RenHazumi / 第10話

第10話「名前くらい、決めてもいいだろ」

第10話「名前くらい、決めてもいいだろ」 --- 水曜日、07:00 赤坂レジデンス――1203号室、港区 蓮は、いつもとは少し違う感覚を抱えたまま目を覚ました。 夢を見たわけではない。 音がしたわけでもない。 ただ―― 何かが、頭の片隅に引っかかっている。 まだ終わっていない何か。 蓮はベッドの端に腰を下ろし、スマートフォンへ手を伸ばした。 画面が点灯する。 いつものように、《絶対資産支配システム》の情報が表示された。 《絶対資産支配システム》 黒瀬 蓮 年齢:21 純資産:64億円 物質欲求:2% 無欲倍率:×40 保有スキル: ・《資産分析 EX》 ランク:EX ・《企業管理》 ランク:C ・《交渉術》 ランク:B 保有企業: ・ヤマト物流株式会社 従業員87名 ・三井海産食品株式会社 従業員120名 特別報酬: ・Koenigsegg Jesko by MANSORY――発送準備完了 ・超高級フルセット・ラグジュアリー・アパートメント――準備中 蓮は、その一覧をもう一度読む。 二社。 207人の従業員。 そして、まだ届いてすらいない二つの特別報酬。 蓮は画面をロックした。 「……結構増えたな」 ベッドから立ち上がり、キッチンへ向かう。 電気ケトルのスイッチを入れる。 湯が沸くのを待ちながら、ノートパソコンを開いた。 新しいメールが届いていた。 差出人:高橋 健司 件名:本日の予定 黒瀬様 本日は、現在保有されている企業の所有構造と、今後の運営方針について、いくつかご相談したい事項がございます。 午前10時に、黒瀬アセットマネジメントのオフィスでお会いできればと思います。 高橋 健司 蓮はメールを二度読んだ。 内容が難しかったからではない。 むしろ、その逆だった。 一つの言葉が目に留まった。 所有構造。 「今度は何だ……」 その瞬間、ケトルが鳴った。 蓮はひびの入った白いマグカップに熱湯を注ぐ。 インスタントコーヒー。 ゆっくりとかき混ぜ、一口飲む。 苦い。 熱い。 普通だ。 蓮はマグカップを見つめた。 「少なくとも、これは変わってないな」 再びノートパソコンを見る。 ヤマト物流は、確実に良い方向へ動き始めている。 債務再編も進んでいる。 利払い負担も減った。 新しい提案も準備されている。 数日前まで、その会社の存在すら知らなかった人間としては―― それだけでも十分すぎるほどだった。 だが、高橋は今度は所有構造について話している。 あの男が、そういう言葉を使うときは―― たいてい、その裏にもっと大きな何かがある。 --- 07:15 赤坂レジデンス――1203号室 蓮はノートパソコンを前に、床に座っていた。 新しいメールを開き、文字を打ち始める。 高橋 健司さんへ 高橋さん。 報告ありがとうございます。 本日、お会いできます。 10時に、そちらのオフィスでどうですか? 黒瀬 蓮 蓮はメッセージを読み返す。 付け加える理由はない。 送信ボタンを押す。 ノートパソコンを閉じる。 視線を窓へ向けた。 「新たな機会……」 数日前まで、蓮の生活は大学、安い食事、ドキュメンタリー番組、そして小さなマンションだけで成り立っていた。 それが今では―― 物流会社を所有している。 その次に、水産食品会社まで所有している。 従業員は合計207人。 そして、何か問題が起きるたびに新しい話を持ってくる、元投資会社幹部までいる。 蓮は息を吐いた。 「このシステム、本当に俺を静かに暮らさせる気ないな」 返事はない。 当然だ。 蓮は立ち上がり、出かける準備を始めた。 --- 09:30 赤坂レジデンス → 地下駐車場B2 → 丸の内方面 蓮は地下へ降りる。 Mansory P9LM EVO 900は、47番の駐車スペースにまだ停まっていた。 運転席のドアを開け、乗り込む。 エンジンが始動する。 低い音が、駐車場内に静かに響いた。 蓮はゆっくりと地下駐車場を出る。 その日の東京の空は晴れていた。 