NAWOMIDOU / 第8話

第13話:宍道湖の落日、薄暮に溶ける太宰の影

 山陰本線を西へ西へと揺られ、松江駅に降り立ったのは、空が深い藍色と茜色の混じり合う黄昏時だった。  宍道湖の夕日は「日本一美しい」と誰かが言っていたけれど、なるほど、湖面一面がまるで赤ワインをこぼしたように妖しく波打っている。  湖畔の遊歩道を歩きながら、私は火照った身体を夜風に晒していた。  昼間の海の暴力的な熱気とは打って変わって、湖を渡る風には湿り気と、どこか物悲しい静寂が混ざり合っている。 「……はぁ。さすがに、ちょっと疲れたかも」  独り言は、素の大阪弁。  歩き慣れないサンダルで痛む足を休めようと、湖に突き出た突堤の石段に腰を下ろした。  ふと視線を横にやると、数メートル離れたベンチに、先客がいた。  三十代半ばだろうか。  洗いざらしの麻の白シャツに、黒の細身のスラックス。無造作に伸ばされた少し長めの髪が風に揺れ、手元には文庫本が一冊。けれど彼は、本を読んでいるというより、暮れなずむ湖面をただ虚ろに見つめていた。  整った横顔には、深い憂いと、隠しきれない疲労感が刻まれている。 (……あ、いい匂いがする)  それは香水ではなく、古いインクと、少しの煙草、そして「人生に挫折した男」特有の、甘美な硝煙の匂い。  私はバッグから文庫本を取り出し、あえて彼の視界に入るようにページをめくるふりをした。  選んだのは、太宰治の『斜陽』。  カサリ、と紙を鳴らすと、男の視線がゆっくりとこちらへ動いた。 「……こんな薄暗いところで読むと、目が悪くなりますよ」  低く、よく通る、けれど少し掠れた声。  私は驚いたように顔を上げ、すぐに恥じらうような、完璧な「文学少女」の笑みを浮かべた。 「あ……すみません。夕焼けがあまりに綺麗で、つい、物語の続きが気になってしまって」  標準語のイントネーションは、完璧に計算された柔らかさ。 「太宰、ですか」 「はい。旅のお供に。……ご迷惑でしたか?」 「いえ」男は小さく自嘲するように笑った。「僕も昔、その本ばかり読んでいた時期があったから。懐かしくてね」 「昔……ですか?」 「高校で現代文を教えていたんです。去年の春まで、ですが」  男は手にした文庫本を閉じ、ベンチの端を軽く叩いた。 「石段、冷えるでしょう。良かったら、こちらへどうぞ」  罠にかかったのは、どちらか。  私は「ありがとうございます」と淑やかに会釈をし、彼の隣へと滑り込んだ。  近づくと、彼から漂う香りがさらに濃くなる。上質なリネンと、どこか乾いた孤独の香り。 「私、シィカと言います。大阪の大学で、文学を専攻していて」 「……慎平(しんぺい)です。無職の、ただの元教師ですよ」 「慎平さん」  名前を呼ぶと、彼の肩がわずかに揺れた。  宍道湖の向こう、最後の太陽が沈み、世界が急速に闇へと沈んでいく。  薄暮の時間帯。昼と夜のあわい、善と悪のあわい。  私はわざと、風で寒そうに両腕を抱きしめ、自分の肩を彼の麻シャツの袖へと触れさせた。 「一人旅ですか? 慎平さん」 「……ええ。少し、東京に疲れましてね。逃げてきたんです、この街に」 「逃げるの、悪いことじゃありませんよ」  私は上目遣いに彼を見つめ、そっと声を落とした。 「私も、逃げてきたんです。都会の、騒がしくて嘘ばかりの毎日から。……ねえ、慎平さん。今夜、どこにお泊まりなんですか?」  私の指先が、ベンチに置かれた彼の手の甲に、重なるか重ならないかの距離で触れた。  慎平の呼吸が、微かに乱れる。大人の男の、理性の皮膜が音を立てて軋むのが聞こえた。

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