夏々湖 / 第3話

流氷婦警 幸田詩琳

 風が吹いている。  凍りつく様な、冷たい風だ。    アムール川から供給された淡水が、海面上を薄く広がりながら蒸発し、冷たい風に冷やされていく。  発生した濃い霧が、強い風と共に視界を塞ぎ、隠密行動を助けてくれる。 「でも、ちょっと寒過ぎませんっ!?」  気温はマイナス8℃。風速8m毎秒。それだけで体感温度はマイナス16℃。そこに濃霧が重なると、風のあたり面には次々と氷が付着していき、あっという間に氷の彫像が出来上がっていく。 「寒すぎるから早く行ってください。流氷がひどくならない限り、お迎えにはきますから」 「流氷がひどくなったらどうなるんです?」 「さ、時間ですよ?」 「むぅ、国立大学の人は厳しいですぅ」  幸田詩琳三十二歳。自称婦人警官。  今回の任務は、日本の領土へと迫ろうとしている大国に対する、情報工作が主目的だ。  婦人警官である詩琳だが、情報分野でも最新の教育を受け続けており、今回もそれを活かしての他国潜入任務……って、どこが婦警さんなんだよっ!  詩琳が今いるのは、サハリンと大陸との間。間宮海峡と呼ばれている海域の、北端に近い部分である。  昨年日本で大きな災害が発生した。  世界中の国々からも支援を受け、現在は日本全国一丸となって国難に立ち向かっている最中である。  こんな時に海外からの工作に対して下手に対抗しようとすると、国際協力体制に水を差す事態にもなりかねない。  なので、自衛隊戦力はいつもの領空侵犯などに対応するのが精一杯だ。  さらに、普段ならば内閣情報調査室が対応する局面なのだが、現政権が内調の全力を持って国内世論の抑え込みや誘導に取り掛かっていた。  そんなわけで独断で動ける公安側からの指示により、詩琳が駆り出されてきたところである。    ただ、公安だからと言ってなんでもできるわけではない。そもそも、ここまで詩琳を送り込む手段すらない。  というわけで、北海道にある国立大学の海洋調査船への便乗という形をとって、この寒くて狭い海峡へと入り込んだところである。 「じゃ、行ってきますけどお迎えの時はあったかいお風呂とか、用意しといてくださいね? 約束ですよっ?」  そうして詩琳は、小さな電動ゴムボートで流氷の流れる海へと乗り出していった。  ここはアラスカからアリューシャン列島、カムチャツカ半島を経て千島列島へと続く、彼の国にとっての絶対防衛線の裏側だ。  そのため、ネズミ一匹通さない防空システムが組まれており、超高空を飛ぶ米空軍の偵察機ですら、脅威にはならない。  なんなら300㎞も手前で叩き落として行く。 「まぁ……この霧と流氷の中、ゴムボートで来る婦警がいるとは、思いませんよねぇ」  夜間作戦ではあるが、かなり薄めのグレー系迷彩ポンチョを着込んだ詩琳は、極力身体を霧に晒さないよう流氷の隙間を進んでいった。    広大なアムール川の|三角州《デルタ》から南へ下った山中に、巨大な亀の甲羅の様な特異な見た目のレーダーサイトが隠れている。  イミテーションウッドで擬装されているため、高高度からの光学観測では見つけづらい。更に高機能のフェイズドアレイレーダーにより逆探知耐性も高い。 「どんなに頑張って擬装しても、歩いて近くに行けばバレバレなのよね」  とは言っても、軍の重要拠点である。セキュリティは、それはもうしっかりガッチリ……あれ? 「フェンスに赤外線カメラだけってどういうこと? ネットの接触センサーも、対人ドップラーレーダーも、物は見えるけど動いてませんよね? これ」  ネットは着氷によりセンサーが動かなくなっていた。レーダーは、あまりにも濃い霧による誤作動が頻発したため、電源が切られていた。 「しかも、歩哨もいないの? え? 罠?」  ウォッカ飲んで寝ちゃってるだけだ。  周辺はかなり深い森である。それぞれの木に氷が張り付き、樹氷林の様相を呈している。  その樹氷が風を遮り、部分的に風が弱い場所ができる。  詩琳が今身を潜めている場所も、そんなポケットみたいな場所であった。  ぱさっ。  左肩に何か降りて来た。 「え? え?」  横目でチラチラと確認する。  丸くて白くてふわふわで、キョトンっとした顔がこちらを覗き込む。 「え? シマエナガ? あ、大陸にもいるの?」  