淡い青空に、薄い雲が浮かんでいる。 道路も徐々に混み始めていた。 タクシー。 バス。 歩行者。 手にコーヒーを持ち、足早に歩く会社員。 蓮はそれらを横目に通り過ぎる。 しかし―― 頭の中では、ずっと一人の男のことを考えていた。 高橋。 あの男は有能だ。 かなり有能。 いや―― 有能すぎるのかもしれない。 必要な書類を、いつも正確に把握している。 どの会社が問題を抱えているのかも知っている。 そして、必ず次の一手を用意している。 何度か―― まるで、これから起きることを知っているかのように振る舞ったことさえある。 蓮はハンドルを握る。 「疑いすぎるな」 少し間を置く。 「でも、油断もするな」 車はそのまま丸の内へ向かって走り続けた。 --- 10:00 黒瀬アセットマネジメント――8階、会議室 会議室は、前と変わっていなかった。 長い木製テーブル。 革張りの椅子。 プレゼンテーション用のモニター。 書類棚。 余計な装飾はない。 大きな窓の向こうには、遠く皇居が見えている。 高橋はすでに待っていた。 グレーのスーツ。 濃紺のネクタイ。 いつも通り、落ち着いた表情。 蓮が入ってくると、高橋は立ち上がった。 「黒瀬様。本日もお越しいただき、ありがとうございます」 蓮は向かいの椅子に座る。 「何ですか?」 高橋も座り直した。 一枚のファイルを開く。 「いくつかご相談したい事項がございます。まずは、現在保有されている企業の所有構造についてです」 蓮が顔を上げる。 「所有構造?」 「現在、ヤマト物流と三井海産食品は、黒瀬アセットマネジメントを通じて、黒瀬様が直接所有する形になっております」 「そうだな」 「二社であれば、この形でも問題なく運営できます。しかし、今後さらに企業が増えた場合、管理の効率が落ちていきます」 高橋は数枚の資料を取り出した。 「そこで、親会社となる法人の設立を提案いたします」 蓮は資料を見る。 「持株会社?」 「はい」 高橋は一枚のページを開く。 「親会社そのものが日々の事業運営を行う必要はございません。傘下企業の株式を保有することが主な役割です。そうすることで、所有権、監督、資本配分、そして今後の買収まで、一つの構造で管理できるようになります」 蓮は背もたれに体を預けた。 なるほど。 そういうことか。 他の会社を傘下に置くための会社。 問題は―― 蓮自身、まだ一社を所有することにすら慣れていないことだった。 それなのに今度は、二社の上にさらに一つの構造を作ろうとしている。 「本当に必要なのか?」 「現時点では、必須ではございません」 高橋は一度ファイルを閉じた。 「ただし、長期的に考えれば、この形のほうがはるかに効率的です。特に、今後も新しい企業を保有されるのであれば」 蓮は高橋を見る。 最後の一言が、あまりにも自然だった。 今後も新しい企業を保有されるのであれば。 まるで、それが当然のことのように。 蓮はスマートフォンを取り出した。 《絶対資産支配システム》を開く。 予想していた通り―― 新しい情報が表示された。 《新規プロジェクト》 新規プロジェクト 持株会社の設立 状態:推奨 報酬: ・無欲ボーナス ×45 ・20億円 ・《組織管理》――ランク:B ・実績:【創業者】 会社名は利用者が選択できます。 蓮は表示された情報を最後まで読む。 20億円。 新しいスキル。 新しい実績。 そして最後の一文。 会社名は利用者が選択できます。 蓮は画面から顔を上げた。 「……今度は名前まで俺に決めさせるのか」 高橋は薄く笑った。 「そのようですね」 蓮はスマートフォンをポケットへ戻した。 本当に、新しい会社が必要なわけではない。 だが―― 20億円という数字は、さすがに無視しにくかった。 金が欲しいからではない。 それよりも―― どうせこの構造を作る必要があるのなら、せめて一つくらいは自分で決めたい。 「分かった。作ろう」 高橋が頷く。 「では、会社名を決める必要がございます」 蓮は黙った。 名前。 そこが、思っていた以上に難しかった。 --- 10:30 黒瀬アセットマネジメント――8階、会議室 高橋が新しいページを開く。 「いくつか候補がございます。一般的な企業名を使うこともできますし、黒瀬様の姓を使うことも可能です」 蓮は背もたれに寄りかかった。 「姓か」 「黒瀬、でしょうか?」 蓮は目の前の白紙を見る。 黒瀬。 生まれたときから使ってきた名前。 特別なものではない。 父も黒瀬。 母にとっても、家族を示すただの名字だった。 大企業があるわけでもない。 財閥でもない。 莫大な遺産があるわけでもない。 ただ一つの名字。 蓮はペンを指の間で回す。 「黒瀬ホールディングス」 高橋のペンが止まった。 「黒瀬ホールディングス……」 もう一度、口にする。 響きを確かめるように。 そして微笑んだ。 「シンプルで覚えやすい。しかも、所有者との直接的なつながりもあります」 「複雑にすると覚えにくいだろ」 高橋が小さく笑う。 「おっしゃる通りです」 高橋はその名前を書き込んだ。 黒瀬ホールディングス株式会社 すべてが始まってから―― 蓮が初めて、システムとは関係なく何かを選んだ。 報酬のためでもない。 金のためでもない。 財務分析の結果でもない。 ただ―― 自分自身の名前だから。 それだけだった。 --- 11:30 黒瀬アセットマネジメント――8階、会議室 話は続いた。 高橋は株式構成について説明する。 所有関係。 取締役会。 本社所在地。 持株会社と子会社の関係。 税務関連の書類。 資本の配分経路。 蓮は真剣に聞いていた。 理解できない部分があると、時折質問する。 多くはない。 しかし今回は、ただ説明を受け入れているだけではなかった。 《企業管理》が、企業同士の関係を理解する助けになっている。 そして《資産分析 EX》によって、報告書に並ぶ数字も以前とは比べものにならないほど簡単に読み取れる。 以前なら―― こういう話は外国語のように感じただろう。 今では―― 所有構造や資本の流れを、数ページ見るだけで理解できる。 高橋がノートパソコンを閉じた。 「初期段階としては、これで十分です。設立関連の書類は本日中に準備いたします」 蓮は立ち上がった。 「ありがとう」 ドアへ向かう。 しかし―― 出る直前で足を止めた。 「高橋さん」 高橋が振り返る。 「はい?」 蓮はしばらく高橋を見る。 ここ数日、ずっと気になっていた疑問。 それを、ようやく口にした。 「どうして俺を助ける?」 部屋が静かになる。 高橋はすぐには答えなかった。 やがて椅子に体を預ける。 「私は投資の世界で三十年間、仕事をしてきました」 声は穏やかだった。 「多くの金持ちを見てきました。多くの権力者も。すでに持っているものより、さらに多くを欲しがる人間も数え切れないほど見てきました」 蓮は黙っている。 「ですが、黒瀬様は違います」 「何が?」 高橋は小さく笑う。 「あなたは、そういうものを追いかけていない」 蓮は答えない。 「金が入っても、さほど気にしない。車を与えられても、大学へ通う。会社を持っても、自分が会ったことすらない従業員のことを考える」 高橋の目が少し深くなる。 「私は、あなたのような人を見たことがありません」 蓮は片手をポケットに入れる。 「それだけで、人を助ける理由にはならないだろ」 「そうかもしれません」 高橋は少し間を置いた。 「ですが私にとっては、あなたがどこまで行けるのか見てみたいと思うには十分でした」 蓮は高橋を見る。 その答えに、完全には納得できなかった。 しかし―― 今ここで無理に聞いても、何も出てこないことは分かっている。 「まだ何か隠してるな」 高橋はただ笑った。 「そうかもしれません」 それ以上の説明はなかった。 蓮は、ついにドアを開ける。 「またな、高橋さん」 「お気をつけてお帰りください、黒瀬様」 蓮が出ていく。 ドアが閉まる。 高橋は再び、机の上に置かれた書類へ視線を戻した。 そこには、新しい名前がはっきりと記されていた。 黒瀬ホールディングス株式会社 --- 13:00 黒瀬アセットマネジメント → 駐車場 → 大学方面 蓮は再び車に乗った。 