橋本直 / 第6話

第1話 首席卒業生は戦争を嗤う

 遼州星系第二惑星……甲武国。  その陸軍大学校の講堂は、昭和の『大日本帝国』の陸軍を思わせる規律と緊張に包まれていた。  壇上には、詰襟の制服に身を包んだ若き士官たちが居並んでいた。誰もが引き締まった表情で、戦時を目前にした緊張を帯びている。  古びた国旗の赤が、薄暗い照明の中で血のように滲んで見える。誰もが戦時が近い今という時代にあってその戦争を指導するという重責を両肩に背負うことへの誇りと選ばれたものという満足感に満ちた表情で国旗をじっと見つめていた。  そんな中、若者たちの中でもひときわ若く見える男が壇上へと歩み出た。しかし、その男には他の士官たちにあるような責務の重みを背負う気取りも選ばれたという自負も見て取ることが出来なかった。  ただ、自分がこの場にいる誰よりも優れた存在であるという余裕がその表情から見て取れた。男は、街中を散歩するような軽い足取りで、学校長のもとへ向かった。緊張感など欠片もない。鼻歌さえ聞こえてきそうだった。  その男の名を……|嵯峨惟基《さがこれもと》中佐。  二十歳そこそこの年齢で首席卒業。それだけで、この国の陸軍の常識を裏切っていた。   その男の余裕に満ちた表情に居並ぶ若き士官達は明らかに敵意に満ちた目で嵯峨をにらみつけていた。  ただ、その男が首席として選ばれたというのは紛れもない事実で、成績的に誰もが嵯峨を否定できない以上、この場にふさわしい緊張感とはまるで無縁の嵯峨が静かに大学校長の前に立つのを会場の誰もが止めることはできなかった。  静寂に包まれた会場。壇上には、誇り高き士官たちが並ぶ。その士官達の緊張感をまるで否定して見せるようにうっすら笑顔すら浮かべている嵯峨に壇上に居並ぶ陸軍大臣を始めとする賓客たちも首を傾げつつこの異物のように見える陸軍大学校首席卒業生を見つめていた。  戦雲が近づく中のその戦争を指導する未来の将軍たちを育てるための大学校の卒業式のはずだが、この式典には、ある異様な緊張感が漂っていた。  嵯峨は、一見すれば二枚目で怒らせれば只では済まなさそうな軍人に見えた。だがその今にもその場をぶち壊してしまいかねないはやり歌でも歌いかねないような上機嫌なその顔を見れば誰もが嵯峨の異様さに気付いた……その目には、まるで光というものがなかった。  冷酷にも見えるが、どこか力の抜けた表情。その目は何を考えているのか分からず、不気味な印象を与えた。ただ、薄ら笑いと次に何をしでかすのか予想もつかないような雰囲気が見るものを不安にさせた。  多くの猛者たちの卒業生のそれと比べても遜色が見えないような筋肉質な体を包むベージュの詰襟の制服をきっちりと着こなすのが慣れていないというように時々嵯峨は襟元に手をやり首のあたりが苦しいというような動作をして見せた。その襟には二つ星が光り、彼がその年にして中佐の階級であることを示していた。  『陸軍大学校』は昭和初期の大日本帝国の陸軍を模した『幹部候補養成機関』であり、在校生の多くは佐官クラスの『将来の将軍』を養成する軍学校である。すべての卒業生達は、『陸軍士官学校』の優秀卒業生か、幹部候補生として陸軍に奉職して五年以上の|猛者《もさ》ばかりだった。  当然、彼等の年齢は最低でも二十五歳以上となる。その『首席卒業生』の若さはそういった常識から考えればどう見ても異常な光景だった。  明らかに若すぎる『首席卒業者』は大学校長から何事も無かったかのように一礼してその証書を受け取るとそのまま演壇を歩いて修了者の整列する方に向き直った。  その顔に悪意に満ちたいたずらっ子のような表情が浮かび、予定にない嵯峨の行動に会場の一同は次にこの男が何を始めるのかと黙って息を飲んでいた。  甲武国は今、『祖国同盟』の一角にあった。  同盟国は、国家社会主義を国是とするゲルパルト第四帝国、そして遼州人の帝国である遼帝国。  