橋本直 / 第64話

第59話 『魔法少女軍曹』の過労死理論

 ……それから八時間後。  その小さな身長に合わせて切り詰めた短い竹刀を持つランに見守られながら、誠はまだ走っていた。  走り始めた時、筋肉は高校時代までの野球部のエースとしての日々を思い出していた。  空を切る足音が、誠の中の少年を呼び覚ます。敵意とも悪戯ともつかないランの期待満ちた視線を浴びつつ、誠は小さく息を吐いて応える。  夏の長い日も夕暮れに染まり、まもなく終業時間を迎えようとしている。  夕焼けが地面にオレンジの布を掛ける頃、誠はまだ一人、グラウンドを回っていた。  昼間の熱気は落ち着き、冷たい風が汗ばんだ肌をなでる。誠は俯瞰で自分を見ることを覚えつつある。  ここにいる自分は、以前の自分と少し違う。無理をせずに長く走れることを喜べるようになった。  誠が走り始めたのを確認すると、ランはいったん姿を消した。  そして朝食の時間だけ戻ってきて、食事の間だけ誠に休憩を許した。  そして夕方近くになって、ランは再び姿を現して誠が走り続けているかどうかを確認した。  誠が、ランが去った食後もずっと走り続けていたことを。    朝渡した高校時代のジャージを着て、今もグラウンドを走る誠の姿を見て、ランは満足げにうなずいた。  午前中は誠一人が走るだけだったが、昼食を済ませた午後になると部隊全員の体力強化のためにランニングが課せられていた。  その体力トレーニングメニューを提案したのもあの『魔法少女』ランだと一人の整備班員が誠にこぼした。  グラウンドには隊員の雑多な姿があった。  そんな部隊の隊員達の中、体力は人並み以上な誠は圧倒的なスピードで他の『特殊な部隊』の他の隊員を引き離して疾走していた。  昼休みと、午前・午後に一度ずつ与えられた十分休憩を除いて、もう5時間も誠は走り続けていた。  5時間という数字は重い。  普通なら失速して当たり前だが、誠の足は一定の拍子を刻み続ける。  母のしつけと野球部の鍛錬が、今ここで役に立っている。  その後ろを、午後から嫌々参加させられたパーラ・ラビロフ中尉が続いていた。  『戦闘用人造人間』でありながら、唯一この『特殊な部隊』のカラーに毒されていない彼女だけが、律儀に走っていた。  パーラはリズムを乱さない。作られた存在であれ、人は己の節度を守る。彼女の走りは美しく、誠はときおりその背中を見ながら自分の判断を確かめる。  考えてみれば、午前中からランニングを続けてきた誠が戦闘用に体力を強化された人造人間であるパーラの前を走っていることがある意味、誠のタフさを示しているとは言えた。  高校を卒業してから5年のブランクがあるとはいえ、そのタフさは見守るランを十分に満足させるレベルのモノだった。  ランは短い足取りで誠に近づくと、満足そうに腕を組みなおし、誇らしげにうなずいている。  その様子は小さな将軍が満足しているかのようだ。  一方、他の『特殊な部隊』の隊員の過半数は歩いていた。  彼らはランニングをしているのではない。  終業時間まで、グラウンドの上で合法的に勤務時間を溶かしているだけだった。  彼らの歩調は任務の一部か、あるいは逃げのテクニックか。いずれにせよ、誠がひた走る姿は彼らにとって見ものになっている。  彼らにとって午後に課せられる退屈なランニングは『面倒』そのものなのである。  パーラと同じ『ラスト・バタリオン』であるはずのアメリアがその先頭を『馬鹿歌』を歌いながら歩いているのが誠の視線に嫌でも入ってくる。  アメリアの表情には自分がランの言いつけに反してトレーニングの時間にただ暇つぶしに『馬鹿歌』を歌いながら歩いていることに対する罪悪感はみじんもなかった。  アメリアの歌の歌詞はとても人前で女性が口にするものとは思えないほどの卑猥極まりない内容で、もしこれがテレビ放送されることにでもなったならばその番組はその歌詞が電波に乗った瞬間終了すること確実な内容のものだった。  