橋本直 / 第93話

第88話 事実と書類のあいだ

 それでもいつまでも黙っていれば、誠はただの子供だと思われてしまう。  そう思った誠は、混乱した頭の中を必死に整理しながら、自分の気持ちをなんとか言葉にしようとした。  それは、自分と同じ立場に立つ遼州人が、これから先現れるかもしれないという恐怖だった。  そして、その遼州人にはかなめのような『騎士』は現れず、誰にも助けられないまま地球圏へ拉致されるかもしれない。  だからこそ誠は、自分がその遼州人達の代弁者にならなければならないと感じていた。 「戦争……僕がきっかけで……そんな……僕は普通の遼州人のはずですよ。それが戦争のきっかけだなんて……この400年間戦争をしなかった東和が地球圏の標的になるんですか?僕がきっかけで……その理由は何です……ってさっき言ったって言うんですよね?でも僕そんなの嫌ですよ!でもこれまで言ってきたことはおかしいじゃないですか!地球人ってそんな小さなことで戦争をするんですか!確かに噂では地球人は自国民一人が死んだら平気でその事を理由にして敵国に核を落として何千万人も殺しても平気な人間達だと聞いてますけど……そんなに地球人は危なくて近づくとろくなことが起きない悪魔みたいな存在なんですか?クバルカ中佐!滅ぼしちゃっていいですよ!僕が拉致されたことを認めないような地球圏なんて腐ってます!そこに住んでる人間も一人残らず人間とは思えません!全員殺しても罰は当たりませんよ!」  口にした瞬間、誠自身も自分の言葉の鋭さに怯えた。  だが、止まらなかった。怖かったのだ。怖いから、憎むことでしか整理できなかった。  戦争という言葉はここでは抽象的な脅威でしかない。だが誠にとってそれは遠い可能性ではなく、帰属する共同体の生死を賭けた現実へと変わる危険信号だった。 「おい、神前。オメーが怒るのは勝手だ。だが怒りを理由に相手を人間じゃねーと言い出したら、もうそいつは地球人と同じ穴の狢だ」    そんな鋭いランの声を聞くと彼は喉の奥で唾を飲み込む。 「神前の言うことももっともだけど、ランに地球圏を滅ぼすような命令は俺は出せないんだ。たぶん命令を出せば本当にできるだろうけど。自分の上司のランにそんな地球人が好きそうな絶滅戦争をさせようだなんてお前さんも残酷だね。地球人の事どうこう言えた義理じゃないよ。確かに、地球圏はきっかけ一つあればこの東和共和国とは戦争がしたいんだよ。この国の富……黙って指をくわえて見ているほど地球圏の支配者階級は甘くないんだ。口実一つあればすぐにこの国の『一国平和主義』なんていう国是は吹き飛ぶんだ。地球の歴史でも間抜けが一人死んだことを理由に複数の国家を巻き込んだ大戦争に発展した例なんていくらでもあるんだ。地球人はね、それくらい戦争が大好きなの。その地球圏がこの宇宙に存在する。そんな危ない連中がいても関係を何らかの形で持たざるを得ない。相手は人を殺すのが当たり前と思ってる人間でも現実としてまだ人を殺していないんだから。例え隣にこの東和共和国でも隣に怖そうな人が住んでいるからと言って『あの人はいずれ人を殺します!』と叫んで交番に飛び込んでも笑われるだけだよ。それが嫌ならどうせその地球人は全員いずれ死ぬ定めにあるんだから。それまで黙ってそいつがわめき騒ぐのを我慢するしかないよね。それがこの地球人のような殺人狂じゃない遼州人の国東和共和国でも常識なんだ」  東和共和国では“戦争”という言葉そのものが遠い。  だが、その外の世界では、殺し合いは日常として存在している。  それを想像して、誠は思わずつばを飲み込んだ。  そして、誠は自分が『誰のために戦うのか』を問う自問に立ち戻る。遼州としての誇りか、仲間としての絆か、それとも自分自身の生存か。答えは一夜では見つからないが、この夜に芽生えた疑問はやがて彼の行動を規定していく。  誠の考えはそこまでは及んではいなかった。  純粋であるがゆえに、彼の思考は直線的だ。だが上層部の話は曲線を描き、複雑さと曖昧さを増幅する。誠はその渦中に押し込められている。  ただ目の前の犯罪に囚われていた。  犯罪の傷跡は物理的にも精神的にも残る。