遥 / 第160話

114話 橙真の現状

「急ぐぞ!」  俺――蒼太は、橙真を背負った。  そのまま公園の出口へ向かって走り出す。 「……軽い」  背中に伝わってくる重さに、思わず呟いた。  橙真は俺より背が高い。  普段なら、それなりの重さを感じるはずだった。  なのに――今は妙に軽い。  まるで身体の中から、何か大切なものまで抜け落ちてしまったようだった。 「蒼太!」  碧羽が横を走ってくる。 「風宮さんに連絡する」 「分かった」  碧羽はスマホを取り出した。 「風宮さん、橙真を見つけました」 『日向を?』 「はい。ですが、意識がありません」 『分かった。すぐに戻ってこい。医療班を待機させる』 「お願いします!」  通話が切れる。  俺は橙真を背負ったまま、走り続けた。 「橙真……」  返事はない。  それでも、背中には体温がある。  生きている。  今は、それだけを信じるしかなかった。 ***  防災対策課のエントランスへ飛び込んだ。 「水沢!」  正面から風宮さんと花江さんが駆けてくる。 「橙真は!?」 「ここです!」  俺は背中の橙真を見せた。  二人の表情が、一瞬で変わった。 「……橙真くん」  花江さんが駆け寄り、橙真の顔を覗き込む。  白い髪。  灰色の肌。  閉じたままの瞳。  花江さんは、すぐに橙真の首元へ手を当てた。 「……脈はある」  だが、声に安心した様子はない。 「医療班」 「はい!」  待機していた医療スタッフが、一斉に動き出す。 「こちらへ!」 「担架!」 「酸素の準備を!」  エントランスに緊張が走った。  俺は橙真を背負ったまま、その声に従って走る。 「俺が運びます!」 「蒼太くん、ここからは私たちに任せて!」 「でも――」 「早く!」  その一言に、俺は足を止めた。  医療スタッフが橙真へ手を伸ばす。  俺はゆっくりと身体を屈めた。 「分かりました。橙真のことをお願いします」  背中から橙真を下ろす。  その瞬間――また、軽い。  そう思った。  腕に伝わる重さが、あまりにも小さい。 「もちろん、任せて」 「……橙真」  俺は無意識に名前を呼んだ。  返事はない。  橙真は担架へ移され、そのまま運ばれていく。 「急いで!」  花江さんも走り出す。  俺たちは後を追った。  廊下を抜ける。  角を曲がる。  医療スタッフの足音が響く。  担架の車輪が床を叩く。  俺は、その姿を見失わないように必死で走った。  やがて、扉の前で担架が止まった。 「集中治療室へ入れます!」  扉が開く。  橙真が中へ運ばれていく。 「俺たちは……?」 「水沢たちには悪いが、ここから先は医療班しか入れない」  扉が閉まった。  俺は、その場に立ち尽くした。 「……橙真」  碧羽が隣に並ぶ。  その向こうには、大きなガラスがある。  中の様子が見える。  橙真はベッドに横たわっていた。  身体には、いくつもの機器が繋がれている。  白い髪が枕の上に広がり、灰色の肌が照明に照らされている。  さっきまで背中に感じていた体温が、今はガラス一枚を隔てた向こう側にある。  俺は拳を握った。 「……大丈夫なのか?」  しばらくして、花江さんが戻ってくる。 「橙真くん、今のところ生命状態は安定しています」 「意識は?」 「まだ戻っていません」  その言葉に、胸が重くなる。 「身体への負担が大きすぎます。しばらくは集中治療室で経過を見る必要があります」  俺は何も言えなかった。  ガラスの向こうで、橙真は眠っている。  いつもなら、何か言えば返してくれる。  くだらない話にも付き合ってくれる。  それなのに今は――ただ、静かに横たわっている。  その時だった。  花江さんが、咲へと視線を向けた。 「それでは、咲さん」 「はい」 「お話を聞かせてもらってもいいですか?」  咲が顔を上げる。 「どうして、あの教会にいたの?」  咲は少しだけ俯いた。 「……橙真先輩たちが、また学校に来ていなかったからです」  俺たちは黙って、咲の話を聞いた。 「ずっと心配で、何かあったんじゃないかって……」  咲は両手を握りしめる。 「防災対策課に行けば、橙真先輩たちのことが分かると思いました」 「なら、どうして来なかった?」  風宮さんが静かに尋ねる。 「……怖かったんです」  咲は一度、言葉を詰まらせた。 「一人でここへ来る勇気が、なかなか出ませんでした」  少し間を置いて、咲は続ける。 「それで……前に橙真先輩たちと一緒に行った場所なら、少しは勇気が出るかもしれないって思って」 「それで、あの教会に?」 「はい」  咲は頷いた。 「教会へ行って、そこで少し気持ちを落ち着けてから、防災対策課へ向かおうと思っていました」  しかし――。 「教会に着いて、しばらくした時です」  咲の表情が強張った。 「突然、橙真先輩が教会の方から飛んできました」 「橙真が、飛んできた?」 「はい。それも、ものすごい勢いで……」  咲は、あの時の光景を思い出すように話した。 「橙真先輩は、全身を炎に包まれていました」  碧羽が息を呑む。 「その後ろから、黒い天使が追ってきました」 「黒い天使……」  風宮さんが呟く。 「私は、その天使と目が合いました。その時、黒い天使が……少しだけ、驚いたように見えたんです」 「咲を見て?」 「はい」 「それからどうした?」 「黒い天使は、そのまま離れていきました」  咲はガラスの向こうにいる橙真を見る。 「私は橙真先輩のところへ行って……話しかけました」 「それで……炎が消えた」 「……はい」  誰も、すぐには言葉を返せなかった。  なぜ黒い天使は、咲を見て反応したのか。  謎は深まるばかりだった。 「この件は、後で詳しく調べる。今は日向を優先しよう」  俺たちは、もう一度ガラスの向こうへ目を向けた。  橙真は、今も、眠ったままだった。

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