芦名 雅 / 第1話

第1話 パワハラですね。処理します

 午前九時十二分、株式会社サンライト企画の営業三課では、一人の新人が詰められていた。  書類ではない。壁でもない。  人間が、営業部長の怒鳴り声によって精神的に詰められていた。 「お前さあ! こんな数字で給料もらえると思ってんの!?」  営業部長の鬼塚剛は、会議用モニターに映した売上表を指し示しながら吠えた。五十二歳。太い首に食い込むワイシャツの襟と、机を叩くたびに震える腹。その威圧感の大半は声量で構成されている。  壁際に立たされているのは、入社三週間目の田中悠真だった。まだ折り目の残る紺色のスーツを着た青年は、三十人分の視線を浴びながら、手にした資料を握りしめている。 「申し訳ありません。ですが、達成率は九十三パーセントで――」 「百じゃなきゃゼロと同じなんだよ!」  営業三課の全員が目を伏せた。  百点以外をゼロにする計算方法は、この会社の経理規程には載っていない。だが鬼塚の中では、長年にわたって正式採用されているらしい。 「昨日も午後十一時四十七分まで残って対応しました」 「若いうちは寝なくていいんだよ! 俺なんかお前の年には、三日寝ないで働いたこともある!」  後ろの席で、誰かが小さく息を呑んだ。  驚いたからではない。その話を今週だけで四回聞いたからだった。 「だいたい最近の若い奴は根性がない! すぐ疲れた、帰りたい、休みたい! 会社は学校じゃねえんだぞ!」 「はい……」 「返事が小さい!」 「はい!」 「声だけ出しても意味ねえんだよ!」  田中の顔に、一瞬だけ途方に暮れた色が浮かんだ。  大きくても駄目で、小さくても駄目らしい。正解は鬼塚の機嫌によって毎秒変動する。 「お前の代わりなんか、いくらでもいるんだぞ!」  その瞬間、営業三課のドアが開いた。  ノックは一度。  返事を待たず、黒いスーツを着た男が入ってくる。胸元には銀色のバッジ。片手には薄いタブレット。整った顔立ちには愛想も怒りもなく、まるで今から複合機の紙詰まりでも直しに来たような落ち着きだった。 「社内ハラスメント撲滅課の黒瀬です」  営業三課の空気が変わった。 「……撲滅課?」  鬼塚が眉を寄せる。 「なんだ、お前。今は朝礼中だぞ」 「承知しています。確認します」  黒瀬は田中へ視線を向けた。 「田中悠真さん」 「は、はい」 「昨夜、午後十一時四十七分まで勤務しましたか」 「しました」 「残業を命じたのは鬼塚部長ですか」  田中は答えかけ、鬼塚の顔を見た。 「田中ぁ」 「回答を妨げないでください」  黒瀬の声は大きくなかった。  それでも鬼塚は、なぜか口を閉じた。 「……鬼塚部長です」 「断った場合の扱いについて、何か言われましたか」 「試用期間で切る、と」 「言ってねえよ!」  鬼塚が机を叩いた。 「新人が勝手に勘違いしただけだ!」 「録音があります」 「は?」  黒瀬がタブレットを操作する。 『今日中に終わらせろ。帰ったら試用期間で切るからな』  聞き慣れた怒鳴り声が、聞き慣れすぎるほど明瞭に流れた。  営業三課の全員が、今度は鬼塚を見た。 「盗聴だ!」 「田中さんが自身への発言を記録したものです」 「会社の会話を勝手に録音する方が問題だろ!」 「問題のある会話だったことは認めますか」 「そういう意味じゃねえ!」  黒瀬は画面を一度スクロールした。 「同様の発言が、過去二か月で十四件」 「数えるな!」 「机を叩いた回数は三十七回」 「そこまで数えるな!」 「うち二回、机が破損しています」  総務部へ提出された修繕申請書が画面に表示された。  申請理由の欄には、『経年劣化』と書かれている。 「机の方が根性なかったんだよ!」 「机に根性はありません」 「比喩だよ!」 「確認済みです」 「何を!?」  黒瀬は営業三課を見渡した。 「鬼塚部長から、人格を否定する発言、退職を示唆する威圧、深夜残業の強要を受けた方」  誰も動かなかった。  鬼塚が鼻で笑う。 「ほら見ろ。誰もいねえじゃねえか」  黒瀬は続けた。 「挙手したことを理由とする不利益は、撲滅課が処理します」  三十人の手が、ほぼ同時に上がった。  鬼塚の笑顔が消えた。 「お前ら……」  黒瀬がタブレットへ目を戻す。 「証言者、二十九名」 「三十人いるだろ!」 「一名は鬼塚部長です」 「細かい!」 