう」 立ち上がる。 「契約からだ」 --- 12時00分 ヤマト物流――3階・会議室 契約書がようやくテーブルの上に並んだ。 80ページ。 蓮は素早く読み進める。 《資産分析 EX》が契約の背後にある財務構造を理解するのを助ける。 《交渉術 EX》は別の側面で働いていた。 義務。 権利。 リスク。 圧力をかけられる点。 結果。 条項同士の関係。 蓮は最後のページをめくる。 そして、前の部分へ戻った。 第7B条。 蓮の手が止まる。 「ここだ」 中島が近づく。 「第7B条ですか?」 「ああ」 蓮はその部分を指差す。 「相手は、契約で定められた期限内に通知を行わずに、こちらを違反だと主張している」 中島はもう一度読み直す。 表情が変わった。 「ということは……」 「向こうも契約違反をしてる」 部屋が静まり返る。 蓮は顔を上げる。 「中島さん」 「はい?」 「うちの弁護士を呼んで」 「何のために?」 「反訴する」 中島が蓮を見る。 「反訴……ですか?」 「あの会社はSakura Freightを一方的に責めてるだけじゃない。同じ条項を自分たちも破ってる」 中島はまだ信じられないような顔をしていた。 「しかし、黒瀬様。どうしてこんなに早く、その部分を見つけられたのですか?」 蓮は積み上げられた書類を見る。 「読んだから」 「80ページですよ?」 「それが?」 中島は黙った。 蓮は再び契約書を見る。 「弁護士を呼んで」 今度は中島もすぐに動いた。 「承知しました」 --- 14時00分 ヤマト物流――3階・会議室 再びドアが開く。 45歳ほどの男が入ってきた。 黒いスーツ。 細い眼鏡。 短い黒髪。 真剣な表情。 黒田 武。 黒瀬ホールディングスを担当する弁護士だった。 彼は書類をテーブルに置く。 「黒瀬様」 蓮は彼を見る。 「条項は?」 黒田はファイルを開く。 「7B条は、黒瀬様がおっしゃった通りの効力を持ちます」 書類を指差す。 「そして相手方は、ここに記載された通知義務を実際に履行していません」 「つまり、相手の立場は弱い」 「契約上は、かなり弱いと言えます」 蓮は迷わず決めた。 「反訴する」 黒田はしばらく蓮を見る。 「それをすると、交渉はかなり厳しくなります」 「それが目的だ」 黒田は薄く笑った。 「大胆な一手ですね」 蓮は再び書類を見る。 「でも、必要だ」 黒田は頷いた。 「書類を準備します」 「証拠は全部添付してくれ」 「もちろんです」 黒田はファイルを閉じる。 「では、本日から着手します」 --- 16時00分 ヤマト物流――2階・待合室 その日の主な仕事は終わった。 蓮は窓の近くに座っていた。 外では、新宿の高層ビル群が夕方の光の下に密集している。 向かいには佐倉が座っていた。 まだ疲労の色が残っている。 「黒瀬様」 蓮が顔を向ける。 「本当に、何と言えばいいのか分かりません」 「言わなくていい」 「でも、あなたはここまでしてくれた」 蓮は佐倉の顔を見る。 「理由がある」 佐倉が顔を上げる。 「理由?」 「あなたは俺たちの取引先だから」 蓮は静かに続けた。 「Sakura Freightが止まれば、ヤマトも影響を受ける」 一度、言葉を止める。 「それに、45人が仕事を失う」 佐倉は黙った。 「その人たちのことまで考えていたんですか?」 蓮は小さく頷く。 「数字じゃないから」 その簡単な言葉に、佐倉は俯いた。 目が潤んでいる。 「そんなことを言ってくれた人は、久しぶりです」 蓮は立ち上がる。 「今日はここまででいい」 佐倉が顔を上げる。 「明日は?」 「黒田が書類を準備したら、続きをやる」 蓮はリュックを手に取る。 「あなたも休んだほうがいい」 佐倉は立ち上がり、深く頭を下げた。 「ありがとうございます、黒瀬様」 蓮は短く頷いただけだった。 そして部屋を出る。 --- 17時30分 ヤマト物流――駐車場 → 赤坂 蓮はP9LMに乗り込む。 エンジンが始動する。 今回は、その音にあまり意識を奪われなかった。 頭の中を占めていたのは、佐倉の顔だった。 50歳の男。 疲れ切っていた。 追い詰められていた。 それでも、自分のもとで働く45人のことを考えていた。 蓮は赤坂へ向かって車を走らせる。 「……本当に、あの人は気にかけてるんだな」 赤信号。 車が止まる。 蓮は前方の道路を見る。 「だったら、最後まで手伝うか」 信号が青になる。 P9LMが再び走り出した。 --- 18時00分 赤坂レジデンス――1203号室 蓮は部屋へ戻った。 車の鍵をテーブルに置く。 リュックを椅子に置く。 そしてソファに座る。 長い一日だった。 蓮はスマートフォンを取り出した。 システム画面が開く。 《無欲行動を確認》 利用者は、個人的な利益を求めず、取引先を支援しました。 利用者は、他者の問題を解決するためにスキルを使用しました。 利用者は、財産や権力を誇示しませんでした。 《無欲ボーナス:×70》 《報酬:10億円》 《実績解除》 【Trusted Partner】 信頼されるパートナー 蓮は画面を見つめた。 10億円。 もう、それほど驚かなくなっている。 しかし今回は、何かが違った。 蓮はスマートフォンをロックする。 佐倉は自分を信頼した。 金が理由ではない。 車でもない。 今、自分の名義になっている会社でもない。 その信頼は、たった一つの簡単な行動から生まれた。 誰かが困っているときに、手を差し伸べること。 