橋本直 / 第38話

第33話 ナースと詩のノート

「じゃあ行くからな……オメエも気合い入れろ。ここじゃあ男たるもの気合いを入れてひよこちゃんに話しかけるのがルールなんだ」  そう言って急ぐ島田の後に続いて誠は足を速めた。  要するに、島田は誠をだしにして、可愛い新人ナースの顔を見たいだけなのだ。  その下心は見え見えで、誠は苦笑いを浮かべるしかなかった。  本部棟の無駄に長い廊下を進み運航部に向かう廊下を左に曲がると、そこには小さな白い看板に明らかに女性の書いた筆文字で『医務室』と書かれているのが目に入ってきた。扉の取っ手に手をかける前、島田が低く誠に声をかける。 「ここだ。まあ、ひよこちゃんは人懐っこいからあのオメエがその前に座ることになる二人の不愛想な女パイロットどもに虐められたらここに避難して来ると良い。あの二人には男心というものを理解するという能力が根本的に欠けているからな。それに、ランの姐御にそんな弱みを見せようものならすぐにグラウンド20キロ走れとか言われるんだ。あの部屋にいる限りオメエには一切の逃げ場なんてどこにもねえんだ。まったくオメエには同情するよ」  島田はそう言うと気合いを入れるように咳払いをして扉を開いた。 「失礼しまーす」  これまでにない妙に人当たりの良さそうな口調で島田はそう言ってドアを開いた。誠は仕方なく自信ありげに部屋に入る島田に続いて医務室に入った。 「ひよこちゃん! いるー?いると嬉しいなー!」 「はーい!いますよー!」  中から返ってくる明るい声に、誠は胸が少し弾むのを感じた。扉を開けると、内部は保健室を思わせる温度と色合い。白い壁、消毒液のさわやかな匂い、そして窓から入る柔らかな光。外の油と暑さから急に遠ざけられたようで、誠はほっとした。  カーテンの陰から飛び出してきたのは、ふわりとカーリーヘアーが揺れる小柄な女性だった。瞳がまんまるで、表情が目に映るたびに空気が少し明るくなる。これまでの癖の強すぎる女性陣と比べると典型的な美少女の登場に誠の頬は思わず緩んだ。 「こいつが今度来た奴だ。もしかするとひよこちゃんに迷惑かけるかもしれねえと思って連れてきたんだ。今何かしてた?もしかして迷惑だった?迷惑ならすぐに連れて帰るけど」  島田が嬉しそうに紹介する。誠はこの隊に来て見た目がまともな人間に初めて出会ってほっと一息ついた。 「迷惑だなんてそんな!聞いてますよ!島田班長!誠さんですよね!アメリアさんが『今度ひよこちゃんと同じ苗字の背が高くて頼りになりそうに見えるかっこいい男の子が来るから歓迎してあげてね♪』って言われてますから!私も苗字が『|神前《しんぜん》』なんです!奇遇ですね!これは本当に奇跡かも知れません!今日は本当にいい日になりそうですね!」  ひよこが誠に飛びつくように近づくと、誠は一瞬体がのけぞった。驚きと同時に、頬の奥が熱くなる。可愛らしさだけでは片付けられない、どこか危うい素直さが彼女の周りを包んでいる。  ひよこは正直、『かわいい』感じだった。年齢は幼く見えるが、看護師と言うことは短大か専門学校は出ているはずなので二十歳ぐらいと言う所だろうか。誠はなんとなくうれしくなって彼女のまん丸の瞳に恐る恐る目を向けた。照れている誠の顔をどんぐりのような丸い瞳が見つめてくる。思わず誠はこれまでの女性陣には感じたことのないときめきを感じながら頭を掻いた。  誠は明らかに喜びを称えつつ典型的な『嫉妬』の色も帯びている島田の視線に怯えながらおずおずとひよこに声を掛けようとした。 「神前ひよこさんですよね?看護師さんですか……でも一人でお仕事なんて大変そうですね……」  誠はあまりにもこれまで出会った女性陣のどこか人を寄せ付けない雰囲気に食傷していたので、いかにも親しみやすそうなひよこに向かってそう語りかけた。 「はい!神前ひよこです!今年の春からこの実働部隊にお世話になってます!お仕事は今のところ別に大変じゃないですよ!私がする仕事なんて時々グラインダーの火花を浴びてやけどした人に包帯まいたりとか、アメリアさんが部下の人にアツアツのおでんを顔面に乗せてやけど寸前になった時に氷を当てたりくらいしかしたことが無いですから……そもそもそれって看護師が必要なのかなあと思っちゃうことくらいしかすることが無いです」  そう言って笑いかける幼く見える姿を見て誠は思わず頬を赤らめた。 「私、東和陸軍医療学校の看護学科卒でここが初めての配属先なんですよ。一応、持ってはいるんですけど、包帯巻くのはちょっと……」  どこか頼りなげに見えるひよこの姿をただ誠はかわいい女性に会えたという幸福感だけで満足していた。   「いやあ!うちも若いのが多いから!前の医務室駐在のおばちゃん看護師が今年の4月に定年で辞めたからどんな人が来るかなーとかうちの馬鹿共が言ってたところにひよこちゃんみたいなかわいい子が来て!確かに包帯を巻くのはうちの兵隊の方が得意なのは事実だけど」  自信が無さそうにうつむくひよこを島田は必死になってフォローする。 「でも……私……新米だし……経験もあまり……」  その言葉に逆に自信を失っていくのがひよこの特性らしいと誠は理解した。 