地球圏からの経済制裁を受ける三国では、世論が『対地球圏開戦』へと傾きつつあった。  そんな中で開かれる軍の次なる最高指揮官を輩出することになる軍学校の空気はその宇宙情勢にふさわしい緊張感を孕んでいた。  そして、その緊張は、本来ならばそのまま卒業証書を手に壇上から降りるべき男がまだ壇上に立っているどころか、そのまま居並ぶ卒業生たちに向けて歩みを進める一人の若者によって、さらに高まることになる……。  嵯峨中佐はそのまま演壇から、卒業生の居並ぶ席へ向けて歩いていくと、含みのある笑みを浮かべて会場を見渡した。  嵯峨は壇上で足を止めると、静かに微笑んだ。その表情には卒業証書を受け取る時までのまるで何か楽しい出来事にでも出会ったような子供のような笑みから明らかに敵意に満ちた鋭い目つきで会場の椅子に座って黙って嵯峨を見つめている卒業生の士官たちを見回した。  嵯峨は受け取った証書を居並ぶ卒業生全てから見えるように、嵯峨は無言でそれを掲げた。  そして……ゆっくりと、破り捨てた。  彼は卒業証書を破ったのではなかった。  この場にいる全員が信じている権威を、紙切れと同じものだと示したのだ。  紙片が宙を舞う音だけが響く。嵯峨の狂気の行動にざわめく士官たちだが、あまりに意外な出来事に卒業生の士官達も陸軍大臣を始めとする賓客たちも何も声を上げることが出来ずに黙ってその奇行を見守ることしかできなかった。  卒業証書の破片が壇上の床に散り終わったとき、ようやくこの嵯峨の行動の無謀さを理解した会場の人々の間にざわめきが起きた。  絶対にあってはならない許しがたい暴挙を国家の支柱となるべき陸軍大学校の首席の男が笑顔でやってのけている。  だが、日頃の嵯峨を知っている同じ卒業生たちは身動き一つすることが出来ず、陸軍大臣を始めとする賓客たちもなぜ嵯峨がこのような奇行に走るのか理解が出来ずにその場を動けずにいた。  だが嵯峨は、そんな何もできずに自分の暴挙を見守っていることしかできない会場の人々を見回すと満足げににやりと笑った。  そして一仕事成し終えたというような満足し尽くした笑顔のまま、観衆を見渡す。  その笑みは挑発でも狂気でもなく、絶望を知る者の笑みだった。  嵯峨の足元に散らばる破れた紙の破片が、空調のかすかな風に揺れ動きながらゆっくりと宙を舞う。  嵯峨は破れた証書の紙片を見下ろした。  しばらく、場にいた誰もが嵯峨の行動の意味も目的も分からずに当惑した表情を浮かべたまま何も言わなかった。  そして、時が過ぎ、ようやく嵯峨の行った『蛮行』としか呼べない行為を理解し始めた人物もいるようで、講堂のどこかで、誰かが息を呑む音がした。  嵯峨はその音を聞いてから、ようやく顔を上げた。  嵯峨は怒っていなかった。  怒っていないからこそ、会場の全員が不安になった。  これは激情ではない。計算された侮辱だった。 「……あれ。怒んないの?アンタ等なら俺が卒業証書に手をかけた時になんとか止めようと殴り掛かってくると俺は思ってたんだけど……そんな度胸も無いんだ。アンタ等本当に軍人?普通の役人養成所である俺がしょっちゅう顔を出してた『鏡大』だって、首席が卒業証書を破ろうとしたら止めにかかると思うよ……不思議だね」  それでも黙り込んで卒業生の士官たちが何をするのか様子を見ようと笑っている嵯峨を見つめながらその場にいる全員が息を呑んだ。 「首席の証書ってのは便利だね。紙一枚で人間の優劣を決めた気になれる。で、その紙を破られると、今度は何を信じればいいか分からなくなる……アンタ等の考えていることくらい二十歳の若造でも分かるんだ……人間長く生きていれば偉いなんて言うのは嘘だね。少なくとも今の俺にはそう見えるよ」  その明らかな『暴挙』に、『甲武国』の陸軍幹部と未来の幹部たちのどよめきは嵯峨が沈黙を続けるほどに大きなものへと変わっていった。    