シマエナガは『ジュリチっ』と短く鳴くと、すぐそばにある凍りついていない枝へと飛び移った。  そこには片手では数えられない程度の羽数のシマエナガの固まりがいた。 「うわ、お団子可愛いですねー。君たちの邪魔しない様に、静かにお仕事して来ますね」  詩琳はそっと、その場を離れた。   「歩哨いないなら、正門通らせてもらうのが一番かな。カメラだけ注意してれば問題なさそう……よし」  本来、カメラの死角は人の目でカバーしてるのだが…… 「こんなにスムーズに入れて、いいのかなぁ。不用心すぎますよ? お巡りさんとしては心配になりますよね?」  今まさに不法侵入している奴が言うなよ……   「設備側は流石に直接は無理ですよね? 無理って言って……うん、空いてました」  警備室は一体何をしてるの? 「楽でいいんですけどね。罠なら罠でそれなりの対応策持って来てますけど……無駄だったかなぁ?」    建物に入るところまではスムーズに来られたが、流石に施設内部ではこの時間も働いている人がいる様だ。  詩琳が目指しているのは、各レーダーサイトを繋いでいるネットワークコンピュータ。  極東地区のレーダー網を統括するハバロフスクの基地と直結されているため、同一ネットワークレイヤーからイタズラを仕掛けることができ……って、タチ悪いな…… 「さてと、サーバールームはどこかしら……」  天井を走る配線を見ながら考える。  レーダーサイトそのものは比較的新しいが、こちらの管理棟は古くからある基地の建屋をそのまま使っている。  当然、ネットワーク対応などされていなかったため、天井に桁を走らせて、それに沿ってネットワーク配線が走っているのだ。   「この奥かな……流石に入り口はセキュリティドアですね……開きっぱなしですけど」  ICタグと暗証番号を組み合わせた、オーソドックスなタイプのドアが、開いていた。  確かにセキュリティドアではあるが、閉まってなければ意味はないだろう。 「なんなんですか、このぬるい雰囲気は……」  訝しみながらもドアにそっと忍び寄り、中を覗き込んだ。 「あー、通産省からの情報通りのハードウエア構成ねぇ。あの人たちもほんと、どんな手品使って調べてるのやら」  十五年ほど前にアメリカからポーランド、ベラルーシを経由してロシアへと、民間ベースで輸出されたネットワーク機器が並んでいた。  当時は対共産圏輸出統制委員会(COCOM)が解散直後で、それはもうものすごい勢いでロシアにものが流れ込んでいたはずなのに、その記録が残ってるの凄すぎる……日本のお役所、凄すぎない? 「これだけ完璧に予測が当たると気持ちいいし、お仕事もしやすくていいですよねぇ」  ルーターは95年製。COCOMが撤廃されて、すぐに手配されたのだろう。  詩琳は腰についたポシェットから、ケーブルと小さな端末を取り出した。  流れる様な滑らかな手つきで、ルーターのシリアルコンソール端子と端末の30ピンドックコネクタを接続するための変換器を接続し、システム管理用ポートへとアクセスを開始した。  わずか3.5インチの、見通しの悪い液晶と格闘すること五分。ルート権限を裏から支配し、このレーダーサイトのシステムを乗っ取る。  やること自体は単純だ。  近辺に多数あるレーダーサイトのデータを、ハバロフスクのマスターサーバから引き出し続けるプログラムと、そのデータをレーダー発振の形で外部送信するプログラムを流し込むだけである。  極力、いつまでも発覚しない様に仕込まれるはずだが、万が一発覚してもどこの誰が受信者なのかが、バレることはない。 「さて、こんなもんかしら。あとはログを消して、ログ履歴の整合性も合わせてっと、よしっ!」  全ての作業を終え、ケーブルを外していると、足音が響いて来た。 「Кто опять оставил дверь серверной открытой? (誰だよ、サーバー室閉めてない奴は)」  詩琳はラックの影にピタッと隠れた。  やって来た兵士は、サーバールームの中を軽く見回したのち、セキュリティドアを閉めて立ち去っていった。 「あちゃ……閉められちゃいましたか。開けるのは訳ないですけど、見つかりたくないですもんね」  逃げられそうなダクトは見当たらないが、ケーブルが通るための梁は天井から廊下方向に直接出ている。  