NAWOMIDOU / 第1話

プロローグ 一部 二部

プロローグ 二十年という歳月は、人の心から鋭い刺を抜き去り、あらゆる感情を「懐かしさ」という名の、淡く濁った絵の具で塗りつぶしてしまう。 かつて、あれほどまでに私を苛ませた激しい憤りや、深夜のサウナの脱衣所で吐き捨てた罵詈雑言、逃げ出したくなるほどの自己嫌悪。それらは今や、遠い海の底に沈んだ難破船の破片のように、静かに、そして動かぬものとして横たわっている。 現在の私は、あの頃の自分が夢想だにしなかった穏やかな日常の中にいる。朝、決まった時間に起き、コーヒーを淹れ、仕事に向かう。神戸のあの場所で、塩素の混じった湿った蒸気にまみれ、人間の欲望と頽廃の泥濘を這いずり回っていた若者が、今の自分と地続きであるとは、到底信じられないときがある。 あの会社を辞めてから、私はいくつもの場所を転々とした。転職先の倒産、給与の未払い、夜の街での乾いた生活。いくつもの失敗と再生を繰り返し、ようやく手に入れたこの平穏な生活の中で、私は「あの時代」のことを完全に忘れたつもりでいた。 いや、忘れていたのではない。 「思い出さないこと」に慣れていただけなのだ。 きっかけは、ほんの些細なことだった。 書斎の片隅にある、古びた段ボール箱を整理していたときのことだ。中には、かつて自分が書き散らした原稿の残骸や、現像したきり一度も見返さなかった古い写真が眠っていた。 その中に、一枚の、端が少し折れ曲がった写真があった。 社員旅行の出発前、まだ早朝の薄暗い空気の中で、私がカメラ係として何気なくシャッターを切ったときのものだ。 そこには、二十代の私がいた。そして、私の少し後ろで、こちらを向いて笑っている「あなた」が写っていた。 その瞬間、私の鼻腔の奥に、あの場所の匂いが蘇った。 洗剤と汗と、古くなったカプセルホテルの寝具の匂い。 そして、それらをすべて包み込むような、あの不自然に温かい、重苦しい蒸気の匂いだ。 私は愕然とした。 私はあなたのことを、長い間、一度も思い出していなかったことに気づいたからだ。 あんなに大切だと思っていたはずなのに。あんなに、あなたの未来を願っていたはずなのに。私の記憶は、あの上司たちの醜い顔や、職場の異常な出来事という「太い幹」だけを残して、あなたの声や、あなたの些細な仕草という「美しい葉」を、すべて枯らしてしまっていた。 写真は残酷だ。 写真は、その瞬間に何があったかという「事実」だけを突きつけてくる。 けれど、二十年経った今の私が求めているのは、そんな静止した記録ではない。 写真には写っていない、あなたの言葉の揺れや、昼食の休憩室であなたが焼きそばを食べていたときに、前歯に小さな青のりをつけて「あ、本当だ」と笑った、あのなんでもない、けれどかけがえのない動きの記憶だ。 私の記憶は、今やひどく不確かなものになっている。 誰が何を言ったのか、正確な順序さえ危うい。あの時、私が抱いていた感情は、本当に正義感だったのだろうか。それとも、ただの若さゆえの傲慢だったのか。 今となっては、自分自身の記憶さえ、長い年月の中で私に都合よく書き換えられたフィクションのように思えてくる。 例えば、私はあなたを愛していたのだろうか。 それとも、あの地獄のような環境の中で、自分を「まともな人間」だと繋ぎ止めておくための、命綱としてあなたを利用していただけなのだろうか。 本当のことは、もう分からない。 あなたは、あの場所を去った後、どこへ向かったのか。 誰かと出会い、名前を変え、今はどこかで見知らぬ街の空気を吸っているのだろうか。 インターネットという大海原で、一度だけあなたの名前に似た文字列を見つけたことがあったが、それもいつの間にか消えてしまった。今のあなたに繋がる糸は、どこにも残っていない。 だから、私は書くことにした。 これは、告発の書ではない。ましてや、過去の刺激的な体験を切り売りするための読み物でもない。 二十年以上も前に、確かにそこに存在したあなたという光と、その光に照らされていたはずの、若くて未熟だった私自身の輪郭を、もう一度、言葉の力でなぞり直すための作業だ。 