橋本直 / 第82話

第77話 クライアント

 車の中では押さえつけられたまま、誠はじっと耐えていた。  車の頻繁な加減速と、カーナビのアナウンスが告げる音声から『東関道』『千要道』そして『首都高』を経て誠は、自分の乗せられた車が豊川の田舎町から東都湾岸部のような、開発から見捨てられた地に向かっているのではないかと考えていた。  カーナビが地名を告げるたびに、誠の胸が沈んでいった。  その地名はニュースで聞いたことがある。  火災、抗争、不法滞在者の摘発、行方不明者。  誠のように東都生まれの人間なら、用もなく近づく場所ではない。  そこへ、自分は目隠しをされたまま運ばれている。  なぜ郊外でなく都心に車が向かったのか。そしてその都心でも数年前の大地震で廃墟同然の湾岸部に車が向かうのか。誠の脳裏には疑問符が数多く浮かぶがそのどれもが仮定に過ぎないものは分かり切っていた。  この男達は明らかに誠を誠と知って拉致してきた。誠はそれほどの資産家の子弟と言うわけではない。  身代金目的ではない。  そもそも誠の家は資産家ではないのでこの可能性は初めから薄かった。    反政府組織の人質にするにしても、自分は司法局実働部隊の新人にすぎない。  考えれば考えるほど、理由が見えなくなる。  そして、理由が見えないことが一番怖かった。 「着いたぞ。とりあえずしっかりと目隠しをさせてもらうぞ。お前さんの扱いには慎重を期すようにってのがクライアントからの助言でね。その点は厳重にさせてもらう。まあ安心しな。俺達はお前さんを殺したりしないよ。そんな事をしたら俺達の取引はすべてお流れになるわけだからな」  クライアント。  車中での雑談でも男たちは何度もその言葉を使った。  依頼主。雇い主。金を出した誰か。  だが、誠にはその輪郭がまるで見えない。  暴力団でも、反政府組織でも、身代金目当ての誘拐犯でもない。  では、自分を欲しがる誰かとは何者なのか。  車から乱暴に誠を引きずり下ろすと、先ほどの男はそういう誠の顔にさらに布の袋をかぶせた。  誠が連れてこられた廃墟ビルの空気は重く、昼とは思えないほど静けさを孕んでいた。  埃の粒子は光を受けて漂い、床に落ちた紙屑が微かな影を作る。  さっきまでの車内の時間が、今になってゆっくり巻き戻されるように感じられた。  冷たい手錠の感触が、ようやく現実に自分を繋ぎとめる。  相変わらず嵯峨の手渡した『補聴器』からは何の言葉も聞こえてこない。不安と恐怖が誠を支配している。 『このまま見殺しかよ。あの親しみと狂気に満ちた『特殊な部隊』からぼくは解放されることになるのか……『死体』として』  そんな言葉が脳裏に浮かんでは消えた。  乱暴な扱いで誠は空調の効いた車内から引きずり出されると頭に袋をかぶせられたまま誠は降ろされた。  生ぬるい空気と耳に響く喧噪が、誠に異世界へ迷い込んだような錯覚を与えた。  空気の濁った香りがここが東都の都心部のどこかだと推測できた。  地表を覆うアスファルトの跳ね返りの熱で全身から汗が噴出す。  そんな誠に声をかける人はいない。  誠は初めて、恐怖というものを心の奥から感じた。  彼等は自分を殺すのだろうか?  さっきの口振りでは、すぐに殺すということはないはずだ。  そう思う誠はとりあえず状況を確認しようとするが、布でさえぎられた視野のため、足元の崩れかけた階段以外誠の目に入ってくるものはない。  男達は両脇で挟みつけたまま、時折小声でやり取りをしながら誠を小突きつつ階段を登った。  男達の誠を前へ進めるために小突く動作が止まった。  袋をかぶされて見えないが、建物のドアを開けようとしているらしい。  開いたドアから冷気が漏れる。開いたドアの隙間から冷気が流れ込み、汗ばんだ誠の肌を撫でた。    誠が後ろで扉が閉まるのを感じたところで袋が頭からはずされた。  ようやく開けた視界に入ってきたのは、廃墟同然の雑居ビルだった。  埃だらけのフロアが目に入る。奇麗好きな誠には耐えられない光景だった。  階段の隣に割れたスナックの看板が残っているところから見て、かつては雑居ビルだった廃墟に連れ込まれたことは分かった。 「お客さんだ。頼むぜ」  背広の男が奥に向かって怒鳴ると、腰に拳銃をつるした若いポロシャツの男と紫のワイシャツに紺色のスラックスをはいた中年の男が、手錠を持って部屋から現れた。 「しばらくここでじっとしていてくれよ」  初めに誠に拳銃を突きつけた男が、銃口を誠に向けたまま二人に誠を押さえさせる。  男達はにやけた笑いを浮かべながら誠の両腕を後ろに回して手錠をかけて、階段に向けて誠を突き飛ばした。 「そのまま上がれ」  そう言われて誠はアロハの若い男に続いて階段を登った。 「なんで俺がこんな野郎の世話しなきゃならないんすか?こんな面倒な仕事、素人にやらせりゃいいんすよ。クライアントが金出すんならなおさらだ……」  ポロシャツの男は明らかに不服そうに愚痴りながら二階に上がったところで不満の当たり所を見つけたというように衝動的に誠のふくらはぎを蹴飛ばした。  