遥 / 第20話

20話 あの日とは違う帰り道

 焦げた匂いが漂う田んぼ。  初夏の涼しい風が、静かに吹き抜けていた。  怪物を一瞬で焼き尽くした炎を身体に纏ったまま、橙真先輩は動かない。  私たちに背中を向けたまま、ただ静かに佇んでいた。  あまりの圧迫感に、誰もすぐには声をかけられなかった。  蒼太先輩が息を呑み、ゆっくりと一歩前へ出る。 「おい、橙真……怪物は倒したぞ。もう、どこにもいない」  その言葉に続くように、碧羽先輩も一歩踏み出した。 「ねぇ、橙真、大丈夫なの……?」  返事は返ってこなかった。  私――咲は不安を隠しきれず、橙真先輩の背中を見つめる。 「橙真先輩……もう終わりましたよ……?」  その時だった。  みんなの声に反応したかのように、橙真先輩の全身を包んでいた炎が、ゆらゆらと揺れ始めた。  肩、腕、背中、そして足元。  風に溶け込んでいくように、赤く燃え盛っていた炎が少しずつ小さくなっていく。  やがて、全身を覆っていた炎が完全に消えた。  静寂が訪れた。 *** 「ふうー……」  俺――橙真は溜め込んでいた息を、深く吐き出した。  右手へ視線を落とす。  そこに握られていたのは、先ほど外した右耳のイヤホンだった。  俺はそれをゆっくりと右耳へ戻した。  カチッ――。  小さな音とともに、遮断されていた世界の音が戻ってくる。  風の音。  遠くから聞こえる車の音。  田んぼの向こうから聞こえてくる、虫やカエルの鳴き声。  さっきまで感じていた異様な静けさが、嘘だったかのように消えていく。  俺はゆっくりと、みんなの方へ振り向いた。  無理に作ったものではない、いつも通りの笑顔を浮かべて。  蒼太が安堵の息を吐いた。 「……戻ったのか?」 「橙真先輩、大丈夫なんですか!?」 「橙真、大丈夫なの?」 「うん。まあ、多分大丈夫」  そう答えると、碧羽が静かな眼差しで俺を見つめた。 「それでさ、橙真……さっきの力、一体何だったの?」 「あんなすごい力、今まで見たことないぞ! なんで今まで見せてくれなかったんだよ!」 「あの力は……まあ、俺の切り札みたいなものだからさ。よほどのことがない限り、使わないようにしてたんだよ」  さらりと風が吹き抜ける。  その言葉の奥にある何かに気づいたのか、誰もそれ以上は突っ込まなかった。  俺自身、この力の本当の恐ろしさを完全には理解できていない。  それでも、ひとつだけ確かなことがある。  三年前、ただ逃げることしかできなかった怪物を――今の俺たち四人なら、倒すことができた。  蒼太が、重くなりかけた空気を変えるように口を開いた。 「そっか! じゃあ、それ以上聞いても無駄ってことだなー!」 「うん。じゃあ、私もこれ以上は聞かないね」 「あ……それじゃあ、私もそうします!」  咲も強く頷く。  蒼太が頭を掻きながら笑った。 「んでさ、よく考えると俺たち、あの時よく無事に逃げ切れたんだよなー!」 「本当にね。あの状況で、誰も死なずに逃げられたんだよね」 「私……今日、初めてみなさんの昔のお話を聞けて、本当に良かったです!」  咲が嬉しそうに笑った。 「ごめんな。逃げてばっかりで、情けなく見えただろ」 「まったく、そんなことないです!」  咲は首を横に振る。 「昔はあんなに怖かったものと、今はこうしてちゃんと向き合っているんですから!」 「あの時は『立ち向かった』っていうより、逃げてただけだけどな」 「でも……」  咲が、俺たち三人を見渡した。 「私たちはこうして、またこの場所に笑って戻ってこれたじゃないですか」 「……そうだな」  誰も、それ以上は言わなかった。  静かになった田んぼをあとにして、俺たちは歩き出す。  沈みゆく夕日が、四人の長い影をアスファルトの上へ伸ばしていた。  やがて、住宅街の分かれ道へ辿り着く。 「じゃあ、俺はこっちだから! 月曜日、学校でな!」 「私も、こっちだから。またね」 「はい! 今日は過去のお話を聞かせてくれて、ありがとうございました!」  三人が、それぞれの帰路へついていく。  そして、咲の家の近く。 「橙真先輩、守ってくれてありがとうございました」 「前に言ったろ。守ってやるって」 「はい! 橙真先輩! また月曜日に学校で!」 「おう。月曜日な」  咲が嬉しそうに笑う。  そして、少し急ぐように家へと走っていった。  静まり返った夕方の路上。  一人になった俺は、ふと自分の前髪に触れた。  指先に触れる髪。  その中に、何本か真っ白な髪が混ざっていた。  服の下では見えないが、首元から広がる火傷の痕も、ほんの少しだけ範囲が広がっている。  小さな変化だった。  けれど、俺だけはその重さを自覚していた。  俺は、右耳のイヤホンへ静かに触れた。  このイヤホンが、俺の力を抑えてくれている。  だからこそ、本来なら外してはいけない。  それなのに――さっき、俺は外した。  そして、その結果があの炎の力だった。  俺は赤く染まる空を見上げる。  沈んでいく夕日。  あの日、俺たちが逃げることしかできなかった怪物は、もうどこにもいない。  それは、確かに俺たちの成長だった。  だけど、強くなることが、必ずしも良いことだけだとは限らない。  柔らかな風が、静かに吹き抜けていった。  俺はただ一人、静かに家路へと歩き出した。 「やっぱり、イヤホンを両方外すと反動はあるんだな……」  俺の長い影だけが、真っ赤な道路の上をどこまでも伸びていた。

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