忘却という名の深い霧に飲み込まれてしまう前に。 あなたが歯につけた青のりの輝きさえ、単なる「古い情報の断片」として消え去ってしまう前に。 私は、あの蒸気の向こう側にあった、私たちの静かな闘いの日々を、今一度呼び戻そうと思う。 たとえ、そこに書かれた真実が、私の記憶が作り出した幻影に過ぎないとしても。 第一部:扉の向こうの迷宮  その場所は、かつての震災の傷跡を必死に覆い隠そうとする、神戸の街の一角に建っていた。  「就職氷河期」という言葉が、まだ私たちの世代の首筋を冷たく撫でていた頃の話だ。  大学の文学部を卒業しようとしていた私は、自分の居場所を見つけられずにいた。本を読み、言葉を綴ること。それだけが私の世界のすべてだったのに、社会に出るための門扉はどれも固く閉ざされ、冷ややかな沈黙を守っていた。  合同就職セミナーという名の、絶望の展示会を何度も巡った末、私はその求人を見つけた。  「カプセルホテル従業員募集」  それは、再建されたばかりのビルの、オープニングスタッフの募集だった。  当時の私は、驚くほど純粋で、そして愚かだった。  「どんな仕事でも、一生懸命やれば道は開ける」  「不器用でも、誠実に働けば、自分たちの力で会社を良くしていける」  そんな、どこかで読んだ美徳の言葉を、文字通り信じ込んでいたのだ。  南京町に近い本社へ向かった日のことを覚えている。  面接官は、私の文学部という経歴には一瞥もくれず、ただ「柔道をやっていたそうだな」とだけ言った。私が高校時代の部活動の話をすると、彼は満足そうに頷き、その場ですぐに採用を告げた。  私は安堵していた。ようやく自分という人間が、社会の一部として組み込まれたのだと。  だが、その安堵は、入り口を潜るための入場料に過ぎなかった。  私が踏み込んだのは、清潔なサービスを売りにするレジャー施設などではなかった。そこは、個人の尊厳を一枚ずつ剥ぎ取っていく、巨大な「皮剥ぎ小屋」のような場所だったのだ。 2  研修が始まったのは、まだビルが工事の真っ最中の頃だった。  剥き出しのコンクリート、あちこちに散らばる建材、そして漂う埃の匂い。  そこで私は、のちに戦友となる同期の男たちと出会った。Kもいたし、他にも名前も思い出せない顔ぶれが何人もいた。  私たちは、完成してもいない巨大な迷宮の中を、期待と、少しの違和感を抱えながら歩き回った。  「ここから、俺たちの新しい生活が始まるんだ」  誰かがそう言った。  二十年後の私は、その若者の背中を叩き、止めてやりたい衝動に駆られる。  その扉の向こうにあるのは、君が想像しているような「真っ当な苦労」ではない。君がこれまで信じてきた道徳や言葉が、何の価値も持たなくなる、壊れた世界なのだと。  けれど、若かった私は、ただ笑っていた。  これから自分を待ち受けている、あの重苦しい蒸気の匂いも、  人々の顔から表情が消えていく様も、  そして、その暗闇の中で出会うことになる、あなたの存在も、  まだ何も知らずに。 第二部:蒸気と沈黙の王国  グランドオープンを目前に控えたあの頃、私たちは「全社員による施設体験」という名の、今思えば狂気じみた儀式に放り込まれた。  「自分たちが売る商品を、身をもって知る必要がある」  上司たちは、さも当然のような顔をしてそう言った。しかし、それは単なる研修ではなかった。男性専用施設として完成したばかりの大浴場に、男女の社員が入り混じって、文字通り「はだか」で入る。湯気の中に浮かび上がるのは、これから共に働く同僚たちの、隠しようのない肉体だった。  二十代の私は、湯船の縁を握りしめ、ただ視線を泳がせていた。  そこには、私がそれまで信じていた「公」と「私」の境界線など微塵もなかった。蒸気の向こうで、支配人や副支配人といった権力者たちが、若い女性社員の体を品定めするような、ねっとりとした視線を投げかけている。女性たちは、困惑と羞恥を張り付いたような笑顔で隠し、男たちはそれを当然の特権のように享受していた。  「ここでは、恥じらいを持つ者こそが異常なのだ」  その時、私の心に冷たい楔が打ち込まれた。