目的地は大学。 東京はまだ忙しく動いている。 しかし、蓮の意識は完全に道路へ向いているわけではなかった。 黒瀬ホールディングス。 その名前が、何度も頭に浮かぶ。 ヤマト物流と三井海産食品を傘下に置く会社。 それを想像する。 妙な感覚だった。 数日前まで―― あれほどの金額が入った口座すら持っていなかった。 それが今では―― 自分の名前が、持株会社の書類に印刷されている。 蓮は息を吐いた。 黒瀬。 その名前から、家族のことを思い出す。 父。 母。 普通の生活。 特別なものなんて何もない。 大きな事業もない。 投資の世界とのつながりもない。 「もし、二人が知ったら……」 蓮はそこで言葉を止めた。 何と言うだろう。 自分にも分からない。 蓮は再び道路へ意識を戻す。 「……それは後でいい」 車はそのまま走り続けた。 --- 14:00 大学――図書館 蓮は図書館の隅に座っていた。 目の前には、企業構造についての本が開かれている。 課題だから読んでいるわけではない。 さっき自分が同意したことを理解したかっただけだ。 持株会社。 子会社。 所有構造。 取締役会による企業統治。 資本配分。 ページをめくる。 一つずつ、素早く読み進める。 蓮は重要な部分をノートに書き留めていく。 そのとき―― スマートフォンが振動した。 画面が点灯する。 《企業登録完了》 企業登録完了 黒瀬ホールディングス株式会社 状態:登録済み 所在地:港区赤坂 代表取締役:黒瀬 蓮 資本金:10億円 報酬: ・無欲ボーナス ×45 ・20億円 ・《組織管理》――ランク:B ・実績:【創業者】 蓮は画面を見る。 20億円。 新しいスキル。 新しい実績。 一度読む。 そして画面を消した。 特別な表情はない。 「……本当にできたな」 目の前の本を見る。 これで、すべてが少しだけ現実味を帯びてきた。 ヤマト物流。 三井海産食品。 そして、その二社を傘下に置く黒瀬ホールディングス。 三つの名前。 一人の所有者。 蓮は椅子に背を預けた。 「……俺、本当に持株会社まで持ったのか」 図書館の天井を見る。 早すぎる。 あまりにも早すぎる。 蓮は本を閉じる。 そして立ち上がった。 --- 16:00 大学 → 地下駐車場B1 蓮は駐車場へ向かって歩いていた。 帰ろうとしていた。 しかし、駐車場へ着いたところで―― 足が止まった。 誰かがP9LMのそばに立っている。 黒いスーツの女性。 長くまっすぐな青みがかった黒髪。 青灰色の瞳。 伸びた背筋。 鋭い視線。 如月 美雪。 蓮が近づく。 「如月さん」 美雪が振り向く。 「黒瀬様」 余計な挨拶はない。 蓮は数歩手前で立ち止まる。 「何か用?」 「少しお話ししたいことがあります」 「何について?」 美雪は蓮をまっすぐ見つめる。 「高橋 健司についてです」 その名前を聞いた瞬間、蓮の意識が変わった。 「高橋が?」 美雪は直接答えず、薄いファイルを取り出した。 「調べました」 蓮はファイルを受け取らない。 ただ聞いている。 「高橋 健司は、投資会社で三十年間勤務していました。昨年退職。犯罪歴はありません。大きな法的問題も確認されていません」 「それで?」 美雪はファイルを開く。 「黒瀬アセットマネジメントが設立されたのは、最初の資金が黒瀬様の口座へ送金される三日前です」 蓮は黙った。 美雪は続ける。 「その会社は黒瀬様の名義で設立されています。初期資本金も、そこから出ています。そして、黒瀬様がその存在を知る前に、会社の所有構造まで完成していました」 蓮はファイルを見る。 それは蓮にとって、新しい情報ではない。 しかし―― 美雪の口から聞くと、意味が違って感じられた。 美雪が顔を上げる。 「私が知りたいのは、一つです」 鋭い視線。 「高橋 健司とは、一体何者なのですか?」 蓮はすぐには答えなかった。 今朝の会話を思い出す。 高橋は、自分が語った以上のことを知っている。 美雪も、それに気づいている。 「俺にも分からない」 美雪の目が少し細くなる。 蓮は続けた。 