その周りで終業までの時間を潰すために歩いているアメリアの部下の運航部の『ラスト・バタリオン』の女子隊員達の中にはそれを楽しんで一緒に口ずさんでいる者までいる。  誠はアメリアの『馬鹿歌』の珍妙な歌詞に笑いをこらえつつ、自分がその輪に入らないことを再確認した。  その隣ではヤンキーの島田が自慢げに話す姿を見てサラが爆笑していた。  島田の大げさな身振りは、日常の中の小さな劇場を作る。誠はその舞台を観客として楽しむ余裕を少しずつ持ち始めている。  さらにその後ろには島田の『手下』の技術部員が続く。  彼等がそこにいる原因は島田の前を歩くと、彼に何をされるかわからないからである。  ランがグラウンドの中央を見ると、残りの女子と技術部の将校達が誠の走る姿を見守るばかりでグラウンドの中央で寝そべって談笑を繰り広げるばかりでそもそも歩くことすらしていなかった。  誠はそんな中をひたすら走り続けていた。 「なんだ、神前もちゃんとトレーニングしてるじゃねーか……良い傾向だ」  小さな上司、クバルカ・ラン中佐はどうやら隊では彼女のトレードマークらしい短い竹刀を手に走る誠を満足げに眺めつつそう言った。  誠はランの視線が誠にしか向いておらず、他のどう見てもサボって終業時間までの時間を潰しているだけの隊員達は眼中にないことにすぐに気付いた。  つまり、ランにとって新人の誠だけ走っていれば、あとはどうでもいいのである。他の隊員がいくらサボっていようがランの関心では無かった。  理不尽だとは思う。でも、『選ばれて』目をつけられているのもまた事実だと、誠は薄々理解し始めていた。  ランは誠を見つめ、その眼差しには褒め言葉よりも使命感が宿る。誠はその視線を受け止め、ゆっくりと呼吸を整える。  一人、誠に付き合って軽いジョギング程度の速度で走っていたパーラはグラウンドに現れたランの姿を見つけると、いつものランの『新人のみ徹底教育モード』を理解しているので、まじめにランニングをした自分を恥じた。  パーラの恥じらいは純粋さの裏返しだ。彼女は真面目に走ったことを、自分の小さな反乱のように思っている。誠はそれに気づいて微笑む。 「神前!元気だな!まだ走れるか?あと5時間ぐらい走るか?走れるな?走ってもいいぞ!つーか走れ!上官命令だ!その為の夜間照明だ!ちゃんと深夜までオメーが壊れるまで走らせてやる!」  満足げな笑みを浮かべながらランは短い竹刀を手に大声で誠に話しかける。  ランの笑顔は、いつもどこか子供じみているが、その裏には鍛錬への深い信仰がある。誠はその熱量を測りながら、声を絞る。 「……クバルカ中佐……僕は長距離はちょっと自信があるので……でも10時間も走るなんて……テレビのチャリティー番組のランナーだって番組の間はタクシーで移動してるって聞いてますよ……」  小さなランの前で誠は息を切らしながらそう言ってほほ笑んだ。  彼の笑顔は『負けない』を示す優しい抵抗だ。ランはそれを理解せず、真剣にさらに輪を広げる。 「ああ、あんなのはイカサマだから気にすんな。そーだな。そのマジでテレビの24時間マラソンが出来る人並み外れた体力は認めてやる。ただ、あのひ弱な芸能人たちよりオメーが優れているのは本当に24時間走れと言われたらその通り24時間走れるところだけだ。そこは何処に行っても自慢になる素質だ!褒めてやる!その体力があればどこでも生きていける。『作業員』として……テレビのあの企画に選ばれたタレントも『作業員』をやるのがちょうどいーんだ。アタシがアイツ等のギャグが面白いと感じたことは一度もねーからアイツ等には『作業員』以外務まらねーのは確実だ。ただ、アイツは最低時給の『作業員』だが、アタシが上司なら時給が50円高い『作業員』になれる!」  ランの前まで来て立ち止まって肩で息をする誠に向けて、ランは誠の全く望まない評価を下した。しかも誰でも出来る簡単なお仕事の時給が50円上がると言うのがランにとっての誠の評価らしいと言う事実は誠を心底傷つけるには十分だった。 