王様たちは、自分たちがはだかであることに気づかないのではない。はだかであることを他人に強いることで、自らの支配力を誇示していたのだ。  施設が本格的に稼働し始めると、私の日常は「朝勤」という名の苦行に支配されるようになった。 2  客が去り、静まり返った館内。そこで私を待っていたのは、新人トレーナーたちの練習台になることだった。  私は広いマッサージルームのベッドに、半裸で横たわる。私の周囲には、技術を習得しようとする女性スタッフたちが群がる。彼女たちの指先が私の肌に触れ、上司がその手つきを指導する。  「もっと強く」「そこは急所だ」  彼女たちの視線の中に、私という「人間」は存在していなかった。私はただの肉の塊であり、練習用の素材に過ぎなかった。  二十年経った今、あの時の感触を思い出すと、肌が粟立つような不快感が蘇る。それは性的な高揚などではなく、自分の尊厳が、流れ作業のパーツのように扱われることへの、深い絶望だった。  職場では、人が驚くほどの速さで使い潰されていった。  昨日まで一緒に「いつかこの会社を良くしましょう」と青臭い理想を語り合っていた同期が、翌朝にはロッカーを空にして消えている。そんなことが、雨の日の水たまりのように、いたるところで起きていた。  「あいつは根性がなかった」「所詮、うちには合わない人間だった」  残された私たちは、そう嘯く上司の言葉を黙って聞き、消えた人間の穴を埋めるために、さらに過酷な労働へと身を投じる。  朝、何時に仕事が終わるのかも分からず、カプセルホテルの一室で泥のように眠り、数時間後には再び蒸気の立ち込めるフロアへ戻る。そんな生活を続けるうちに、私は自分が、あの異常なシステムの一部として、滑らかに機能し始めていることに気づいた。  さらに醜悪だったのは、社内を支配していた「性の乱れ」だ。  狭い閉鎖空間、極限の疲労、そして麻痺していく道徳観。  誰が誰とホテルへ行った、あの上司はあの女性社員に手を出した……。そんな噂話が、まるで昼飯の献立を報告するような軽さで、スタッフルームを飛び交っていた。  そこには「愛」などという高尚なものは欠片もなく、ただ、互いの空虚を埋め合わせるための、刹那的で暴力的な消費行為があるだけだった。  私は、そんな周囲を軽蔑していた。 3  「私は君たちとは違う。いつかここを出て、真っ当な世界へ戻る人間だ」  そう自分に言い聞かせ、周囲に高い壁を築いていた。  けれど、今の私にはわかる。あの時、一番傲慢だったのは私自身だった。  軽蔑することで、自分だけは汚れていないと思い込もうとしていた。けれど、実際には私もまた、その異常な空気を吸い、その給料で飯を食い、誰かが傷つけられているのを黙って見過ごしていたのだ。  私自身もまた、あの王国の「はだかの家来」の一人だったのだ。  そんなある日、会社が発行した「社内報」が、決定的な事件を引き起こした。  新入社員を紹介する紙面に並んだ、女性社員への卑劣で露骨な質問。それを面白がる男たちの下卑た笑い声。  一人の真面目な女性社員が、その記事によって心を壊し、静かに姿を消した。  私はその時、初めて、言葉というものがこれほどまでに残酷な凶器になり得ることを知った。文学を志した私が、最も軽蔑すべき言葉の使われ方を、私は最前線で目撃したのだ。  暗い、深い泥濘。  誰もが自分を見失い、あるいは見失ったふりをして生きるしかない場所。  そんな迷宮の奥底で、私はあなたと出会った。  二期生として入社してきたあなたは、その場所には似つかわしくない、どこか頼りなげで、けれど凛とした空気を纏っていた。  あなたは、まだ何も知らなかった。  この蒸気の向こう側で、どれほど多くの心が、形を失って消えていったのかを。  そして、私もまだ知らなかった。  あなたという存在が、二十年後の私をこれほどまでに苦しめ、そして救うことになるのだということを。  私たちは、あの蒸気の中で、お互いの輪郭を確かめるようにして、静かに近づいていったのだ。

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