橋本直 / 第25話

第20話 謝罪より掃除

 ランのシュツルム・パンツァーパイロットの詰め所の部屋からゆっくりと歩いた先に、小窓のついたドアが並ぶ廊下があった。扉のひとつごとに小さな札がぶら下がっている。紙の札には手書きの文字があり、年季の入った机や資料棚と同じように、ここが長く使われてきた場所だと告げていた。さして大きくはない廊下だが、空調の風が時折誠の首元を冷やし、紙の匂いと古いコンクリートの匂いが混じり合う。  ランはそのうちの一枚の札の前で立ち止まった。札には太い文字で『隊長室』とある。誠は自分に言い聞かせるように、声をかけるでもなくその札を口に出した。外見では普通の札と変わらない。だがランの肩に力が入っているのが誠には見て取れた。 「『隊長室』か……いつ来てもうんざりするな……あの『駄目人間』が……」  ランは手の動きを止め、扉にそっと手を触れた。ランの顔が微妙に歪みノックするか否か、一瞬ためらいが走る。彼女の小柄な背中に、いつもは見せない不満と怒りがちらりと滲んだ。 「言っとく。ひでーものをこれからオメーは見ることになる……それだけは覚悟しておけ」  ランの声は低く、怒りが籠もっていた。誠は困惑する。何がひどいのか、まだわからない。だがランは言葉を続ける。 「入るのが嫌なら構わねー。そのままオメーの実家までアタシの車で送ってやる。それも人生だ。だが、この中のすべてを仕組んだ『駄目人間』の顔も見ずに辞めたということになると全責任がアタシに回ってくるようにあの『駄目人間』は仕組んでやがんだ。そーなればまたパイロットが辞めたということであの『駄目人間』はアタシの責任問題になるよーに仕込んでやがる。一応、アタシが隊長の面倒見てるし、あの男は責任逃れの天才だから面倒ごとは全部アタシが被ってるんだ。だから後で何かあったら『嵯峨惟基が悪い』で通してくれ。そーすればさすがに今回はあの男も言い逃れは出来ねー。頼むわ」  ランの顔には本気の嫌悪が浮かんでいる。誠は目を丸くした。そこまで言わせる相手とは、どれほどひどい人物なのだろうか。  扉を押して中に入ると、誠はまず大きな机の存在感に圧倒された。机の向こうに、これからの当事者……嵯峨惟基特務大佐が座っている。彼は椅子にもたれ、ピンク色の表紙の雑誌のようなものを弄りながら、タブレットを指で弾いている。動きはだらしなく、寝ぼけたような目で室内を眺めていた。 「おい、『駄目人間』」    ランは一言で切り捨てた。  その呼び方に、誠は一瞬言葉を失った。一応は目の前の嵯峨は司法局実働部隊の隊長であり、上司である。だが、ランから見れば嵯峨こそがランの倫理基準をはるかに下回るレベルの『駄目人間』なのだろう。誠は慎重にランを見返す。彼女は小柄だが、目つきには強さがあった。幼い見た目と裏腹に、立場を守るためなら容赦しない器が宿っている。  嵯峨は雑誌を片手に、申し訳なさそうに肩をすくめた。 「ああ、ラン。別にそんなこと言われても俺は気にしないよ。『駄目人間』……いいじゃんそれで。俺はそうあることを少しも恥ずかしいと 思ったことがないから別に気になんかならないよ。それに俺が仕事をしていないのは俺に与えられた仕事に対して俺が有能過ぎて仕事が早く終わっちゃうもんだから、することが無いんだから仕方ないじゃないの。時間は有限だよ、有効に使わなくちゃ。金があればなあ……月3万円の生活費じゃこうして俺の趣味の風俗店の情報誌買ってチェックするのが関の山だよ……ああ、お金があればなあ……」  かつて戦争を憎み、血を流す意味を語った男が、今は埃まみれの隊長室で風俗情報誌をめくっている。  しかも、その顔には敗北感がなかった。  むしろ、ようやく自分にふさわしい場所へ落ち着いた人間の、妙な安堵感すら嵯峨の表情には浮かんでいた。  今の状況は嵯峨にとっては落ちぶれた結果ではない。  