誠はその生々しい断片を忘れたくても忘れられず、夜になると夢に見るだろう。だがその夢は決して終わりではなく、彼の成長の一部となる。  誠はこの『駄目人間』の底知れぬ恐ろしさに恐怖し、そんな『化け物』に息子を預けた母を恨んだ。そして、そう思ってしまった自分に、誠はすぐに罪悪感を覚えた。  母の顔が一瞬頭をよぎる。彼女がなぜ誠をここに送ったのか、その理由は複雑だ。安全だと信じて送り出したのか、それとも誇りを育てたかったのか。誠は母への感情が怒り、悲しみ、そして恥の混合であることを感じる。 「そこで、まあお前の件は『マフィアが暗黙の了解で見逃されてきた貴金属取引に紛れて行っていた麻薬取引』の現場にうちが突入したことにして、偉い人に報告したわけ。俺が地球系マフィアのボスをパクった件は、まあ連中も理屈のつけようが無いって嫌な顔してたよ。『国際問題』だとか言いやがるんだ。でも地球圏でも悪事を働いた人間なんだから地球圏の人達も嫌な顔をしながらこちらの言うことに耳を傾けてくれると思うよ。『生まれながらの殺人狂』で『核を使って戦争をするのが何よりの娯楽』の地球人から遼州圏を守る。そのための司法局だろ?東和警察の連中は俺達を舐めてるのか?でもまあそれで戦争になることを避けられるんだから目的としては問題は何もないよね?地球圏国家の戦争凶たちは永遠に核戦争を続けて放射能で生きていくのが不可能になった地球と運命を共にしてもらうのを待つしかないの。まあ、あと200年もすれば地球人は絶滅すると俺は踏んでるから。俺だって地球人全員がそうだとは思いたくないよ。だが、問題は『そういう連中が実際に核のボタンを持ってる』ってことなんだ。そして定期的にそれを押してきたと言う事実がある。そういう意味」  嵯峨の語り口は簡潔だが、その裏でどれほどの根回しが行われたかは想像に難くない。書類の改竄、関係各所の黙認、時には賄賂。それ『平和』を保つ代償であると彼らは暗黙の了解で受け入れている。誠はその現実に苛立ちを募らせながらも、言葉少なにしている。  嵯峨は上層部のそんな無茶な決定に何の不満も無いと言うようにそう言ってのけた。  言葉の裏側にあるのは“責任”だ。嵯峨は自分が矢面に立ち、部下を守るためならば多少の損失も甘受する覚悟がある。だがその覚悟が若者の正義感を奪うこともある。誠はそれを痛感する。 「『国際問題』って、なんでですか?犯罪者を捕まえたのに!地球人たちも喜んでるんでしょ?隊長からその国の偉い人に言って僕に感謝状を下さいよ!そんな連中を放置している東和警察と地球圏が悪いんじゃないですか!地球人が10年に一度は核戦争をするのは彼等の勝手でしょ!僕達遼州人には関係ない話じゃないですか!連中が人殺しが大好きなのは僕も知ってます!でも、僕達は警察でしょ?悪い人を捕まえるのが仕事でしょ?相手は違う人種なら『民族浄化』と称して笑って皆殺しにする地球人なのは知ってます!でもそんな頭のおかしい地球圏の失態の責任をなんで僕達が取らなきゃならないんですか!僕は遼州人です!人殺し無しに一日も過ごせないような核兵器が大好きな地球人とは違います!」  言葉に出した瞬間、これを言ってはいけないとどこかで分かっていた自分の声を、誠は確かに聞いた。誠の問いは簡潔で鋭い。正義とは何か、法とは何か。彼はまだ子供のようにそれを問い、だがその問いは大人たちには煙に巻かれることが多い。嵯峨は長年それに耐えてきたが、今夜は誠の問いが胸に突き刺さる。  おっかなびっくり。  声の震えは消えないが、誠は一歩も退かない。彼は自分の信じることを口にすることで、初めて自分の立場を確認しているのだ。  そんな言葉がぴったり似合う表情の誠は、目の前の隊長の机に座っている嵯峨に向けてそう言った。  嵯峨の机には今夜の戦闘で拾った小物……折れたナイフの柄の一片や、血の付いたストラップの一部……が無造作に置かれている。現場の断片が、ここでは『書類の材料』に変わっていく。それが誠には耐え難い。 「子供のセリフだな。神前はまだ子供だってことだ。それとオメーの理屈は地球人の支配者気取りの『超富裕層』の権力者が核戦争を起こす時の理屈と同じだ。