らぱすてー / 第53話

もんもんぐんぐん

 隣のデスクで、PCを前に唸っている男。私と同期の田島悟が、いつの間にか筋トレを始めていたらしい。  理由は知らない。聞いていない。ただ、毎朝出社するたびに、田島の腕がぐんぐん太くなっていくような気がして、私はもんもんとしている。  私の名前は佐久間涼子、二十六歳、中堅広告代理店の営業四年目。田島とは同じ部署で、席が隣で、それ以外は何もない。何もないはずだった。  事の発端は月曜の朝だった。  私が自分のデスクに鞄を置いたとき、田島がいた。田島はいつも先にいる。七時台に来て、私が八時半に来るころにはもう仕事している。それはいつものことだ。問題は、田島が半袖だったことだ。    六月にしては肌寒い日だった。なのに田島は半袖で、腕を机についていた。  その腕が、太かった。  四年間隣にいて気づかなかったのか、という話だが、気づかなかった。四年間、田島の腕をまともに見たことがなかったのだと思う。見る理由がなかった。田島はただの同期で、ときどきランチを一緒に食べて、締め切り前には互いの資料を確認し合うだけの、そういう関係。  なのに、腕が太かった。   「おはよ」 「おはよ」    田島のいつも通りの挨拶に、いつも通りの返事。それだけなのに、私は自分の席に座ってから十五分間、画面を開いたまま何もできなかった。  これが、もんもんの始まり。  火曜日。  田島はまた半袖だった。  私はなるべく見ないようにした。見ないようにしたのに、視界の端に腕がある。田島がキーボードを打つたびに腕の筋肉がわずかに動くのが、見えてしまう。見えてしまうのだからしょうがない。  午前中に部内のミーティングがあって、田島が資料を配って回った。私の分を渡すとき、田島は何も言わなかった。私も何も言わなかった。でも受け取るときに少し指が触れて、思わず「あ」と声が漏れた。   「どうした」 「静電気」    六月に静電気は発生しない。でも田島は「そっか」と言って自分の席に戻った。信じたのか、追及する気がなかったのかはわからない。  もんもんが加速した。  水曜日の昼。  いつものように田島と二人でランチに出た。特に約束したわけじゃない。なんとなく、四年間そうしてきた。行き先は大体いつも同じビルの地下のそば屋で、田島はいつも鴨せいろを頼む。私はオススメランチの親子丼セットにした。    何も変わっていないはずなのに、私はもんもんしていた。 「最近なんか変じゃない?」  田島の言葉に、心臓が跳ねた。 「何が」  なるべく普通の声で言ったつもりだったが、少し上ずった。 「佐久間が。月曜からぼーっとしてる気がする」  ぼーっとしているのは田島の腕のせいだ。そう言えるわけがない。 「寝不足」 「何時に寝てんの」 「二時とか」 「それは自業自得」    田島はそう言って鴨せいろをすする。会話が終わった。    私は親子丼を食べながら、なんでこの人はこんなに普通なんだろうと思った。腕が太いのに、なんでこんなに普通にそばをすすっているんだろうと思った。腕と鴨せいろに何の関係もないことはわかっている。わかっているが、もんもんする。  食べ終わって店を出たとき、田島が言った。   「あ、そういえば最近筋トレ始めたんだよね」    私の足が止まった。   「なんで」 「健康診断で引っかかったから。体重じゃなくて体脂肪率ね。筋肉が少ないって言われて」    筋肉が少ないと言われた人間の腕が、どうしてあんなに。   「もともと少し体動かしてたし、すぐ戻ると思う。続くかどうかはわからんけど」 「そう」 「なんか反応うっす」 「続けたほうがいいと思う」    口が滑った。  田島がこちらを見た。私も田島を見てしまった。四年間、こんなにまともに田島の顔を見たことがあっただろうか。目が、思ったより大きかった。 「……なんで?」 「健康のため」 「そりゃそうか」    その後は特に会話もなく、会社に戻った。  夜、家に帰って、ベッドに倒れ込む。  天井を見上げながら、私はもんもんと考えた。  好きになったのかもしれない。田島のことを。でも確信が持てない。腕が太くなっただけで好きになるなんて、そんな単純な話があるだろうか。いや、あるかもしれない。人間の感情なんて単純なものだと何かで読んだことがある。でも四年間何も感じなかったのに、腕一本で引っくり返るのか。引っくり返るのかもしれない。引っくり返るのかな。どうなんだろう。もんもん。    スマホが振動した。田島からメッセージだ。心持ち急いで画面をタップする。 「プレゼン資料、明日の朝確認してもらえる?」  仕事の話だった。私は「わかった」とだけ打って送信する。  それだけなのに、なんとなく笑ってしまった。  木曜の朝、私は少し早く出社した。  田島はもういた、いつもどおり半袖で。自分のデスクでPCの画面を見ている。   「今日は早いな」 「資料確認するって言ったから」 「ああ、ありがと」    田島が送ってきた資料のファイルを確認する。構成は悪くないが、三ページ目のグラフの単位が抜けていた。   「三ページ、単位が抜けてる」 「マジか、助かった」 「どういたしまして」    田島が修正する間、私は自分のメールを処理を済ませる。  普通だった。いままでの四年間と何も変わらない朝だった。    でも私はもんもんしていた。もんもんしながら、ぐんぐんと、何かが育っているような気がした。それが何なのかはまだわからない。わからないまま、私は返信メールを打つ。  田島の腕は今日も太かった。

運営おすすめ

週間ランキング

全ランキング

反応スコアランキング

もっと見る

PV・ブックマークランキング

もっと見る

更新された連載作品

すべて見る
読み込み中…

新着短編

すべて見る
読み込み中…

作品一覧

読み込み中…

作品ダッシュボード

作品全体の公開状況と、読者からの反応をひと目で確認できます。

作品パフォーマンス

選択期間のPVが多い順

上位5作品
ライブラリ

作品の公開状況と構成

最近の更新

最後に編集した作品

要チェック

公開前に確認したい項目

プレビュー
読者に表示される見た目

表示設定

文字サイズ
100%
背景色
縦書き表示
リッチモード
目次
読み込み中…

キーワードを入力して作品を探しましょう

アクセス解析
アクセス解析データは 5分おき に自動更新されます
読み込み中…
ランクイン記録
通知
通知はありません
地形ブラシ
25
スタンプ
ツール
装飾
表示
100%

世界地図

100%

REACTION SCORE

反応スコアの内訳