嵯峨本人の中では、現状はたぶん完成しているのだ。  そんな二人の会話を聞きながら隊長室の扉が開いた瞬間から、誠の頭の中で何かがひっくり返ったままだった。湿った空気が押し寄せ、埃の粒子が動いているのが見えるようだった。  誠は嵯峨の顔を見る前に、机を見た。  そして、嵯峨を許すかどうか以前の問題として、この部屋を許せなくなった。  机の上には書類の山が崩れたまま吹きだまりのように積まれ、日本茶の茶渋の輪が何枚も紙の端に広がっている。  椅子の背にはシワだらけの上着が投げ出され、床には靴底の黒い汚れが帯状に伸びていた。  壁の鎧は妙にほこりを被り、管弦楽器のような琵琶は弦の錆で色がくすんでいる。  窓際の植木は水を切られて葉が垂れ、鉢皿に茶色い水たまりができていた。  匂いは古い紙と汗、油の混じった濁った匂いだ……誠が普段、掃除と整理整頓に誇りを持っているなら、これは暴力に等しい。  誠は、埃を吸い込むだけで自分の中の何かまで汚れていくような錯覚を覚えた。  まず最初に、整理整頓の重要性を母からたたき込まれてきた誠にはその『汚さ』に何も感じていない嵯峨は、十分に怒りの対象だった。  母の道場で床を磨いたときの感触が、手のひらに鮮烈に蘇る。竹の打ち込み音、布巾をきつく絞るあの音、拭き上がった木の光沢。  それらは誠にとって清潔さの証であり、礼儀の一部だ。  ここには礼儀も、最低限の手入れも、気配りもない。  誰かが生きている痕跡と同時に、放置された怠慢が濃縮されている。 『なんだこれは。人が生活してる場所の空気じゃない。ここで仕事をしているというだけで、器が小さく見える。汚れを見て見ぬふりする奴は、器だけでなく中身もそれに釣られているんだ』  これまでの対人恐怖症じみた誠の胸の内で、そんな強い言葉が連打された。嵯峨の座る椅子の背もたれに視線が落ちると、そこにこびりついた汚れや、ポケットに押し込まれたレシートの先端が見えた。身だしなみと空間の管理ができない人間が、他人の人生に手を突っ込むことなど許せない……誠の軽蔑は、理屈ではなく体の底から湧き上がる生理的な反応だった。  潔癖症というほどではないが整理整頓と掃除には人間としての価値が現れると母から教わっている誠にはこの光景は拷問以外の何者でもなかった。 『この部屋を見れば、この男の精神がわかる。書類を順に並べられない奴が、人の人生を整えられるはずがない』  誠は口に出せない上司への不満にはらわたを煮えくり返らせていた。そんな誠を一瞥すると嵯峨は明らかに予想通りの反応だというようにニヤリと笑ってゆっくりと雑誌を置き、軽く頭を下げる。謝罪の言葉が出るときの顔は、どこか軽薄で、反省の色は薄かった。誠はそれを見て、気持ちがますます冷たくなるのを感じた。  嵯峨はそんなあきれ果てた表情の誠をまるでその内面まで理解しきって満足したというような笑みを浮かべた後、急に立ち上がってゴミだらけの大きな隊長の机に突っ伏して頭を下げた。 「一応、謝っとくね。ごめんなさい。全部私がやりました。神前の人生をぶっ壊したのは私です」  全く反省の色の見えない軽い口調で嵯峨はそう言った。 「東和宇宙軍のパイロットコースもごり押しで通しました。ですから、ごめんなさい。許してください……許してくれるよね?神前は優しいってお前さんの母さんから聞いてるよ?だからね?お願い、許してくれるよね?」  嵯峨はまるでちょっとした悪戯で誠を追い詰めたけど軽く頭を下げれば済むと考えているようにそう言った。    普通なら、自分の人生を勝手に曲げられたことに怒るべき場面だった。  人生を勝手に曲げられた。  それは重大な問題だった。  だが今の誠には、それよりも重大な問題があった。  茶渋だ。  その他の部屋の乱れのすべてが、嵯峨惟基という男の罪状として、誠の中で次々に積み上がっていった。 