『アイツは俺と違う人種』その言葉で地球人は眉一つ動かさずに東和に核の補充をする為の戦時国債を発行して核のボタンを押す。地球人と同じレベルに遼州人のオメーが落ちて何が楽しい?」  ランの言葉は冷たいが、その冷たさは教育の一端でもある。彼女は誠の熱情を抑えることで、危険な方向へ進ませまいとしているのだろうか。それとも単に上官としての立場を守っているのか。誠にはまだ判断がつかない。  だがランの冷静さの裏には、誠に気付かれぬような配慮が垣間見える。彼女は時折、誠の肩に触れそうな手を止める。言葉と身体の間にある無言の気遣いだ。 「そりゃあ正論を言えばそうなんだけどさ。世の中そんな正論だけじゃ回って無いのよ。外交問題ってのは微妙なもんなんだよね。地球圏と遼州星系同盟の関係は特にセンシティブなんだよね。やれ『人権』がどうの、『私的財産権』がどうのと騒ぐんだよ、お互いに。社会に出ればそう言うのがあるんだよ……分かったかな?社会人になったばかりのお前さんには理解不能かもしれないけど、それをすぐわかる物わかりの良さってのも社会じゃ必要とされるんだわ。地球人が殺し合いが大好きってのは元地球人の国の甲武国で地球への先制核攻撃を万歳三唱で喜ぶ庶民を目の当たりにしてきた俺には嫌というほどわかるけど……それはそれ、これはこれなんだよ」  嵯峨の言葉には誠から見てもうんざりした色がにじんでいた。『物わかりの良さ』……その語は大人の世界でよく使われる。妥協と折衝を意味し、正義よりも秩序を優先する価値観だ。誠はその価値観にまだ馴染めないが、ランの言葉には組織を維持するための冷徹さが含まれている。  嵯峨は適当にそう言うと静かに目を机に落とした。  目を伏せることで彼は会話を終わらせようとする。  だがその沈黙が誠の胸に新たな疑念を残す。 「じゃあ僕の責任は……」  責任という言葉の重さを、誠はまだ正確に測れない。それでも彼は口に出すことで自分を保とうとする。上官の答えを待つ表情は、青臭くも決然としている。  誠に今言える言葉はそれしかなかった。事件が起きた以上、誰かが責任を取らなければならないと言うのが誠の社会認識だった。そして嵯峨もランも責任を取るつもりはないことはこれまでの二人の言葉から誠は理解していた。  恐る恐る誠はそう言ってみた。  手の震えが止まらない。誠はその震えを見られまいと必死に目を逸らす。  嵯峨は顔色1つ変えずに語り始めた。 「聞いてなかったのか?そもそもお前さんは、あそこに自分で突入したって言うことで口裏あわせも済んでるんだ。東和警察の連中もそれで書類が作れるって喜んでるんだから問題無いだろ?まあどうせ東都警察の連中には、俺は信用なんてされてないんだから、お前が責任云々言う話じゃないよ。まあここの上部組織の司法局の本局には報告義務があるから、それなりの書類出して東都警察の|面子《めんつ》も考えずに捜査範囲を超えて暴走した俺達の責任のことに関しての処分を待つ形だが……『中佐殿』……。さすがに今度は『減俸二ヶ月』は食らうかな?俺もお前さんも無茶しすぎたわ」  減俸二ヶ月……その言葉は嵯峨にとっては『痛いが許容範囲』のバイアスを示すジョークだ。だが誠には現実味を持つ恐れの種でしかない。金銭的な損失よりも、組織内での自分の評価がどう変わるのかが気になる。若者の目に映る世界は、警察という制度の冷たさと温もりの差でできている。  嵯峨はそう言うと誠の隣で何も聞いていなかったかのように平然としているランに声をかけた。  ランは無表情で一瞬だけ嵯峨を見、その目に含まれた判断を内心で下す。組織は決して単純な善悪で動かない。ランは誠への対応をどうするか、その重責を感じていた。  直立不動の姿勢をとっているランと誠を前に嵯峨はそう言ってほほ笑んだ。  笑みの端にある余裕は、誠を一層孤独に見せる。ランは誠を支える気配を残しつつ、組織の論理を語る。誠は胸の内で何かを捻じ曲げられるのを感じる。   『減俸2か月』  空気が一瞬だけ凍る。誠の心臓が跳ねる音が聞こえるようだ。彼はこれまであまり金銭問題を気にしてこなかったが、今夜は違う。現実が彼に早すぎる教訓を与える。  