「僕、『作業員』になるために大学を出たわけじゃないんですけど……それにあの人達はCMとか出て稼いでるから『作業員』をして生活費を稼ぐ必要は無いと思うんですけど……それより……もう終わりにしません?さすがの僕でも明日が心配なんで」  ようやく息が落ち着いてきた誠はそう言ってパーラに視線をやった。  長いランニングは思考を研ぎ澄ます。誠は自分の選択を改めて問い直し、しかし逃げる決意はまだない。ここで学ぶことも多いと、彼は小さく納得する。  パーラも誠が立ち止まったのを確認すると同じように軽く息を弾ませながらとりあえず立ち止まった。 「クバルカ中佐、私は……水分補給してきます」  パーラはランにそう言って立ち去った。  パーラの去り際のまなざしは、誠を託すようで温かい。彼女は『逃げるか残るか』は当人が決めると信じている節がある。誠はその信頼を胸に、また少しだけ走り続ける。  パーラは誠を『偉大なる中佐殿』と呼ばれるクバルカ・ラン中佐にこれから始まるランの大説教の『|生贄《いけにえ》』として差し出した。  これから始まるであろう誠に対する説教に巻き込まれることだけは避けたい。  パーラの後姿にそう書いてあるのを誠は見逃さなかった。結局、人間は自分がかわいいのである。  観察力のある誠は、場の力学を読むのが上手くなっている。誰が何を守り、誰が何を諦めているのか。そうした小さな読み取りが、彼の生き残り戦略でもある。  その短い竹刀を持った小学校低学年と言った体形のランに対して、大男である誠がすまなそうにしている様ははたから見れば異様に見える。  足の長さも体格も対照的な二人の並びは、奇妙なコントラストを作る。だがそれはここならではの秩序で、周囲はそれを当然のように受け入れている。  しかし、ランの鋭い眼光ににらまれた誠はまさに『蛇に睨まれた蛙』と言える状態だった。 「神前。何周走った。数字で答えろ」  『偉大なる中佐殿』はそう言って誠を睨みつけた。瞳は情熱に燃えていた。  ランの質問は単純だが、その裏にある意図は大きい。誠はついつい目を泳がせてしまう。 「50周くらいですけど……もっと走らないといけないんでしょうか?……さすがに初日にこんなに走ったら身体が壊れると思うんですけど……」  仕方がないので誠はそう言った。一周、400メートルのグラウンドである。  当然二十キロ以上走ったわけである。  誠の努力は数字としては見事だ。だがランの目には常に『まだ足りない』という尺度がある。彼女の尺度は常人の想像を軽く超えるのだ。 「50周……アタシが期待したレベルじゃねーな!午後の終業時間まであと一時間ある。その間、ずっと走り続けろ!テメーにはそれを出来る体力がある!うちで必要としている力が有る!走れ!ああ、残業と言うことで走り続ける許可が欲しいか?ならくれてやる!最低あと5時間は走れ!そんぐらい走れて当然だ!」  ランの目は完全に『体育会系』そのものだった。  狂気を帯びたランの言葉を聞いた誠は、助けを求めようと背後にやってきた隊員達に視線を走らせた。  しかし、ランが出てきたところで『馬鹿歌』を止めて普通のアニソンを歌うことにしていたアメリアを始め、全隊員が誠の投げかけるSOSの視線からわざとらしく目を逸らした。  群像の中で、誠はいつも独りではないが、瞬間的には孤立する。 「頑張ってね!誠ちゃん」  過激な性表現が問題になり打ち切りになったことで話題になった学園ラブコメアニメのエンディングを歌い終えたアメリアは余裕の表情で自分に火の粉が回ってこないように警戒している調子で誠にそう言った。  アメリアの声は甘く、だが救いではない。彼女はいたずら心で世界を彩る魔女のようだ。誠はその言葉をお守りのように受け止める。  他の明らかにランの標的にならないことを理由に楽をしている先輩隊員達は完全に自分は楽をしておいて誠だけを『鍛える』と言うことで意見が一致しているようだった。 「そうだ、神前。走れ!飽きたら『うさぎ跳び』!それが飽きたら『千本ノック』!タイヤを引いて足腰を鍛えるのもアリだ!