遥 / 第163話

117話 橙真の目覚め

 最初に感じたのは、静けさだった。  何か音が聞こえる。  小さな電子音が、一定の間隔で鳴っている。  それから、消毒液のような匂い。 「……ここは……」  俺――橙真は声を出したつもりだった。  けれど、喉から出たのは掠れた音だけだった。  ゆっくりと目を開ける。  白い天井が見えた。 「……橙真先輩?」  すぐ近くから、聞き慣れた声がした。  視線を動かす。  そこには、咲がいた。 「……咲?」 「はい……!」  咲の顔が、一気に明るくなる。 「よかった……!」  椅子から立ち上がり、こちらへ身を乗り出す。 「目、覚めたんですね……!」 「……俺、どうなった?」 「えっと……」  咲は言葉に詰まった。  その反応を見て、嫌な予感がした。 「……何かあったのか?」 「それは……」  咲が答えるより先に、扉が開いた。 「目を覚ましたか」  風宮さんだった。  その後ろから、花江さん、蒼太、碧羽も入ってくる。 「橙真!」 「橙真くん……!」 「よかった……」  蒼太が勢いよく近づいてくる。 「お前、ずっと寝たままだったんだぞ」 「……そんなに?」 「ああ。かなり心配した」  碧羽も安心したように微笑む。  けれど、その表情にはまだ不安が残っていた。 「体はどう?」 「……ちょっと重いけど、大丈夫」 「本当に?」 「うん」  そう答えたところで、右側に違和感があることに気づいた。  右耳に触れる。  何もない。 「……イヤホンは?」  部屋の空気が、ほんの少し変わった。  咲が俯く。 「……ありません」 「そっか」  俺は小さく息を吐いた。  そこで、風宮さんが言った。 「日向。鏡を見るか?」 「鏡?」 「自分の状態を、まだ見ていないだろ」 「……はい」  花江さんが近くの鏡を持ってくる。  俺は、そこに映った自分を見た。 「……え?」  言葉が出なかった。  髪が――白い。  以前から白くなっていた部分もあった。  でも、今は違う。  ほとんど全部が白くなっていた。 「これが……俺?」 「そうだ」  風宮さんが答える。 「それと……」  俺は自分の腕を見る。  皮膚には、灰色の模様が広がっている。  まるで、身体の内側から何かが染み出しているようだった。 「……ひどいな」  思わず呟く。  咲が拳を握った。 「橙真先輩……」 「大丈夫だよ」  俺は笑おうとした。  けれど、自分でも分かる。  今の笑顔は、うまくできていない。  花江さんが静かに口を開いた。 「命に別状はありません。ただ、身体への負担はかなり大きかったようです」 「……あの炎か」  俺は目を閉じる。  記憶を辿る。  教会の地下。  鳥山。  シエリオ。  カマエル。 「……カマエル」  その名前が、自然に口から出た。  蒼太が反応する。 「やっぱり、あの黒い天使はカマエルだったんだな」 「うん。間違いない」  俺は頷いた。  風宮さんが腕を組む。 「なら、聞かせてもらおう」  声が少しだけ低くなる。 「教会の地下で、何があった?」  俺はベッドの上で姿勢を直した。 「……分かりました」  そして、ゆっくりと話し始めた。  俺が教会へ連れて行かれたこと。  そこには、鳥山とシエリオもいたこと。 「二人の後ろには、防災対策課の人たちもいました」 「……やっぱり」  碧羽が呟く。 「でも……あれは、普通じゃなかった」  俺は思い出す。  無表情のまま動く人たち。  生きているように見えた。  けれど――。 「シエリオが操っていたんだと思う」 「遺体操作か」  風宮さんが確認する。 「はい。そのあと、鳥山さんが鎖で俺を動けなくした」 「……」  俺の身体を縛った、黒い鎖。  あの感触は、今でも覚えている。 「逃げようとしたところで……カマエルが来た」  咲が小さく息を呑んだ。 「そのとき、カマエルは何て言ってたんですか?」 「……俺には役目があるって」 「役目……」  咲が不安そうに呟く。  俺は続けた。 「それから、カマエルが俺のイヤホンを外した」  部屋が静かになる。 「……外した?」  蒼太が聞き返した。 「ああ」  俺は右耳へ触れた。 「その瞬間、炎が出た」 「どのくらい?」  風宮さんが尋ねる。 「……分からないです」  俺は首を横に振る。 「自分でも、ほとんど覚えてない。ただ……凄まじく熱かった」  記憶の奥に、赤い光が蘇る。  炎。  怒り。  痛み。  そして――。 「カマエルと戦った」 「勝てたのか?」  蒼太が聞く。 「……いや、逃げた」  カマエルを倒したわけではない。  ただ、隙を見つけて教会から逃げ出した。 「それで、俺は公園まで逃げて……」  そこで、咲を見る。 「咲がいた」 「はい」 「俺が炎に包まれていたときに……咲が話しかけてくれたんだよな?」 「……はい」 「橙真先輩に話しかけたら、炎が消えました」 「……」  俺は自分の掌を見つめた。 「どうして消えたのか、私にも……分かりません」  咲は小さく首を振る。 「ただ、橙真先輩を助けなきゃって思って……」  その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。 「……ありがとう」 「……」  咲は少し照れたように視線を逸らした。  風宮さんが、その様子を見てから口を開く。 「つまり、現時点で分かっているのはそこまでか」 「はい」 「カマエルは、お前を殺さなかった」 「……そうです」 「そして、お前を逃がした」  俺は頷く。 「何か理由があるはずです」  花江さんが静かに言った。 「『役目がある』という言葉も気になりますね」  誰も答えられなかった。  俺自身も、分からない。  なぜカマエルは俺を必要とするのか。  なぜイヤホンを渡したのか。  なぜ外したのか。  そして――なぜ、咲は俺の炎を消せたのか。  いくつもの疑問が残っている。  けれど今は、それを考えるだけの力もなかった。 「……今日は、ここまでにしよう」  風宮さんが言った。 「橙真はまだ目覚めたばかりだ。これ以上は負担になる」 「そうですね」  花江さんも頷く。  蒼太が俺の肩を軽く叩いた。 「まずは休めよ」 「……うん」  みんなが部屋を出ていく。  最後に咲だけが残った。 「橙真先輩」 「ん?」 「……本当に、大丈夫ですか?」  俺は少し考えてから答えた。 「大丈夫……かな」  今度は、ちゃんと笑えた気がした。 「もう、みんながいるから」  咲は少しだけ目を丸くして―― 「……はい」  小さく笑った。  扉が閉まる。  静かな部屋に、また機械音だけが響き始めた。  俺は天井を見上げる。  戦いは終わっていない。  カマエルも、鳥山も、シエリオもいる。  そして俺の身体には、あの日の代償が残っている。  それでも――今だけは、少しだけ眠りたかった。

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