NAWOMIDOU / 第1話

1~6話

第1話:プロローグ:白紙の頁に、夏の微熱を添えて  千日前の道具屋筋を一本折れた先にある、小さな古書店。  天井まで届く本棚の隙間で、私は黙々と背表紙の埃を払っていた。店内に漂う古い紙の匂いと、カビの混じった独特の空気。それが私にとっての「日常」という名の装丁だ。 「シィカちゃん、もうええよ。明日から夏休みやろ? 早う帰って準備しなはれ」  帳場に座った店主の源さんが、老眼鏡をずらして声をかけてくる。 「ありがとうございます、源さん。少しだけ、遠くまで『読書』しに行ってきますね」  私は、手に持っていた大正時代の歌集をそっと棚に戻すと、丁寧な標準語で微笑んだ。これが私の「よそ行き」の表紙。 「あんたの言う『読書』は、どうにも熱が入りすぎとる気がするけどな。……化け物に出会わんようにな」 「ふふ、知らんけど」  店を出ると、夜のミナミは暴力的なまでの熱気に満ちていた。  アスファルトが吐き出す熱、道頓堀のネオン、酔客たちの騒めき。私は、汗で首筋に張り付く茶髪を指でかき上げた。 (あぁ……。都会の夜は、もう何度も読み返した既刊本みたいに退屈やわ)  アパートに帰り、真っ白な原稿用紙を広げるように、ボストンバッグの中身を選び始める。  持っていくのは、最低限の着替え。汗を吸えば肌が透けてしまうような薄いコットンのドレス。背中が大胆に開いたキャミソール。  文学を語るための「標準語」という服は持っていくけれど、その下にある「私」を縛り付ける窮屈な下着は、できるだけ置いていくことにした。  机の上に置かれたのは、一枚の青いきっぷ。 『青春18きっぷ』。  それは私にとって、五つの新しい物語を予約するための、白紙の栞だった。 第2話:大阪駅5時55分、始発列車と五円玉のジンクス  夏休みの夜明けは、しらじらとした青さに包まれている。  午前五時。大阪駅のコンコースは、昨夜の喧騒を綺麗に掃き清めたような静寂の中にあった。 「……暑。まだ五時半やのに、もう空気が重いわ」  独り言は、いつもの短い大阪弁。  けれど、窓口で駅員に「青春18きっぷを一枚ください」と告げるときは、背筋を伸ばした丁寧な標準語だ。それが私の正装。  今日の私は、旅人という名のヒロインを演じる準備ができている。  ドレスの下には、旅の解放感を先取りして、極薄のシルクのランジェリーを身につけていた。フロントホックのブラジャーは、少し動くだけで胸の重みを艶めかしく主張する。 (一回、深呼吸。ここから先は、私のアンソロジー)  財布から五円玉を取り出し、ホームの柱にそっと供えた。縁結び、ではない。これから出会う「物語」への、私なりの読書料。  五時五十五分発、福知山線。  滑り込んできた車両の冷房が、汗ばんだ鎖骨を撫で、私は小さく身震いした。 「さて……。この夏休み、どんな男(テキスト)に出会えるかな」  標準語の仮面の裏で、私は「うふふ」と喉を鳴らして笑った。  ガタゴトと動き出したレールの振動が、座席を通して私のデリケートな場所を密やかに刺激する。 「各駅停車。ゆっくり一頁ずつ、味わって読み進めてあげようやないの」  私は、まだインクの匂いがする真っ白なきっぷを胸に抱き、ゆっくりと目を閉じた。 第3話:青春18きっぷ、五つの余白に何を書き込むか  列車が動き出す。規則正しい振動が、太ももを通して身体の芯まで伝わってくる。  私は、一番端のボックス席を確保した。四人掛けを独り占めする贅沢。迷わず、サンダルを脱いでシートの上に足を投げ出した。 「ふぅ……。やっぱり、夏休みはこうじゃないと」  窓から差し込む陽光が、私の白い脚を眩しく照らす。  クーラーの風でドレスの裾がひらひらと舞い、膝の上まで露わになる。それを直そうともせず、手にしたきっぷをじっと見つめた。  左側に並ぶ、五つのスタンプ欄。まだ一つも押されていない、真っ白な余白。 「ここを、私の書き込みだらけにしてやるんだから」  私にとって、このきっぷは単なる乗車券ではない。五つの「情事」を予約した、白紙の原稿用紙だ。  カバンの中から、小さな手帳と万年筆を取り出す。 『八月某日。鈍行列車は、現実を置き去りにして加速する。私の体温は、冷房の風よりも少しだけ高い。それは、期待という名の微熱。知らんけど』  最後の一言を書き加え、クスクスと笑った。  車窓の外、ビル群が次第に低くなり、緑の濃い山々が見え始める。  ブラジャーのホックが少しだけ肌に食い込むのを感じて、ドレスの上から胸の膨らみを軽く整えた。指先に伝わる自分の熱に、頬が少しだけ上気するのがわかる。  さて、そろそろ「一文字目」が欲しいところ。  私は、わざとらしく、ドレスの襟元をパタパタと仰いで、誰かの視線を待った。 第4話:福知山線、トンネルを抜けるたびに剥がれる標準語  列車が山間部に入ると、トンネルが増えてくる。  暗闇に入るたび、窓ガラスに自分の姿が映し出される。