橋本直 / 第81話

第76話 平和な昼休みの終わり

 階段のコンクリートの冷たさ。  廊下に残る埃っぽい匂い。  誠は手にした札の重みを確かめながら、自分がなぜこんな『買い出し係』をしているのかをぼんやり考えていた。  体の疲労が思考を鈍らせる中、街へ出ればほんの少し別の風景が待っているはずだと信じて。  詰め所を後にした誠は、そのまま廊下を歩いていた。  中途半端な空調の生ぬるい気配にやられながら歩いていた誠が途中の喫煙所と書かれた場所のソファーで『駄目人間』嵯峨がのんびりとタバコをくゆらせているのを見つけた。 「おう、神前。意外と元気だね。昨日、ランにあんだけ走らされた割には平気で動けるなんて……タフだねえ。普通だったらあんなに走らされたら筋肉痛で動けないもんだよ。その様子はどこかにお出かけ……お使いか何かかい?」  いつもの間の抜けた調子で嵯峨がそう尋ねる。  あいも変わらず緊張感の感じさせない言葉の響きだった。 「まあ一応新入りですから……ここではそう言うしきたりなんでしょ?まあ、こんなだからこれまでのパイロットも長続きしなかったんでしょうけど」  急に話しかけられて少し苛立っているように誠は答えた。  誠の運命をすべてぶち壊した責任などどこへやらと言うように嵯峨は涼しい顔でタバコをくゆらせている。 「そうカリカリしなさんな。あれでもアイツ等なりに気を使ってるとこもあるんだぜ。どうせお前さんのことだから、これからも買い出しに行くことになるだろうから、その予行練習って所だ。それとこれ」  そう言うと嵯峨は小さなイヤホンのようなものを取り出した。  それはあまりに小型で、もし耳に入れれば周りからは判別できないほどの大きさだった。 「何ですか?これは」  誠は一つ渡された小さな電子器具を利き手の左手で受け取った。黒く輝くそれはどう見ても外から見えない程度の小型のイヤホン以外には見えなかった。 「最新式の補聴器……まるでつけてないみたいに見えるだろ?ご老人方に大人気だそうだ」  口にタバコをくわえたまま嵯峨はそう言い切った。誠の表情はいかにも楽しそうな嵯峨の表情を見て怒りのそれに変わる。 「怒りますよ……隊長には僕が何歳に見えるんですか?僕の耳は正常です!」  強い口調の誠に、嵯峨は情けないような顔をすると、吸い終ったタバコを灰皿に押し付けた。 「そう怒りなさんなって。正確に言えば、まあ一種のコミュニケーションツールだ。感応式で思ったことが自動的に送信されるようになっている。実際、地球圏の羽振りの良い国では歩兵部隊とかじゃあ結構使ってるとこもあるんだそうな。遼州圏では使っている国は無いな……まあこんなもの遼州人の俺には関係無いけど……その意味はいずれお前さんも分かるだろうがね」  誠はそう言う嵯峨の言葉を聞きながら、渡された小さな機械を掌の上で転がしてみた。  確かに補聴器に見えなくも無い。そう思いながら嵯峨の心遣いに少し安心をした。 「ああ、そうですか。ありがとうございます……でもなんでこれを?」  誠はそう言うと左耳にそのイヤホンの小型のようなものをつけた。特に邪魔になることもなく耳にすんなりとそれは収まる。 「別に意味なんて無いよ。俺は戦争に慣れてるから情報共有の重要性なんてものについて考えた結果これにたどり着いたわけ。でもまあ、試作品みたいなもんだ。付け心地でも試してくれればいいさ。それにしてもなんだか疲れているみたいな顔してるけど……大丈夫か?何かあったら相談乗るよ。お前さんをうちに引き込もうと言い出したのは俺だもん。そのくらいの責任はあるわけだよな……何か不満があるなら言ってごらん?」  嵯峨はとってつけたようにそう言った。  そして静かにタバコに火をつける。 「いえ!大丈夫です!隊長にどうこう言われる筋合いはありません!僕は今の環境に満足しています!」  いまさらそんなことを言うかと内心思いながらそう言って誠は一礼するとそのまま階段を駆け下りていった。 「はい行ってらっしゃい……と言うかあの環境に満足?アイツ、マゾなんじゃないのか?」  嵯峨はそう言って軽く手を振りにやりと笑った。 「それより神前よ、無事にお使いができるといいねえ……まあ、もう少しするとお前さんの周りも騒がしくなる。