詩琳は身軽さを活かし、サーバーラックを登って梁の上へと移動した。 「埃落とさないように注意しないと……」  侵入した痕跡は、極力残したくない。  総点検でもされたりしたら、せっかく仕込んだプログラムが排除されてしまうかもしれない。 「あー、でもこの先、居住区っぽいかなぁ? 人の気配が多い気がする」  あっちにはあんまりいきたくないな……とか思っていたら、さっき聞いた声が聞こえた。   『ジュリチっ』 「え? え? 鳥さん? さっきの子?」 『ジュチッ』  シマエナガだ。  嘴になにか、綿埃の様なものを咥えたシマエナガが、梁から延びる桁の上に停まっていた。 「え? ここに出入りできるの? あ、巣作り?」  シマエナガは何も言わずにパタパタと飛び立った。そして、下にある暖炉の様なものの中に飛び込んでいく。 「ペチカ? 塞いでないの?」  この国では、暖炉の排気を複雑な通路に通すことで、家中を暖める『ペチカ』という暖房器具が使われていた。  現在は石油による暖房が主流になったため、ペチカが使われていない施設も多いが…… 「鳥さん、助かりましたっ!」  聞こえてはいないだろうが、つぶやいた。  そして、そっと梁から飛び降り、ペチカへと潜り込んでいった。         ♦︎ 「ふぅ、酷い目に遭いましたよほんとにっ!」  お、無事に調査船に拾ってもらえたのね。 「岸によれないからって、この天候の中、四時間もゴムボート担いで氷原歩かされるとかっ! しかも、五歩に一回ぐらいは氷が沈みそうになるしっ!」  大変苦労して戻って来たらしいです。 「施設からの脱出も、あれ鳥さんいなかったら割と台無しになってた気がしますよ? ほんとに」  ペチカの中を通ってる時に、歩哨や屋内警備の担当者がこっ酷く怒られていたのと、その後警備を再開したのが聞こえて来たのだ。 「まあね、戻れたからいいですけど……そうだっ! お風呂約束してましたよねっ! お風呂っ!」 「そのことなんですが幸田巡査」 「まさか無いとか言いませんよね?」 「いや、風呂はちゃんと用意して有るんだが……この船も少し老朽化が進んできてね、ボイラーの調子がこう……」 「でも、用意してくれたんですよね? じゃ、いただいて来ますねっ! おっふろ、おっふろ」 「あ……ああ、行っちゃったよ……まぁ、死にはすまい」  勇んでお風呂にやって来た詩琳さん。  五、六人なら一緒に入れる程度の浴槽と洗い場がセットになった、それなりにしっかりしたお風呂だ。  オホーツクの波に揺られて、ざっぷんざっぷん溢れているのはご愛嬌っと。  早速汚れた戦闘服を脱ぎ、下着も靴下も脱ぎ、シャワーで掛け湯をしてからざっぱーんっ! 「って、ぬるっ‼︎ え? ボイラーの不調ってこんななの? シャワーは普通にお湯出たのになんでっ!」  どうも追い焚き機能がお亡くなりになっている様だ。  お湯の温度はこれ、37℃も無いかもしれない。 「ミッションがぬるいのは悪くないけど……お風呂がぬるいのはほんと、勘弁してほしいですよぅ」  詩琳の悲鳴がオホーツクの波間に消えていった。

運営おすすめ

週間ランキング

全ランキング

反応スコアランキング

もっと見る

PV・ブックマークランキング

もっと見る

更新された連載作品

すべて見る
読み込み中…

新着短編

すべて見る
読み込み中…

作品一覧

読み込み中…

作品ダッシュボード

作品全体の公開状況と、読者からの反応をひと目で確認できます。

作品パフォーマンス

選択期間のPVが多い順

上位5作品
ライブラリ

作品の公開状況と構成

最近の更新

最後に編集した作品

要チェック

公開前に確認したい項目

プレビュー
読者に表示される見た目

表示設定

文字サイズ
100%
背景色
縦書き表示
リッチモード
目次
読み込み中…

キーワードを入力して作品を探しましょう

アクセス解析
アクセス解析データは 5分おき に自動更新されます
読み込み中…
ランクイン記録
通知
通知はありません
地形ブラシ
25
スタンプ
ツール
装飾
表示
100%

世界地図

100%

REACTION SCORE

反応スコアの内訳