Tihoo / 第1話

短編

 山を下り始めて、どれくらい経っただろうか。  前世の十八年間、私の活動範囲は「ベッド」「トイレ」「冷蔵庫」の黄金のトライアングルのみだった。たまに玄関のドアを開けるのは、Amazonの配達員から逃げるように置き配のダンボールを回収する時くらいだ。  そんな筋金入りのインドア派だった私が、舗装もされていない異世界の山道を歩いている。もはやこれは、私立のひ弱な中学生が突然フランス外人部隊に放り込まれたようなものである。 「あー……無理。マジで無理。Google先生、ここから一番近いタクシー乗り場教えて……」 当然、そんな便利なものはこの世界にはない。  ペラペラの革靴のせいで足の裏はすでに水ぶくれができているし、まとわりつく湿気で侍女のお下がりワンピースは汗だくだ。  だが、肉体的な疲労よりも何よりも、私の精神をゴリゴリと削ってくるものがあった。 ――虫である。 ブーン、という羽音。  いや、羽音というより、もはやドローンの駆動音に近い。  見上げれば、手のひらサイズの巨大な蚊のような生物が、私の頭上を旋回していた。しかもご丁寧に、針の部分がドリルのように回転している。刺されたら血を吸われるどころか、骨まで貫通しそうだ。 「ひっ……!」 前世の私なら、部屋に小バエが一匹出ただけでも「お母さぁぁん!!」と叫んで親を召喚し、殺虫剤を持たせて討伐させていた。自分で退治するなんて言語道断だ。  だが、今は親はいない。(親父とオカンは借金を押し付けて夜逃げしたのだ、クソが)  頼れるのは、己の肉体のみ。 私はその場に立ち止まり、ドリル蚊(仮)を睨みつけた。  動けば刺される。熊に遭遇した時は目を逸らさずに後ずさりしろと、昔ネットのまとめサイトで読んだ気がする。相手は虫だが、これだけデカければ通用するかもしれない。  私は息を殺し、ただジッと、頭上を飛ぶドリル蚊を睨み返した。 すると、異変が起きた。 『ビィィィ……?』 ドリル蚊の羽音が、明らかに動揺したようにブレ始めたのだ。  まるで「えっ、何こいつ、めっちゃ怖いんだけど」とでも言いたげに、空中でピタッと停止する。 ……あ、そうか。  私は思い出した。今の私の顔面が、どういう状態であるかを。  色素の薄い三白眼。冷酷な光を放つ瞳。への字に結ばれた薄い唇。  それはまさに『ターゲットを森の奥深くに生き埋めにしようと企む、裏社会の若きヒットマン』のそれである。 怯えている私としては「こっち来んな!」という必死の抵抗のつもりだったのだが、ドリル蚊から見れば、「ほう、そのドリルで俺の体を貫けると思っているのか? 面白い、やってみろ。一秒でお前の羽を毟り取ってやる」という、圧倒的な強者のプレッシャーにしか見えなかったのだろう。 『ビ、ビィィィィィィッ!!』 ドリル蚊は、悲鳴のような羽音を立てると、ドリルの回転を急停止させ、一目散に森の奥へと逃げ去っていった。 「…………勝った」 私は呆然と呟いた。  なんだこれ。  虫除けスプレーも、蚊取り線香もいらない。ただ睨むだけで、異世界の狂暴な虫がドン引きして逃げていく。  私のこの超・凶悪面、もしかして異世界サバイバルにおいて最強のパッシブスキル(常時発動スキル)なのではないだろうか。 「ふはっ、ふははははっ! 見たか異世界の有象無象ども! これがエイムズ男爵家長女、シャーリィ様の覇気よ!」  誰もいない森の中で、私は高笑いした。  顔が怖いので、完全に「世界を裏から牛耳る悪の女幹部」の笑い声にしか聞こえないだろうが、気にする者などここにはいない。  なんだ、いけるじゃないか。  虫も動物も、睨めば逃げていく。この顔面バリアさえあれば、異世界の森なんて恐るるに足らずだ。  私は少しだけ軽くなった足取りで、再び山を下り始めた。 ……まぁ、この数時間後。  睨んだところで絶対に逃げてくれない、ダンプカーサイズの三つ目魔獣(絶対的な捕食者)に遭遇して、この顔面バリアごと心をへし折られることになるのだが。  この時の私は、そんな絶望がすぐそこまで迫っていることなど知る由もなく、ただ「早く水飲みたいなぁ」などとお花畑なことを考えていたのだった。

運営おすすめ

週間ランキング

全ランキング

反応スコアランキング

もっと見る

PV・ブックマークランキング

もっと見る

更新された連載作品

すべて見る
読み込み中…

新着短編

すべて見る
読み込み中…

作品一覧

読み込み中…

作品ダッシュボード

作品全体の公開状況と、読者からの反応をひと目で確認できます。

作品パフォーマンス

選択期間のPVが多い順

上位5作品
ライブラリ

作品の公開状況と構成

最近の更新

最後に編集した作品

要チェック

公開前に確認したい項目

プレビュー
読者に表示される見た目

表示設定

文字サイズ
100%
背景色
縦書き表示
リッチモード
目次
読み込み中…

キーワードを入力して作品を探しましょう

アクセス解析
アクセス解析データは 5分おき に自動更新されます
読み込み中…
ランクイン記録
通知
通知はありません
地形ブラシ
25
スタンプ
ツール
装飾
表示
100%

世界地図

100%

REACTION SCORE

反応スコアの内訳