それが今日じゃなければ、俺としても助かったんだけどねえ……本当に、気を付けてね……」  その嵯峨の表情にはどこか底意地の悪さを感じさせる雰囲気が漂っていた。  しかし、そのことを誠は見逃していた。  誠は何も知らずに本部の出口に置いてある隊員共用の小型バイクにまたがり、工場の『生協』に向かった。  生協までの道すがら、誠は小さな街角の表情を見た。自販機の前で缶コーヒーを片手に話す夜勤明けの工員、工場の舗装修繕工事の車両誘導を行うガードマンの無関心な視線。日常はいつも通りに回っていて、そこに紛れ込む自分の違和感を誠は噛みしめる。  誠は理系人間らしい地理感覚を生かして島田に何度かビールのつまみを『舎弟の義務』と称して買いに行かされた『菱川重工豊川』の品ぞろえが豊富なスーパーマーケット『生協』に向かった。    途中、何台もの車とすれ違ったが、菱川重工の『私有地』である路上でヘルメットをかぶっていない誠を|咎《とが》めるものはいなかった。  誠はそのまま圧延板を満載したトレーラーを追い抜いて、ちょっとしたスーパーくらいの大きさのある工場の生協にたどり着いた。  『生協』は24時間操業の切れ目らしくラインの夜勤明けの従業員で、食料品売り場は比較的混雑していた。  若い独身寮の住人と思われる作業服の一群が、寝ぼけた目をこすりながら遅い朝食の材料などを漁っている。  それを避けるようにして誠は冷凍食品のコーナーに足を向けた。  そしてその片隅に並んでいるアイスのケースの前で足を止めた。 「ベルガー大尉はメロン……ってとりあえずシャーベットがあるな、確かに西園寺大尉が言うようにベルガー大尉の髪の色はメロンアイスの色だからな。本当にメロンであの色の見事さを補っていると言う説も本当かも知れないな。西園寺大尉はイチゴのカキ氷でいいかな?あの拳銃マニアの西園寺大尉がイチゴ?なんだか似合わないよな……アメリアさんなら西園寺大尉にはガンオイルがお似合いだとか言いそうだけど……この生協にはエンジンオイルなら売ってるけどガンオイルは売っていない……ああ、エンジンオイルを買って行った段階で僕は間違いなく銃殺されるな……」  誠は自分自身に言い聞かせるようにして独り言を口にしながらアイスを漁っていた。  誠は嬉々としてアイスを選んでいる自分に違和感を感じながらも、そうする自分は新入りならば当然なのだと言い聞かせていた。  ショーケースの冷気が顔に当たり、アイスのパッケージに描かれた派手なキャラクターが目に入る。  アイスを漁りながら腰をかがめていた誠がいったん背筋を伸ばして目を正面のロックアイスに向けた時、背後で、靴底が床を擦る音が止まった。  振り向く前に、硬く冷たい感触を背中に感じた。ついさっきまで、メロン味だのイチゴ味だのと言っていた自分の声が、別の世界の出来事のように遠く感じられた。  その感触には覚えがあった。  西園寺かなめが、笑いながら誠に拳銃を突きつける時のそれと同じだった。  その意味がすぐに理解できた誠の頭の中が白くぼやけた。  銃を突きつけられている。  それも、ただ押し当てているだけではない。  一度だけ銃口を背中に触れさせ、こちらに銃だと理解させたあと、動作不良を避けるためにわずかに離している。  かなめが以前、笑いながら教えていた。 『慣れてる奴は、こうやって脅すんだ。覚えとけ』  まさにその通りだった。  誠の意識はいつものギャグ日常から一気にシリアスな場面に放り込まれた気分だった。  数分前まで、自分は『苺味かメロン味か』を考えていた。  なのに今、自分の背中には本物の銃口がある。  誠は一瞬、本気でかなめの悪戯だと思った。  だが、背中の冷たさには笑いがなかった。 「今俺が持っているものがなんだか分かっているみたいな顔だな?それならば声を出すな。仲間がすでに出入り口は抑えている。もし騒げば、それに気付いた仲間が俺の合図で無差別に発砲する手はずになっている。ここは血の海になるぞ。警察官が自分の安全のために市民を犠牲にするのは筋違いじゃないかな?」  銃口を押し当てる力も、声の低さも、いつもの隊の馬鹿騒ぎとは違っていた。  低い男の声が誠の耳元に届いた。  誠は手にしていたアイスを静かに置くと、手を挙げて無抵抗の意思を示した。  