「でも、今のところは俺を助けてる」 「明確な理由もなく?」 「そうだ」 「それでも、あなたは彼に会社の運営を任せている?」 蓮は美雪を見る。 「今までの行動が、全部会社にとってプラスだったからな」 美雪は黙った。 「もし、いつかあいつが脅威になったら、止める」 蓮の声は変わらない。 弁解でもない。 絶対的な確信でもない。 ただ―― これまでに起きたことから判断しているだけだった。 美雪はファイルを閉じる。 「まだ十分な答えではありません」 「そうだな」 美雪が少しだけ驚いたように見える。 蓮は続ける。 「俺自身、まだ答えを持ってないから」 数秒間。 美雪は蓮を見つめた。 そして、小さく息を吐く。 「分かりました。引き続き調べます」 「好きにすればいい」 蓮には止める理由がない。 美雪はファイルをバッグへ戻す。 しかし、帰る前に蓮へ視線を向けた。 「黒瀬ホールディングス」 蓮が振り向く。 「あなたの新しい会社ですか?」 「そう。今日、登記した」 美雪はゆっくり頷いた。 「動きが早いですね」 蓮は、ほとんど笑いそうになった。 「俺もそう思う」 美雪はもう数秒、蓮を見た。 そして背を向ける。 「それでは、失礼します。黒瀬様」 「またな」 美雪は駐車場を出ていく。 蓮は、彼女の姿が扉の向こうへ消えるまで見ていた。 如月 美雪。 調べれば調べるほど―― 何かを隠すことが難しくなっていく。 蓮は車のドアを開ける。 「……真面目すぎるだろ」 乗り込む。 ドアを閉める。 エンジンを始動する。 --- 18:00 赤坂レジデンス――1203号室 蓮はマンションへ戻った。 鍵をテーブルに置く。 ジャケットを脱ぐ。 そして、いつものように床へ座る。 スマートフォンを取り出す。 画面が点灯する。 《現在の総資産:84億円》 《物質欲求:2%》 《無欲倍率:×45》 蓮は数字を見つめた。 84億円。 数日前なら、そんな数字は想像すらしなかった。 今では―― 画面に表示される、ただの情報になっている。 蓮は息を吐いた。 「84億……」 部屋を見回す。 床に座っている。 まだ、ひびの入った白いマグカップを使っている。 まだ、普通の緑茶を飲んでいる。 何も変わっていない。 少なくとも―― 今のところは。 蓮はスマートフォンを置いた。 頭の中には、朝に自分が決めた名前が浮かぶ。 黒瀬ホールディングス。 シンプル。 豪華には聞こえない。 金持ちだと誇示するような名前でもない。 ただ、自分の名字。 そして、なぜか―― それが少しだけ違う感覚を与えていた。 システムが現れてから初めて―― 自分自身で選んだもの。 蓮は立ち上がる。 キッチンへ向かう。 緑茶を淹れる。 そしてベランダへ出る。 東京の街が、少しずつ明るくなっていく。 ビルの明かり。 車のライト。 広告看板。 決して止まることのない光の川。 蓮は座る。 お茶を一口飲む。 二つの特別報酬は、まだ届いていない。 Koenigsegg。 そして、超高級フルセット・ラグジュアリー・アパートメント。 蓮は息を吐く。 「俺、新しい車なんていらないんだけどな」 視線を空へ向ける。 「マンションだって、まだ十分だ」 少し黙る。 「でも、システムは気にしない」 その通りだった。 システムは、蓮が何を望んでいるのかを尋ねたことがない。 ただ、その状態を見て―― 何かを与える。 蓮は再びスマートフォンを見る。 二社。 一つの持株会社。 207人の従業員。 そして、増え続ける資産。 最初は、ただ静かに暮らしたかった。 今では―― その静けさにさえ、より大きな責任が必要になっている。 蓮は椅子に体を預けた。 「……面倒だな」 だが今回は―― それほど長く文句を言わなかった。 その数字の向こうには、本当に蓮の判断に左右される人間がいる。 ヤマト物流の87人。 三井海産食品の120人。 合計207人。 蓮はしばらく目を閉じる。 「ここまで来たら……」 目を開く。 「俺が責任を持つしかない」 --- 夜 蓮は再び部屋へ戻る。 ベランダのドアを閉める。 スマートフォンをテーブルへ置く。 