らぱすてー / 第64話

もんもんぐんぐん

 西日が世界の縁に沈むころ、みるは毎日同じ場所に座って使い込まれた茶器を磨いていた。  その器には銘がない。誰が焼いたのかも、いつから縁の家に伝わっているのかも、もう誰も覚えていない。ただ、それを満たすべき秘薬の名前だけが、代々口伝で受け継がれていた。  つづ茶。  冷めるほどに澄んでいく、不思議な茶だった。  その日の客は、まだ若かった。縁を越えるにしては早すぎる、とみるは思ったが、何も言わなかった。縁を越える理由を尋ねるのは、この家業の作法ではない。 「お座りなさい」  客を縁側に座らせる。そこから見える庭はもう何十年も同じ姿で、いにしえの旋律のように吹く風にだけ揺れる。小さな草の一本一本が、まるで誰かが残した記憶の残滓のようだと、みるはいつも思う。覚えている者がいなくなっても、形だけは在り続ける。  湯を沸かす間、客はひび割れた空を見上げていた。割れ目から覗く緑色の光が、ゆっくりと脈打っている。 「あれは、何なのですか」 「世界の天蓋の、傷です」    客が黙ったので、みるは続けた。 「その向こうに、何があるのか。誰も名付けたことがない。だから、誰にも分からない」  天蓋の向こうを、何か巨きなものが泳いでいるのが見える夜もある。星の獣、と縁の者は呼ぶ。彼らは何も語らず、ただ雲の形を記憶に刻みながら、こちらをじっと見ているのだという。  茶が満ちる。器の中で、何かが小さく渦を巻いた。銀河だ、と昔聞いたことがあるが、それが比喩なのか本当にそうなのか、みる自身も知らない。  そのとき、地の底から低い律動が伝わってきた。  もん、もん、ぐん、ぐん。  足の裏から、骨を伝って、胸の奥まで届くような音だった。客の肩が小さく震える。 「いまのは……」 「鼓動です」    みるは静かに答えた。   「世界がまだ生まれる前から、眠ったまま動かし続けている鼓動。意味はありません。誰もその名を知らない。ただ、縁に近い者ほど、よく聞こえるだけです」  もん、もん、ぐん、ぐん。  律動はもう一度響き、それからまた地の底に沈んでいった。風が古い合図のようにささやき、庭の草が一斉に頭を垂れる。 「怖いことではないのですか」 「さあ」  みるは茶器を差し出した。 「世界は、ただ呼吸しているだけです。名づけられないまま、息をしている。それだけのこと」  客は両手で器を受け取り、しばらくその中の小さな渦を見つめていた。それから、一口含んだ。  胸の奥で、何か小さな火が灯るのが分かった。ただ確かに何かが満ちていく感覚。客はそれが何かを口に出すことはなかった。形にすべきでない想いがあるのを、もう理解していた。  誰かがいつか、この縁から旅立つ。その先が終着点なのか、新たな出発点なのか、みるには分からない。ただ毎日、定められた場所に座り、変わらず茶器を磨き、代々受け継いできた秘薬を満たすだけだ。  客が立ち上がったとき、夜が静かに広がりはじめていた。無数の星が瞬きもせず、こちらを見ている。星の獣は何を思うのか、本当のところは分からない。  縁の向こうへと歩いていく客の足音が遠ざかる。みるは空になった茶器を見つめた。底に、まだ小さな銀河の名残が揺れている。  もん、もん、ぐん、ぐん。  地の底で、また律動が始まる。まるで次の旅人を迎える準備をするかのように。  みるはただ、湯を沸かす支度を始める。世界はこんなにも果てしなく在り、そして今日もまた、誰かがこの縁に座るのだろうから。

運営おすすめ

週間ランキング

全ランキング

反応スコアランキング

もっと見る

PV・ブックマークランキング

もっと見る

更新された連載作品

すべて見る
読み込み中…

新着短編

すべて見る
読み込み中…

作品一覧

読み込み中…

作品ダッシュボード

作品全体の公開状況と、読者からの反応をひと目で確認できます。

作品パフォーマンス

選択期間のPVが多い順

上位5作品
ライブラリ

作品の公開状況と構成

最近の更新

最後に編集した作品

要チェック

公開前に確認したい項目

プレビュー
読者に表示される見た目

表示設定

文字サイズ
100%
背景色
縦書き表示
リッチモード
目次
読み込み中…

キーワードを入力して作品を探しましょう

アクセス解析
アクセス解析データは 5分おき に自動更新されます
読み込み中…
ランクイン記録
通知
通知はありません
地形ブラシ
25
スタンプ
ツール
装飾
表示
100%

世界地図

100%

REACTION SCORE

反応スコアの内訳