誠はそのままバランスを崩すが、今度は髪の毛を紫のワイシャツの男に引っ張られて直立させられる。その男も誠を連れて行くという仕事には興味がないというようにただ一言も口をきかずに乱暴に誠を引っ張っていく。  誠が二人の隙をついて横を見てみると古びた全面ガラスのかつてのスナックのドアの中に談笑する男達がたむろしているのが見えた。男達がテーブルの上に酒瓶を並べて談笑している。男達の足下には一人に一丁銃が置かれており、男達の無邪気な笑顔とは対照的に死の雰囲気が漂っているのが誠の恐怖をさらに加速させた。 「何見てんだよ!ちょろちょろよそ見するんじゃねえ!商品は商品らしくまっすぐ前だけ向いて歩け!」  再びポロシャツの男が誠の襟元をつかむと三階に向かう階段に誠を引き立てていく。  急に冷気が薄くなり、コンクリートの熱せられた香りが誠の鼻をついた。  人気の無い三階のフロアーを素通りして四階に向かう階段に誠は引き立てられた。  むせるような熱気とうなりを上げる冷房の室外機の音ばかりが誠の鼓膜の中に刻み込まれた。  四階は、かつて事務所として使われていたらしい。  廊下の先には、三つの扉が並んでいた。  銃を突きつけている背広の男はそのまま一番奥のドアを開けて、中に誠を蹴りこんだ。  誠は転がされたまま静かに周りを見回した。  小さな小窓から日差しが入っているところから見て、かなりのスピードで千要の片田舎の豊川からここまで連れてこられたらしく、それほど時間たっているわけではないようだった。  遠くで車の走る音がすることが、ここが、危険地帯として知られる、遼南共和国からの亡命者が住む無法地帯……いわゆる『租界』の内部ではない、ということだけがほんの少しだけ誠を落ち着かせた。  遠くで東都警察のパトカーのものと思われるサイレンの音が響いた。  『租界』の中なら、東和の法律は一切通用しない。東都警察のパトカーが近くを走っていると言うことはここは『租界』ではない。  それだけで、誠はほんの少しだけ呼吸が楽になるのを感じた。  少なくとも、ここは『消えても誰も探さない場所』ではない事だけは安心で来た。  そんな場所に連れて来られていたなら、命がなくなるのは当たり前だ……誠もそれくらいは知っていた。  ここが東和の警察の管轄下である限り、異常に気付く警察官がいてくれることを願うことができた。  最悪ではないが十分に悪い状況にいる自分の境遇に考えをめぐらしながら誠はすることもなくじっと室内を見る。  ただひび割れたコンクリートの壁があるだけの部屋である。飾りも生活感を感じさせるような痕跡もどこにも見ることができない。 「どうなるんだろうなあ?」  誠は不安を紛らわすために、自分で声を出してそう言った。  司法局実働部隊の隊員の誘拐略取。これはそれなりの大事件だと『特殊な部隊』の新入りの誠にも分かる。  それなりの武装をしている彼等は、自分達で今すぐ誠をどうこうするつもりは無いようだった。  誠の誘拐を依頼した『クライアント』に誠の身を引き渡すまでは、彼等は誠の身の安全は保障してくれるだろう。  それまでは自分の命がなくなることはない。  それから先は……誠は考えるのをやめた。  少なくとも、その程度の理性だけはまだ残っていた。  手錠が手首に食い込んで痛かった。  そんな彼を無視するかのように、誠を監視している男の鼻歌が誠の耳にも届いていた。  部屋に転がっている体を起こした。  そして誠は暇に任せて自分が誘拐される理由をもう一度考えてみた。  司法局への意趣返しの線はなかった。  それならそのまま車を山沿いにでも向けて林道で誠を殺していることだろう。その方が手間もかからず証拠が残らずに済む。  『クライアント』が遼州同盟圏内の反政府テロ組織ならば、その彼等が敵視している同盟加盟国……テロが頻発しているテロ組織の政治犯を多く抱えている国と言えば誠が思いつくのはベルルカンの失敗国家か共産圏で隣国の西モスレムとの抗争が絶えない遼北人民共和国ぐらいが考えられる。  その組織が身柄を拘束された同志の解放を求める為という線も無いではないが、同盟直属のまだ実績の無い司法機関の隊員が国家の体面と引き換えに出来るとその組織が考えるほど甘くはないことはランから時々行われる社会常識講座で知っていた。  誠はそこまで考えたが、なんで自分が拉致されたのかの結論は出なかった。  そのまま高い格子窓からさしてくる光を見ながら誠はとりあえず体を休めようと横になろうとした。  誠の理性を保つ今のところ唯一の命綱と言える嵯峨から渡された『補聴器』は、相変わらず一定の周期でノイズを出すだけだった。  命綱と呼ぶには、あまりにも頼りない。  それでも誠は、左耳の小さな異物に意識を集中するしかなかった。  今の自分には、それ以外に信じられるものがなかった。  それが嵯峨から渡されたものだという事実だけが、どうしようもなく不安だった。

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