蓮は立ち上がり、キッチンへ向かう。 緑茶をカップに注ぐ。 再びソファへ戻る。 スマートフォンが震えた。 メッセージが一件届いている。 差出人:高峰 静香 «黒瀬様。 Sakura Freightの件を聞きました。 大丈夫でしょうか? 高峰 静香» 蓮はメッセージを読む。 静香。 書類をいつも細かく確認し、小さな部分も見逃さず、一つ一つの言葉に根拠が必要だと言わんばかりに話す女性。 蓮の指が画面を動く。 宛先:高峰 静香 «大丈夫です。 心配してくれて、ありがとうございます。 黒瀬 蓮» 送信。 蓮はスマートフォンをテーブルに置く。 視線を窓へ向ける。 美雪。 静香。 西園寺 麗華。 三人の女性。 それぞれ違う形で、少しずつ蓮の生活へ入ってきている。 蓮は息を吐いた。 「……この世界、本当に俺を静かに暮らさせる気がないな」 --- 19時00分 赤坂レジデンス――1203号室 東京に夜が降り始める。 ビルの明かりが一つ、また一つと灯っていく。 蓮は再びシステムを開いた。 《現在の総資産:209億円》 《物質欲求:2%》 《無欲倍率:×70》 209億円。 数週間前なら、考えたことすらなかった数字。 今では、その数字がほとんど毎日のように表示される。 だが、蓮の意識は別の部分へ向いていた。 Trusted Partner。 佐倉のことを思い出す。 誰かから信頼されるということは、口座の数字とは違うものなのだと気づく。 蓮はソファに頭を預ける。 「金より価値がある……」 しばらく黙る。 そして、薄く笑った。 満足した笑みではない。 何かに初めて気づいた人間のような笑みだった。 「……まあ、システムが相変わらず意味不明なのは変わらないけどな」 蓮はアプリを閉じた。 すべてを理解する必要はないのかもしれない。 これまで蓮は、ずっと理由を探していた。 なぜ金が入ってくるのか。 なぜ企業が現れるのか。 なぜスキルが与えられるのか。 なぜ何かを求めないたびに、むしろ多くのものが自分のもとへやって来るのか。 だが今夜は、その疑問が少しだけ重要ではなくなっていた。 蓮は立ち上がる。 寝室へ向かい、ベッドに横になる。 照明を消す。 「……明日、続きだ」 目を閉じる。 今日はスキルを使った。 今日は誰かを助けた。 そして、不思議なことに―― 純資産が数十億円どころか200億円を超えようとしているにもかかわらず、蓮はまだ静かな生活を送りたいだけの普通の大学生のような気分だった。 数分後、蓮は眠りについた。 --- 別の場所――新宿 佐倉 大輔は、まだ自分の仕事場にいた。 目の前には契約書が開かれている。 蓮から渡されたメモを、もう一度読み返す。 あの青年は、まだ21歳だ。 大学生。 ヤマト物流のオーナー。 そして今、法的手続きが終わるのを待つという選択をせず、佐倉の前に立っている人間。 佐倉は頭を下げる。 「黒瀬 蓮……」 その名を小さく口にする。 契約書を見る。 「本当に、助けてくれたんだな」 佐倉はファイルを閉じた。 ここ数日で初めて、少しだけ心が軽くなった。 問題がまだ終わっていないことは分かっている。 それでも今は―― 一人で向き合っているわけではない。 --- 別の場所――高峰 静香の職場 静香は自分の机の前に座っていた。 デスクライトが、積み上げられた監査書類を照らしている。 スマートフォンはノートパソコンの隣に置かれている。 蓮からのメッセージが、まだ画面に表示されていた。 «大丈夫です。 心配してくれて、ありがとうございます。» 静香はその文章をもう一度読む。 そして、もう一度。 小さく息を吐く。 「……あの人は、いつもそうですね」 落ち着いている。 短い。 けれど、冷たいわけではない。 静香はスマートフォンを置く。 再び書類へ手を伸ばす。 しかし、その集中はもう完全ではなかった。 なぜか、また蓮のことを考えてしまう。 黒瀬 蓮。 会社を持ち、途方もない資産を持ちながら、まったく現実味のない生活を送っている21歳の大学生。 それでも、誰かが助けを必要としているとき―― 先に利益を計算することはない。 静香はパソコン画面を見る。 「……どうして、私はずっとあの人のことを考えてるんだろう」 答えはない。 彼女は再び報告書を読む。 しかし、数秒後にはまた思考が蓮へ戻っていた。 --- 【次回予告】 第16話「初めての本格的な商談」 「初めての本格的な商談」 Sakura Freightの問題は、まだ終わっていない。 むしろ蓮が介入したことで、状況はさらに深刻な段階へ入っていく。 ある大企業が、Sakura Freightの買収に動き始める。 経験豊富な経営陣たちは、黒瀬ホールディングスの若きオーナーが自分たちの土俵についてこられるはずがないと確信していた。 彼らは、まだ一つのことを知らない。 蓮には、今や《交渉術 EX》がある。 そして初めて、蓮は財務報告書を読むだけでは解決できない、本格的なビジネスの世界と直接向き合うことになる。 その一方で―― **「黒瀬ホールディングス」**という名前が、日本のビジネス界で少しずつ知られ始めていた。 そして、その会社の名前とともに―― **「黒瀬 蓮」**という名前もまた、本来なら彼に注目するはずのなかった人々のレーダーへ、少しずつ入り始めていた。 【第16話へ続く……】

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