「関係ないから!経験とか無くていいから!」  いじけるひよこと焦る島田の掛け合いが繰り広げられる。  島田は軽々と女の子の名前を呼ぶ。    ひよこは当然のように距離を詰める。    その二人の間で、誠だけが会話の作法を知らない遼州人として立ち尽くしていた。  次の瞬間、誠は背後に視線を感じて振り返った。ドアの隙間から整備班の制帽の白いつばがいくつも覗いているのが見えた。 「島田先輩……あの人達……なんです?」  ひよこに愛想笑いを続けている島田に誠は思わず声をかけた。そんな誠に島田はその明らかに整備班員と思われる男達に聞こえないように小声でつぶやいた。 「言っとくぞ神前。ひよこちゃんには整備班にファンが多い。下手に手を出すと血を見るぞ。オメエの隣の席の小隊長と同じで、ああいうタイプは妙に男どもが守りたがるんだ」  警告するような口調で島田はそう言った。 「小隊長って……カウラさん?コアなファンって……」  島田は誠の耳元でそうささやくと頭を掻きながら部屋の扉に向かった。 「じゃあ、ごゆっくり!オメエならひよこちゃんの手ぐらい握っても俺は許す!オメエは俺の舎弟だ!俺の責任でどうにかできる範囲のことなら俺の責任で全部何とかしてやる!」  整備班の野郎共の敵意の視線を浴びながら、誠は明らかにひよこを意識している島田の背中を見送った。 『オメエ等!覗きは犯罪だぞ!つまらねえことしてるくらいならランニング!グラウンド十週!走れ!それと神前の野郎はこれまで来たひ弱なもやしどもと違って俺が認めた男だ!変な気起こしたらただじゃ済まねえからな!』  医務室の外で島田の叫びがこだました。  そんな島田と部下達の騒動が去るとひよこはようやく誠になじんだかのように微笑んだ。そして詩を書きためたノートを差し出す彼女の手が震えているのを見て、誠は胸がきゅっとなる。 「私が書いた詩なんです。読んでくれますか?」  これまでより少し自信なさそうにひよこはそう言った。 「私は詩を書くのが好きで……本当はうちにお金があれば大学の文学部に行きたかったんですが、うちは母子家庭なんでお金がなくって……だから看護学校でも在学しているだけでお給料が出る東和陸軍医療学校を選んだんです」  誠は表紙をめくる。うさぎやたぬきの落書きめいた挿絵、拙いけれど一生懸命綴られた言葉。それは読み手に媚びない、彼女だけの世界だ。 『夏の風……少し暑い日々……』  繰り返されるフレーズは単純だが、読む者の胸のどこかに柔らかく触れる。  誠は正直、詩の意味をすぐには掴めずにいた。文系に縁のない理系頭は、言葉の揺らぎを即座に分析できない。しかし、その表紙の下にある不器用な真心は、言葉の正確さを越えて届くものがあると気付く。ひよこの瞳が期待に満ちているのを見て、誠は言葉を選ぶ。 『数式みたいに一つの答えに収束しない言葉。それでも、目の前の書き手の顔を思い浮かべると、不思議と意味を持ち始める。そんな言葉も世の中にあってもいい。いやきっと必要なんだろうな』  刺繍の表紙のかわいらしいイラストを見ながら誠はそんなことを考えていた。 「どうですか?正直な感想を聞きたいんですけど……」  それまでの小動物のような活発そうな態度が消えて、ひよこは誠の寄せられた眉が気になるようで心配そうにそう尋ねてきた。 「まだ一ページしか読んでないけど…その、素直でいいと思うよ。君のままの言葉だ」  ひよこの顔に、ぱっと光が差した。 「ありがとうございます。よかったら、あとで感想を聞かせてくださいね」  ひよこが恥ずかしそうにノートを差し出す。誠は胸が高鳴るのを押さえつつ頷いた。  言葉で返すのは苦手だ。だが、彼女の純朴さに応える形で、誠は素直な一言を紡いだ。 「ありがとう。ゆっくり読むよ。……たぶん、意味がわからなくても、伝わるものはある……と思う」  ひよこはそれだけで満たされたように笑い、誠の肩に小さく触れる。接触は短く、しかし確かな温度を持っていた。誠は一瞬、自分がこの場所にいていいのだろうかと考える。だが、島田の不器用な『舎弟宣言』と、ひよこの無邪気な笑顔が同時に心を柔らかくしている。  ただ、ここに長居をすると先ほどの島田の制裁を受けた整備班員達がどんな嫌がらせをしてくるか分からない。あまりに居心地がいい場所に長居することは許されないことはこれまでの長居することが拷問でしかない場所を訪問した経験で誠は学習していた。 「ごめんね……僕は他にも挨拶をしなきゃなんないところがあるから!」  爽やかお兄さんを演出しつつ、誠はそのまま医務室の扉に手をかけた。 「はい!誠さん!頑張ってくださいね!」  また明るくなったひよこの声を聴いて誠はひよこに見送られ、医務室を後にした。その声は、これから始まる日々の小さな背骨になりそうだった。誠は少しだけ背筋を伸ばし、次の訪問先へと歩き出す。油の匂いと消毒の匂いが混ざり合う瞬間、彼の胸には……不器用だが確かな『居場所』の予感が広がっていた。

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