遥 / 第83話

83話 日常

 新学期が始まってから時間が経つにつれ、学校はすっかり普段の生活を取り戻していた。  朝の光が校舎を明るく照らしている。  ――東高校の校門前。  登校してきた俺――橙真は、いつものように左耳のイヤホンを外し、制服のポケットへしまいながら校門をくぐった。 「橙真先輩!」  聞き慣れた声に振り向く。  小走りで駆け寄ってきたのは、咲だった。 「おはようございます」 「おはよう」  咲は表情を和らげると、俺の隣へ並ぶ。 「今日も一緒ですね」 「偶然だな」  俺が困ったように笑うと、咲も静かに笑った。  俺たちは肩を並べ、校舎へ向かって歩いていく。  教室へ向かう途中、咲は足を止めると、深く頭を下げた。 「それじゃあ、また昼休みに」 「ああ」  咲は一年生の教室へ。  俺は二年A組の教室へと、それぞれ歩いていった。 ***  昼休み。  授業の終わりを告げるチャイムが響くと同時に、俺は席を立った。 「よし、食堂行くか」  隣の席の蒼太が立ち上がる。 「ああ、行くか」 「うん」  三人揃って教室を出た。  廊下を歩いていると、向こうから見慣れた人影が急いで駆け寄ってくる。 「あ、橙真先輩!」 「お、咲じゃん」 「また橙真と一緒に食べる約束をしたの?」 「はい! もちろんです」  四人は並んで、賑やかな食堂へ向かった。  昼休みの食堂は、生徒たちの楽しげな話し声で満ちている。  空いていた席へ座り、それぞれ昼食を広げる。  しばらく他愛のない会話をしていた咲が、ふと思い出したように俺の顔を見つめた。 「あの、橙真先輩……最近、一緒に帰ること、減っていませんか?」  俺は一瞬、箸を止めた。 「……そう、かな」  蒼太が事情を知っている様子で笑う。 「最近は何かと忙しいもんな」  碧羽も大きく頷いた。 「色々重なっているからね」  俺は誤魔化すように笑う。 「まあ確かに……色々」  その言葉を聞いた咲は、少しだけ考え込むように黙った。 「ということは……」  短い沈黙が流れる。  やがて咲は、ふっと微笑んだ。 「これ以上は聞かないでおきます」 「そうしてくれると助かる」 「はい」  咲はそれ以上、何も追及してこなかった。  昼休みは、いつものように穏やかに過ぎていく。  このときの俺たちは、誰も知らなかった。  数時間後、再び激しい戦いへ向かうことになるなんて――。 ***  放課後。  終わりのチャイムが校内に高く響く。  俺は机の中からカバンを取り出し、軽く身体を伸ばす。  蒼太もカバンを肩に掛けた。 「今日の部活も長いから、橙真は先に帰ってていいからな」 「私も今日の部活、長くなりそうだから、先に帰ってて」 「わかった」  碧羽もカバンを持ち上げる。 「それじゃ、また明日」 「ああ。また明日な」  二人は教室を出て、それぞれ陸上部と弓道部へ向かっていった。  俺も一人、昇降口へ向かって歩いていく。  昇降口に着くと、見慣れた姿が目に入った。 「橙真先輩」  咲が柱に寄りかかりながら、俺を待っていた。 「待たせたな、咲」 「あ、橙真先輩」  咲は少し恥ずかしそうに笑う。 「今日は一緒に帰れますか?」  俺も笑顔を返した。 「ああ、もちろん。一緒に帰れるよ」  二人は並んで校門を出て、歩き始める。  学校帰りの生徒たちが、俺たちの横を次々と通り過ぎていく。  何気ない、放課後の時間。  こうして咲と歩いていると、張り詰めていたものが少しだけ緩んでいく気がした。  防災対策課での任務。  邪神体との戦い。  そして、天使や神門教を巡る謎。  考えなければならないことは、いくらでもある。  それでも――こうして普通の高校生として過ごせる時間は、俺にとって大切なものだった。 「橙真先輩、ずっと聞きたかったことがあるんですけど」 「ん、なに?」 「その髪の色って……何かあったんですか?」 「ああ、これか。これは……まあ、いろいろあってこうなった」 「そうなんですか……」  隣を見ると、咲は少し俯いていた。 「でも……俺はこの髪、あんまり気にしてないけどな」  そう言って笑う。  咲も小さく笑い返してくれた。  ――その穏やかな時間は、長くは続かなかった。  ――ブルルルッ!  ポケットの中でスマホが震える。  画面を開く。  表示されているのは、『花江さん』の名前だった。  俺は表情を引き締め、そのまま通話ボタンを押した。 「もしもし」 『橙真君! 神社周辺で、敵の反応を三つ確認しました。急いで現場へ向かってください!』 「分かりました」  短く返事をして、通話を切る。  咲が不安そうな顔で俺を見上げた。 「何かあったんですか?」  俺は困ったように笑う。 「ごめん、咲。急用ができた。先に帰ってくれ」  咲は少し考えるように黙った。  そして、まっすぐ俺を見つめる。 「それって、もしかして防災対策課ですか? それとも邪神体が出たんですか?」 「まあ……その両方、かな」  その返事を聞いた瞬間、咲が一歩前へ出た。 「私も行きます!」  俺は首を横に振る。 「いや、だめだ」 「なんでですか?」  咲の問いに、俺は真剣な視線を返した。 「危険だからだ」  少し間を置き、言葉を続ける。 「それに……いつまでも咲を守っていられるわけじゃないからな」  その言葉に、咲は唇を噛み締めて俯いた。  握り締めた手に、力が入る。  短い静寂が流れた。  やがて、咲は顔を上げる。 「じゃあ、これだけは約束してください」 「?」 「絶対に無理しないでください。あと……夜に、電話してほしいです」  その言葉に、俺は一瞬だけ黙った。  咲の目には、心配そうな色が浮かんでいる。 「……分かった。夜に連絡するよ」  俺はそう答え、咲はゆっくりと頷いた。 「じゃあ、行ってくる」 「……はい。いってらっしゃい」  俺は地面を蹴り、駆け出した。  夕暮れの街を駆け抜け、神社へ向かって走っていく。  一度も、背後を振り返ることはなかった。  その背中を、咲は俺の姿が見えなくなるまで、静かに見つめ続けていた――。

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