そんな『将来の幹部達』の狼狽する様を嵯峨は笑顔で見渡した。その笑顔は狂気よりも落ち着き払っており、いかにも楽しそうな表情だった。  嵯峨の目の色に狂気の色がまるでなくむしろ理性に満ちていることが逆にこの場にいる誰もを不安のどん底に突き落とした。  そしてここでようやく嵯峨は卒業生たちの反応に満足したように笑うとそのままいったん卒業生たちに背を向けて、嵯峨の奇行に言葉もなく動けずにいた大学校長の前に置かれたマイクを手に取るとそのまま再び演壇の縁へ立ち、マイクを手にまるで演説でも始めるような調子で卒業生の士官たちをあざけるような笑みを浮かべて見つめた。  そして決して声高でもなく、感情的になったわけでもない口調で話し始めた。 「はい、みなさん。ずいぶん驚いた顔をしてるねえ」  嵯峨は破れた証書を足先で軽く寄せた。 「首席の卒業証書を破るなんてもったいない?そう思うなら、なんで俺よりいい成績を取らなかったの?」  会場が凍った。 「俺は首席になりたかったわけじゃない。勉強もしてない。授業より鏡大の研究室にいた時間の方が長い。夜会や園遊会に出ていた時間の方が、もっと長いかもしれない」  嵯峨は楽しそうに笑った。 「それでも俺が首席だ。つまり、君たちは俺より頭が悪いか、身体が鈍いか、戦争を学ぶ才能が無いか。その全部だ」  会場の人々は、あくまで楽しそうにしている嵯峨に、理解できない異物を見るような視線を向けることしかできなかった。  嵯峨の言っていることはすべて事実だった。そしてそれでも嵯峨は首席としての成績を収めてこの陸軍大学校を卒業しようとしている。  今の嵯峨に何を言ってもすべて嵯峨お得意の屁理屈で捻じ曲げられて馬鹿扱いされるだけだと知り尽くしている卒業生たちは、ただ屈辱に耐えて黙り込んでいた。 「よくそんなお頭と身体で上官がこの学校への入学の推薦状を書いてくれたもんだね。まあ、そんな事だからこの国は今みたいな状況なのかな?それだけこの国の陸軍には人材が足りないと……まあ、勉強なんか何にもしてない俺でも首席に選ばれるくらいだもん。人材不足は誰の目から見ても明白だよね」  悪戯に成功した子供のような笑みを浮かべる嵯峨。会場はどよめいていたが、その暴挙はあまりに意表を突いており、誰も止めることができなかった。そして、そのことに確実な裏付けがあることがさらに会場の人々を不安のどん底に突き落とした。  そして嵯峨の成績があまりに抜群な上に甲武の最高学府である鏡都大学の法学研究室では法学博士号を、政治学研究室では政治学博士号をあっさりと取って見せた上に、入学前にすでに遼帝国で経済学の博士号を持っているという嵯峨という男に自分達がその頭脳において勝ち目がないので、それまでどよめいていた卒業生たちは黙り込むしかなかった。  また、白兵戦等、剣術訓練、銃剣道訓練、小隊規模での戦闘指揮訓練、そして甲武の誇る人型機動兵器シュツルム・パンツァーでの戦闘訓練においても嵯峨と対等に渡り合える人間はこの場に一人としていなかった。  嵯峨の言葉の自信にあふれた口調に何一つ反論することができない会場の士官たちは黙り込んで、心の中ではこの無礼千万な若造を壇上から引きずり下ろしたい衝動に駆られつつも実際に手を出せば逆に嵯峨に返り討ちにあうことだけは間違いない事実なので黙り込むことしかできなかった。  壇上に居並ぶ陸軍大臣を始めとする賓客たちも『稀代の天才の門出を祝福する』という陸軍大学校の誘いの言葉を思い出しながらその成績においては群を抜いているものの、またその奇行においても他の追随を許さない『許されない首席』が次にどんな蛮行を行うのかを黙って見守ることの他に何もできずに黙って嵯峨の背を見つめていた。

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