誠には、その言葉が冗談なのか本気なのか分からなかった。  だが、二人の顔を見る限り、これは本気だった。  人が死んだ。自分は拉致された。  それでも、この部隊では処分欄に数字を書き込めば終わるらしい。  その言葉に誠は思わず背筋に緊張が走るのを感じて隣のランに目をやった。  ランの側顔には微かな笑いが掛かるように見えたが、それは慰めではない。彼女は『上司』としての役目を果たす覚悟を固めたのだ。  ランは全く動じるそぶりもなく、話を向けられたランは頭を掻きながら嵯峨に対する言葉を探っていた。  考えをまとめる時間を稼ぐための仕草だ。ランは誠を見て、やがてはっきりと言葉を返すだろう。それは誠にとって救いになるか、それとも更なる矛盾を植え付けるか。夜は深まり、決定は静かに下されようとしている。  ボーナスカットの話がさらりと出るところに、この部隊の『懲罰と報奨』の文化が透けて見える。嵯峨のジョークは厳しい現実の包み紙であり、組織は痛みを金銭で調整する術を知っている。誠はその軽さに唖然とする。  驚きは無力感を伴う。誠にはまだ『損得で動く大人の論理』が染み付いていない。彼はその論理に抵抗しながらも、どこかで『折り合い』をつけなければならないことを悟っている。 『こいつ等本当に『特殊な部隊』だ!毎回そんなに懲罰を受けてる?よく解体されないな!』  誠の心の声は皮肉だが、組織は時に狂気じみた自浄作用を持つ。外から見れば不可解なルールがここでは生き残りの文法だ。誠はまだそれを完全には理解していない。  誠は危険度においてもここは『特殊な部隊』であることを再確認した。  特殊とは高い技能だけでなく、常識の逆をも包含する。誠はその“逆”に翻弄されながら、自分がここに残るべきかを静かに考える。 「じゃあ神前。報告書も何もいらないから。まあしばらく頭冷やしてじっとしてろや。これからは知らない人に声をかけられてもついて行かないという、小学生でも分かってる常識を実行してくれれば、それで良いんじゃない?」  嵯峨の結論は簡潔だが、その背後には多くの折衝と妥協がある。誠はその“普段着の常識”を守ることが、この場では最も現実的な防御であることを学ぶ。だがこの教訓は、彼にとっては頼りない慰めに過ぎない。  そう言うと嵯峨は目の前の書類に目を落とした。  書類は夜の光に紙の白さを取り戻し、そこに押されたハンコや走り書きが現実を示す。誠はその紙に自分の名がどのように記されるのかを恐れながらも、静かに目を伏せる。 「行くぞ。処分は覆らねーから何を言っても無駄だ」  処分の確定は、今夜の出来事を一つの形式に収めることだ。誠はその形式と自分の経験の齟齬を噛みしめる。だが上司の言葉は既に決定を下している。彼は従うしかないのか……その問いだけが胸に残った。  いつもの小さな8歳ぐらいの女の子にしか見えないランの体から、誠を|竦《すく》ませるような強力な『殺気』が放たれる。  ランの『殺気』は戦闘中の集中とは違う。今は、組織を守るための威圧の一種だ。それは誠にとって母親の叱責のようでもあり、教官の鉄拳のようでもある。彼女の手が誠の肩に触れると、その温度が現実へと彼を引き戻す。  ランは誠の腰をかわいい手で叩いて、誠に隊長室から出ていくように合図した。  合図の仕草は短く、だが意味は重い。誠は一歩一歩を確かめるように歩き、ドアを開けると外の冷気が彼を迎えた。夜の空気は鋭く、彼の胸の重さをそっと溶かす。 「それじゃあ失礼します!」  言葉は元気だが、それは見せかけの強さだ。誠は背中に何かを抱えて出口に向かう。  膝が震えているのが誠にも自覚できた。これは死体を初めて直接目にしたかなめの救出劇の時には感じられない種類の震えだった。  それは恐怖ではなく怒りと困惑がもたらしたものだと誠は思っていた。  だがその何かは、彼がこれからの人生で何度も抱えることになる『重み』の始まりである。  誠はこの組織のあからさまな組織防衛の意図と、世界の不条理に納得がいかない表情のまま勢い良く扉を開けて出て行った。

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