『謝るのは簡単だ。言葉は紙の上のインクのように擦れば消せる。この男には頭を下げるなどという行為は息を吸うようなものなのだろう。この部屋を見ればこの男の精神そのものが分かる。これだけ整理整頓とも掃除とも無縁な男は……信じるに値しない。汚れは取り除かなければ戻らない。お前がしたことの尻拭いも、言葉だけじゃ済まないだろう?』  その謝罪を聞きながら、誠の中では嵯峨への軽蔑が言葉になって反芻される。母の剣道場で見せられたあの男の笑顔、煙草の吸い方、妙に若々しい物腰……あれがとりあえず関係を保つに足りるとこの男が思った母へのただの演技だったことが確信に変わる。演技の背後にあるのは計算された策略と、ずる賢さだ。 『この男は狡い人間だ。本当に謝るつもりがあるなら、まずここをきれいにしてから言え。口だけの謝罪は灰に同じだ。お前が撒いた混乱は、誰かが掃き清めないと消えないんだ』  誠は机の端に目を向け、散らばる小物や空箱、使いかけのペンの山を見た。どれもが居心地の悪い乱雑さを訴えている。きれいに並べられた軍用ノートと、乱雑に積まれた娯楽誌が隣り合う不協和音。秩序と無秩序が同じテーブルに居合わせ、誠の神経を逆撫でる。  嵯峨は怒りの表情を浮かべて自分を見つめてくる誠を見てもまるで気にしていないというように手にした扇子を弄りながら誠がより不愉快になっていく様子を楽しんでいるように下卑た笑みを浮かべていた。  整理整頓は礼だ。  自分の周りを整えることは、自分を整えることだ。  母の道場で、誠はそう教わった。  だからこの部屋は、誠には単なる散らかった部屋には見えなかった。  嵯峨惟基という男の精神が、机の上にそのままぶちまけられているように見えた。  ランは誠の反応を横目で確認していた。  誠と嵯峨との相性の悪さを察したランは誠がキレて殴りかかることは予想していたが、これほど気の弱そうな誠が怒りに打ち震えて両手を握りしめて嵯峨をにらみ続けるという状況は想像していなかったようでその場をごまかすように口を開いた。 「まあ……神前を嵌めたのは事実だしな。まあ、そんな罠にかかる神前が馬鹿なだけだと言えばそれまでだけどな」  ランは誠のこめかみが引きつるのを見て小さく嘲るように笑った。誠はその笑いにも腹立たしさを覚える。ランが見ているのはこの空間の『味』ではなく、誠という若者の反応だ。嵯峨のやり方が誠をここに『埋めた』ことへの言い訳を、ランは既に知っているのだろう。 『嵯峨。母さんの知り合いだって?剣道場に来て、薄笑いで煙草を吹かしていた男。あのときの喋り方、目の泳ぎ、愛想の良さ……全部計算の匂いがした。今、その匂いが部屋いっぱいにこびりついてる。人を手玉に取る術師が使った油の匂いだ』  誠の内心は暴風のように荒れ狂う。考えれば考えるほど、嵯峨の所作の一つ一つが軽蔑に値する証拠に見えてくる。すべては演出だ。上品な言葉、気取った物腰、そういったものは信用に値しない。信用すべきは行為だ……拭われた机、磨かれた床、戻された本の背表紙。それらがない限り、謝罪も儀式の一部に過ぎない。  そんな誠を見ても嵯峨はただ頭を下げてそれで済んだというように隊長の椅子にふんぞり返って誠を珍しい生き物でも見るような目で見つめてきた。  そんな態度がさらに誠の神経を逆なでした。 『謝って終わりにする奴にろくな未来はない。やったことの始末を自分でつけられない人間が、どうして他人の運命を弄べる? 嵯峨、お前はただの方便使いに過ぎない。醜い器で大きく見せているだけだ』  誠は拳を握りしめた。  怒りは確かにあった。  だがその怒りは、自分の人生を弄ばれたことではなく……。  この部屋が、あまりにも汚いことに向かっていた。

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