部屋の照明を落とす。 ベッドに横になる。 しかし―― 頭の中はまだ完全には静まっていなかった。 金ではない。 車でもない。 マンションでもない。 腕時計やガジェットでもない。 浮かんだのは、一つの名前だった。 黒瀬ホールディングス。 自分で選んだ名前。 すべてが始まってから初めて―― システムから与えられた単なる報酬ではないものを手にした。 小さな決断。 単純なもの。 それでも―― 自分自身のものだった。 蓮は天井を見る。 「俺の名前……」 わずかに笑う。 「名前くらい、決めてもいいだろ」 そして目を閉じる。 生活は、まだ静かとは言えない。 それでも、その夜―― 蓮は一つのことに気づいていた。 システムは、入ってくる金を決められる。 手に入るスキルも決められる。 突然、自分のものになる企業まで決められる。 だが―― 少なくとも、会社の名前だけは自分で選べた。 黒瀬ホールディングス。 その日から、その名前は正式に蓮の人生の一部となった。 --- その頃―― 一台のスーパーカーが、日本へ向けて発送される準備を進めていた。 最初の特別報酬。 MANSORYによって特別仕様へと仕上げられた、Koenigsegg Jesko。 一方、港区にある保管施設では―― さまざまな品々が準備されていた。 家具。 衣類。 腕時計。 ガジェット。 生活用品。 すべてが超高級クラス。 すべて、一人のために用意されている。 その存在すら、まだ何も知らない人物。 黒瀬 蓮。 そして、蓮がまだ知らないうちに―― その二つの特別報酬は、まもなく彼の生活へ入り込もうとしていた。 それと同時に、さらに大きな責任も。 一つの持株会社。 207人の従業員。 そして、自分自身で選んだ一つの名前。 黒瀬ホールディングス。 --- 【次話予告】 第11話「真面目すぎる彼女」 「彼女は、真面目すぎる」 蓮の生活は、新たな段階へ入っていく。 黒瀬ホールディングスが正式に設立され、ヤマト物流と三井海産食品を傘下に置く親会社となった。 しかし、新しい構造は新しい責任も生み出す。 そんな中―― 一人の新しい女性が、蓮の人生に入ってくる。 高峰 静香。 首都圏の運送会社に勤めるコンプライアンス調査担当者。 彼女は、蓮の新会社に関係するある問題を発見する。 犯罪ではない。 スキャンダルでもない。 ただ、彼女が見過ごすことのできない、事務上かつ専門的な問題だった。 蓮と静香の初対面は、システムの介入とは無関係に訪れる。 一方―― 如月 美雪は、蓮、高橋 健司、そして黒瀬アセットマネジメントの関係をさらに深く調べ続けていた。 調査を進めれば進めるほど―― 新たな疑問が浮かび上がってくる。 そして蓮自身も、会社を所有することそのものが一番難しいわけではないと気づき始める。 本当に難しいのは―― 自分が間違った判断をしたとき、その中にいる人たちまで巻き込まないことだった。 第11話へ続く……

運営おすすめ

週間ランキング

全ランキング

反応スコアランキング

もっと見る

PV・ブックマークランキング

もっと見る

更新された連載作品

すべて見る
読み込み中…

新着短編

すべて見る
読み込み中…

作品一覧

読み込み中…

作品ダッシュボード

作品全体の公開状況と、読者からの反応をひと目で確認できます。

作品パフォーマンス

選択期間のPVが多い順

上位5作品
ライブラリ

作品の公開状況と構成

最近の更新

最後に編集した作品

要チェック

公開前に確認したい項目

プレビュー
読者に表示される見た目

表示設定

文字サイズ
100%
背景色
縦書き表示
リッチモード
目次
読み込み中…

キーワードを入力して作品を探しましょう

アクセス解析
アクセス解析データは 5分おき に自動更新されます
読み込み中…
ランクイン記録
通知
通知はありません
地形ブラシ
25
スタンプ
ツール
装飾
表示
100%

世界地図

100%

REACTION SCORE

反応スコアの内訳