「確認は正確に行います」  黒瀬は田中の資料にも目を通した。 「田中さんの達成率は九十三パーセント。ただし配属後三週間の新人としては、営業三課内で最高値です」 「それは俺が厳しく指導したからだ!」 「田中さん」 「はい」 「鬼塚部長の指導は、成績向上に役立ちましたか」 「怒鳴られている間、仕事が止まりました」 「合計時間は」 「今週だけで、三時間くらいです」  黒瀬が入力する。 「生産性の低下も確認しました」 「待て。会社のためにやってるんだぞ!」 「会社へ損失を与えています」 「俺は部長だぞ!」 「確認済みです」 「俺がいなくなったら、この課は回らないぞ!」  黒瀬が画面を切り替えた。 「先ほど、部下の代わりはいくらでもいると発言しました」 「部下の話だ!」 「人事部の管理職候補者名簿には、後任候補が七名います」 「俺の代わりもいるの!?」 「はい」  鬼塚は初めて、自分が田中へ言ったのと同じ顔をした。  黒瀬がタブレットを一度だけ操作する。 「職務上の地位を利用した威圧、人格否定、退職示唆、および反復的な時間外労働の強要」 「待て」 「パワーハラスメント。認定」 「待て待て。処理って何をするつもりだ」 「処理します」 「だから、それを聞いて――」  黒瀬は近くの窓を開けた。  九月の風が、営業資料を一枚だけ舞い上げる。 「なんで窓を開けた」 「処理経路を確保しました」 「経路って何だよ」 「屋外です」 「見れば分かる!」  鬼塚が後ずさった。 「お、お前、まさか俺を――」  黒瀬が襟首をつかむ。 「離せ! 俺は五十二だぞ!」 「年齢は認定基準に含まれません」 「労われって意味だ!」 「若いうちは寝なくてよいとの発言を確認しています」 「俺は若くない!」 「では、よく眠ってください」 「どこで!?」 「処理先で」 「処理先ってどこだああああ!」  ドン、と低い音がした。  鬼塚の巨体が、信じがたいほど滑らかな放物線を描いて窓の外へ消えた。  数秒後、駐車場の植え込みが大きく揺れる。  営業三課は静まり返った。  誰かの机から、保留音だけがのんきに流れている。  田中がおそるおそる窓へ近づいた。 「あの……部長は?」 「部署外へ異動しました」 「窓から!?」 「最短経路です」 「人事異動って、物理的な意味でしたっけ!?」 「今回は」 「今回は!?」  黒瀬は何事もなかったように窓を閉め、タブレットへ入力した。 「本件、解決」 「解決したのかな……」  田中が植え込みを見下ろす。  鬼塚は枝の中で目を回していたが、呼吸はしていた。処理の基準は分からないが、少なくとも植え込みは仕事をしたらしい。  そのとき、営業三課長の佐々木康弘が、青ざめた顔で手を挙げた。 「あの、黒瀬さん」 「はい」 「私も昨夜、部下に『できれば今日中にお願いします』と送りまして」 「確認します」 「送信したのは、午後十一時五十八分です」  佐々木の隣にいた社員が、無言で窓の鍵を開けた。 「まだ何も認定していません」 「ですよね!」  佐々木が必死に続ける。 「日付を間違えたんです。二分後に訂正して、明日の午後でいいと送り直しました。ログもあります!」  黒瀬はタブレットを確認した。 「訂正と謝罪を確認しました。受信者も不利益を受けていません」 「では……」 「該当しません」  佐々木の膝から力が抜けた。  社員がそっと窓の鍵を閉める。 「よかった……。ちゃんと確認してくれるんですね」 「確認せずに処理はしません」 「その言葉、ものすごく安心できるはずなのに、どうしてこんなに怖いんでしょう」 「分かりません」  黒瀬は本当に分からない顔をしていた。  翌月。  営業三課では、深夜残業が八割減った。  朝礼は十分で終わるようになり、田中を含む若手社員は、怒鳴り声の代わりに顧客の声を聞けるようになった。  その結果、売上は二割伸びた。  鬼塚が壊した机二台の修理費を差し引いても、十分な黒字だった。  なお、総務部は同じ月、営業三課の窓へ新しい注意書きを貼った。 『処理に使用する場合は、事前に周囲の安全を確認してください』  黒瀬は注意書きを読み、銀色のバッジを整えた。 「確認します」  なぜか営業三課の全員が、同時に窓から離れた。

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