午後10時以降は深夜割増が残業手当に乗るぞ!その後は筋トレだな!腹筋1千回!ベンチプレスも施設は島田に用意させた!いくらでも鍛えられる!死ぬまで鍛えろ!」  ランの提案はどんどんエスカレートする。誠は心の中で冷や汗をかきつつも、母のジャージの袖口をぎゅっと握る。母の手が、その緩やかな力を彼にくれる。 「そんなことしたら僕の身体でも壊れちゃいますよ!これってパワハラですよね?逃げて良いですか?逃げないと僕死んじゃいますよ!」  高校時代にも腰に悪いと禁止されていた『うさぎ跳び』を勧めてくるランが『精神至上主義』の高校野球の監督の『孫娘』に見えてきて誠はたじろいだ。 「あのなー神前。これがいわゆる『社会人になる』と言うことなんだ。普通のサラリーマンは夜の終電で帰り、始電で出勤して休日も同じペースで365日働いてるってアタシは聞いてるぞ?それが世の中なんだ!多少勉強ができるだけの『モヤシ』には書類仕事しかねーんだ。真の戦いの世界は『根性』、『気配り』、そして『体力』。この3つがあればいーんだ!他の事はアタシ等幹部が考える!オメーはただ走ることだけに集中しろ!他の事は何も考えるな!」  そう言ってランはグッと右手を握りしめて誠に差し伸べた。 「働くってのはな、足を止めねえことだ!座ってるサラリーマンなんざアタシは信用しねえ!」  ランの頭の中では、サラリーマンとは朝の始発で会社に向かい、終電まで机ではなく足で働き続ける存在らしい。  通勤電車に揺られる時間も、会議も、書類仕事も、彼女の脳内ではすべて『走る』に変換されていた。  ランにとって、机に向かっている人間は働いている人間ではなかった。  ただ、走る準備を怠っている人間だった。  ランの固い握りは、挑発と救いの両方を含む。誠はその手を見つめ、小さく息を呑む。抱えるべきものを抱きながら、彼はまた一歩を踏み出す。 「結局……僕って……逃げたい……正直、逃げたい……」  誠はランに聞こえないように小声でそうつぶやいた。 「書類仕事?そんなもんは走りながら考えろ!本当に必要な知恵なら肺が焼けても残る!」  熱いランの暴論が走り続ける誠の耳とランの関心から外れている他の隊員達の耳にも響いた。  誠には死の恐怖として、隊員たちには聞き慣れた幼女の鳴き声にそれは聞こえていた。  しかしつぶやきは夏の蒸し暑い熱気を孕んだ風にさらわれ、遠くの犬の鳴き声にかき消される。逃げたい気持ちは誰にだってある。だがそれをどこに置くかが、その人の人生を決める。 「いーじゃねーか!オメーにはたぐいまれなる『体力』と言う宝石の原石が眠っている!それを磨け!鍛えろ!その先に道は開ける!普通の人間には眠っていない超能力だ!まさにスーパーヒーローになった気分だろ?走れ!ただひたすら走れ!過労死?そんなもん自分がもやしだから死んだだけだろ?そんなのアタシは認めねー!24時間365日働き続けてこそ真の人間!それが出来ねー人間は今すぐ死ね!」  そういう人間ばかりだからあっちこっちの戦争が終わらないんじゃないか……とは、さすがに口には出さなかった。トレードマークの短い竹刀を手にしてのランの狂気の励ましに誠はただあきれ果てた後、仕方なくランニングを再開した。  ランの言うところの『超能力』は、誠にとっては日常の一部に過ぎない。足るを知る者は、自らの持ち味を誇ることを躊躇しない。誠は小さく笑いながら、しかし真剣にペースを守る。 「とんでもないところに来ちゃったみたいだな……逃げたいよ……母さん……本当に殺されるよ……魔法世界じゃない現実世界の常識が通用しない『魔法少女』に……」  誠はそうつぶやくとランの説得をあきらめて再び走り始めた。  夕闇が迫るグラウンドで、誠の影が長く伸びる。母のジャージは擦り切れているが、その布地は彼を励まし続ける。ここで走ることが、いつか何かにつながるのか……それはわからない。だが今、彼は確かな一歩を刻み続けている。

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