実際、男の視線の先にはこの真夏だと言うのに黒い冬背広に身を包んだ男がレジの付近を行ったり来たりしながらこちらの様子を伺っている。その男の腕が常に背広の中に入っているのが分かると誠は男の言葉の意味をはっきりと理解した。  寝ぼけたライン工達は、営業マン風の背広を着た男のことを不審に思わないだろう。  脅されている誠とその後ろの見かけない男の姿を見つけたところで、工場の従業員達はいつもの『特殊な部隊』の隊員の『馬鹿騒ぎ』だと思って、気にもかけないだろう。  誠は自分の置かれた切羽詰まった状況に弱気のあまりに声も出せずに黙り込んでいた。  もう一人の懐に手を入れた背広の男が誠についてくるように|促《うなが》す。誠は黙ったまま静かに彼の後ろに着いて行った。  生協の正面には、こんな工場の中には似つかわしくない黒塗りの高級車が止まっていた。  誠はその中に、突き飛ばされるようにして放り込まれた。  すでに運転席にはサングラスの若い男が待機していた。  三人が乗り込むと目的を果たしたことを誇るように車は急発進した。  挟み込むようにして座っていた銃を突きつけている男は、素早く布でできたシートを誠に頭からかぶせた。  相変わらず硬い拳銃の銃口の感触を覚えながら、銃を向けられる恐怖におびえつつ、誠はじっと息を潜めていた。  布越しに感じる空調の冷気、シートの革の滑り、車内に反射するライトの軋み。ほんの数分前まで、かなめ達を喜ばせるためにアイスを選んでいた。その小さな日常が、今や遠い記憶のようにかすんでいく。  誠の耳には、補聴器を通した外界の微かな音だけが断片的に届く。その中にノイズが時折響くのが誠にとっての命綱と言えた。  左耳の嵯峨に渡された『補聴器』に彼らが気づいていないことだけが、誠の唯一の心の支えだった。ただ、あの嵯峨の与えたものだけが自分の身を守っていると言う状況はただの絶望よりもさらに深い絶望の淵に誠を叩き落としていたことも事実だった。 「あんちゃんよう。別に俺等はあんたに恨みがあるわけでもなんでもないんだ。クライアントからあんたを連れて来いって言われてね。俺達とあんちゃんの関係はその間だけの関係だ。短い間になるがよろしくな。その先にあんちゃんがどうなるかは知らねえが、まあ俺等のことは恨まないでくれよ。それが俺達の仕事だからそれをした。ただそれだけの話なんだから。あんちゃんがこのまま大人しくして騒がずにクライアントに届けることが出来れば、ウチの組織の仕事はおしまいと言うわけだ。これも何かの縁だ、その短い間は仲良くしようじゃないか」  視界をふさがれている誠の隣で背広を着ていた男が穏やかな調子でそう話した。言葉が脳裏に響くたびに誠の膝から下の力が抜けていくのを感じていた。  誠から見ても慣れた段取りは彼等が『東都戦争』と呼ばれた暴力団同士の抗争劇を生き抜いてきた猛者達であることを証明していた。  今、誠が危機にあること……その事実にもしこの『補聴器』に仕込まれたGPSなどの機能があればそこから次に誠が何をするべきかを語ってくれる。  それだけを信じて誠は身動きもせずにシートに体を預けていた。  誠の乗せられた車がガソリン車だったのでそのエンジン音が高くなったことで一般道から高速道路に入ったことが分かる。風切り音が響き車のスピードが上がったのが分かった。  どこか少し隊から離れた場所に自分は連れ去られようとしている。  目の前には光の明暗しかわからない布で頭を覆われた誠にはただ、昼下がりの強い日差しが車の窓から差し込んでくることと、車のエンジン音の高鳴りが耳から入ってくることだけが分かった。誠は布の下で冷や汗をかき、手元のポケットにあるタブレットを思い出すが、取り出すことは許されない。内側から布を押しても視界は戻らない。だが補聴器の小さな振動が、耳に伝わるかすかな電子ノイズが、誠に『何かが動いている』ことを教えていた。  左耳の『補聴器』だけが、誠にとって唯一の希望だった。  だが、その命綱を渡したのが嵯峨惟基だという事実が、誠をさらに深い不安へ叩き落としていた。

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