ポニーテールを揺らし、少しだけ期待に目を輝かせている女子大生。  けれど、トンネルを抜けて光が差し込むたびに、私の中にあった「都会の装い」が、一枚ずつ脱げ落ちていくような感覚があった。 「あー……喉乾いた。お茶、買っとけばよかったなぁ」  思わず漏れた言葉は、もう完全な大阪弁だ。  車内には、ちらほらと乗客が増え始めていた。地元の高校生や、大きなリュックを背負った登山客。彼らを「登場人物」として観察するが、まだ食指は動かない。  私が求めているのは、もっと「読み応え」のある存在。  ふと、ドレスの胸元が少し開きすぎていることに気づいた。前の座席の窓に映る自分の谷間。汗で少しだけ光っている。  私はわざと、窓を開けてみた。  一気に入れ替わる空気。夏の草いきれと熱気が、冷房の風と混ざり合い、私の肌を執拗になぶる。 「……んっ、ちょっと暑いかも」  その時だった。  隣の車両から、一人の青年が歩いてきた。  この猛暑の中、不釣り合いな黒のリクルートスーツ。手には分厚い資料。眉間に皺を寄せ、何やら必死に読み込んでいる。  彼は私の斜め向かい、少し離れた場所に座った。 (……見つけた。本日の第一章)  私は本を読むふりをして、彼をじっくりと「査読」し始めた。 第5話:【乱読Ⅰ】ボックス席の就活生。リクルートスーツの行間  彼のネクタイは少し歪み、シャツの襟元からは、真面目そうな白い肌が覗いている。けれど、資料をめくる指先は小さく震えていた。緊張か、それとも疲労か。 「あの……。そんなに根詰めて読んだら、酔っちゃいますよ?」  私は、最高級の「よそ行き」の標準語で声をかけた。  青年が驚いて顔を上げる。彼の目に、窓からの光を背負い、ドレスの裾から白い脚を覗かせた私の姿が飛び込んだ。 「あ、えっと……。すみません、急ぎの資料で」 「就職活動ですか? 大変ですね、こんなに暑いのに」  私は微笑みながら、自分の向かい側の席をトントンと叩いた。 「こっち、風が通りますよ。冷房の吹き出し口の真下なんです」  誘いに抗えるはずもなかった。青年は、吸い寄せられるように私の向かい側に座った。狭いボックス席。二人の膝が、触れそうで触れない距離に近づく。  列車が大きく揺れた。  その拍子に、青年の資料が床に滑り落ちる。私は彼よりも早く身を乗り出し、それを拾い上げた。 「あ、すみません……っ」 「いいですよ。……あ、これ。御社の強み、ですか?」  拾い上げる際、私のドレスの胸元が、彼の目の前で大きくしなった。  至近距離で晒される、真っ白な乳房の膨らみと、シルクのレース。  青年の息が止まるのが分かった。資料を返す際、私は彼の指先に、自分の指をそっと重ねた。 「頑張ってくださいね。お疲れなら……少し、肩の力を抜いてもいいんじゃないですか?」  標準語で囁きながら、テーブルの下で、私の素足を彼のスラックスの膝に、そっと押し当てた。  ガタゴト、と振動が激しくなる。 「……誰にも見えてませんよ。トンネル、また来ますから」  鈍行列車という名のアンソロジー、その第一章は、まだ始まったばかり。 第6話:トンネルの闇、行間を埋める指先  ガタゴトと車体が激しく揺れ、列車は長いトンネルへと滑り込んだ。  車内灯が心許なく光るだけの、狭いボックス席。対面に座る青年の顔が、一気に闇に沈む。 (……さて、ここからは非公開の編集作業やね)  私は、テーブルの下で彼の膝に押し当てていた足を、ゆっくりと上へと滑らせた。スラックスの硬い生地越しに、彼の太ももがびくりと震えるのが伝わってくる。 「……っ、あの……」 「しーっ。就活の資料、そんなに大事ですか? 今は、こっちのページをめくる方が……ずっと有意義だと思いません?」  私は、最高に甘く、湿り気を帯びた標準語で囁いた。  彼の呼吸が浅くなり、資料を持つ指先がわなないている。私は、空いた手で自分のドレスの肩紐をそっとずらした。  闇の中で、白い肩が露わになる。トンネルの入り口から差し込むわずかな光が、私の鎖骨のラインをなぞった。 「……君、は……」 「私は、ただの読者。あなたの、その……教科書通りじゃない部分を読み取りたいだけ」  青年の手が、吸い寄せられるように私の手首を掴む。その手は驚くほど熱く、そして必死だった。  トンネルを抜けるまでの、わずか数分間。  規則正しいレールの音が、私の心音と重なって、絶頂へのリズムを刻んでいく。  ふっと視界が開け、真夏の太陽が車内に降り注いだ。  青年は、顔を真っ赤にして、逃げるように次の駅で降りていった。  私は、乱れたドレスの裾をゆっくりと整え、独り言を漏らす。 「……ふぅ。初版にしては、なかなかの読み応えやったわ。知らんけど」  手帳に「一画目」を書き込み、私は満足げに窓の外を眺めた。

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