らぱすてー / 第71話

もんもんぐんぐん

「要救助者発見!」  遭難から数えて十一日目。県警のヘリが尾根の岩陰にうずくまる人影を捉えた。救助隊が降下したとき、隊員の誰もが一瞬、人違いを疑った。  届けられていた写真の男は黒々とした髪をしていたのだが、目の前の男は、頭から眉まで、雪のように白い。 「聞こえますか。名前は言えますか」  隊員の呼びかけに、男はうっすらと目を開けた。焦点は合っていない。唇が乾いてひび割れ、軽い低体温症の兆候が見られた。だが命に別状はなさそうだった。  救助隊員が安心づけようとその肩に手を当てると、男は猛烈に震えだした。  ※  いつも通り、計画通りの下山ルートを進んでいた。  日暮れ前に沢筋へ抜けられると踏んで斜面を下り始めたところで、天候が崩れ、つかの間視界が失われた。  天候が回復し、安堵に胸を撫で下ろす。そこで、聞き慣れない音が響いた。  『もん』  その音のした方を向くと、ルートから外れた所を歩く男の後ろ姿が見えた。そのまま行くのは危ない。俺は声をかけ、その後を追ったが、男はぐんぐん遠ざかっていく。  これ以上の深追いは俺自身の遭難を招く。あの男については、下山してから報告しておこう、そう判断して踵を返した。だが、正確に来た道を戻ったはずなのにルートに出ない。  当然、スマホは圏外。確認するたびに、方位磁石が指す方角はばらばらだった。何かがおかしい。焦りだけが募っていく。  突如、背後から『もん、もん、ぐん、ぐん』という音が響いてきた。  振り返ってはいけない。俺はなぜかそう思った。  音は少しずつこちらに近づいてくる。俺は無我夢中でその場を離れた。  その夜は一睡も出来なかった。眠っている間にあの音が、傍まで来そうな気がしてならなかった。  もう、火を熾す気力もなく、手持ちのチョコレートバーを半分だけ齧り、木の根元にうずくまって膝を抱えた。  目を閉じると、瞼の裏にまで音が入り込んでくるようで、辺りを警戒しているうちに朝を迎えていた。  あんな妙な男、追いかけるんじゃなかった。後悔は常に先に立たない。  妙といえば、寒さをほとんど感じなかったことだ。秋の山の夜は冷え込むはずだったが、俺の身体はそれとは別の理由で震えている。  夜が明けても、景色は変わらなかった。同じ木、同じ岩。歩いても歩いても、位置が動いている実感がなかった。  日中は歩き続けた。方角も分からないまま、ただ足を止めなかった。止まれば、また音が追いついてくる気がした。  二晩目、ついに音は来た。『もん、もん、ぐん、ぐん』一定のリズムで鳴り続ける。だが、もう逃げる体力は残っていなかった。  俺は動かず、息を殺して木の陰にうずくまる。音は近づき、すぐそばを通り過ぎ、また遠ざかっていった。それを覗き込む勇気は俺にはなかった。  三晩目、木々の隙間に人影を見た。  後ろを向いて、じっと立ったまま動かない。  あの時の男だ。自然と俺の足は早まった。  声をかけてみるが、その男は振り返らない。 『もん、もん、ぐん、ぐん』  その男のすぐ前方辺りから、あの音が聞こえてくる。案外なんともないのかもしれない。俺はなんだか怖がっていたのが恥ずかしくなった。  近づくたびに、音は大きくなっていく。  服装に見覚えがある気がする。着古したチェックのジャケット――自分が今着ているのと、同じ柄だった。 「おい」  その肩に手をかけた。  振り返ったのは、俺自身だった。  驚愕している自分と目が合う。それなら、いま肩に手をかけている俺は誰なのか。この目で見ているのは、誰なのか。  振り返った自分はこちらを見たまま、凍りついたように動かなかった。  『もん、もん、ぐん、ぐん』  気がつけば、俺の口からその音が漏れ出していた。  ※ 「大丈夫ですよ、もう安全です」  担架に乗せられながら、男はぼんやりと天を見上げていた。毛布にくるまれた唇が、小さく、途切れることなく動き続けている。  付き添っていた若い隊員がふと耳を寄せた。震えているだけではない。一定のリズムで何かを呟いている。 『もん、もん、ぐん、ぐん』 『もん、もん、ぐん、ぐん』  隊員は、それが同じ四音の繰り返しであることに気づいた。意味のある単語ではない。ただの音の羅列が、壊れた時計の針のように、規則正しく男の口からこぼれ続けている。隊員は思わず耳を離した。これ以上聞いていてはいけない、と本能が告げていた。  担架で運ばれていく男は、自分が何を呟いているのか、最後まで理解することはなかった。

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