遥 / 第177話

131話 最期の言葉

 カマエルが消えたあと、誰も動かなかった。  荒れ果てた戦場に、冷たい風だけが吹いている。  地面には、小さな透明な瓶が置かれていた。  俺――橙真の身体から落ちた灰が、瓶の中へ少しずつ集まっている。 「……橙真くん」  花江さんの声が聞こえた。 「大丈夫です」  反射的にそう答える。  けれど、自分でも分かっていた。  大丈夫なんかじゃない。  右腕を見る。  灰になった部分は、もう手首を越えていた。  前腕の途中まで、皮膚が灰色に変わっている。  そして――左手の指先にも、同じ変化が始まっていた。  花江さんが俺の腕へ手をかざす。  淡い光が広がった。  けれど、何も変わらない。 「……やっぱり、駄目です」  花江さんが俯く。 「治すことができません」 「……やっぱり」  俺は静かに答えた。  もう、分かっている。  これは傷じゃない。  力を使った代償。  そして、その代償は戻らない。 「橙真……」  蒼太が拳を握る。 「本当に、どうにもならないのか」 「……うん」 「そんなの……」  蒼太が言葉を失う。  俺はみんなを見る。  みんな、泣きそうな顔をしていた。  だから俺は、少しだけ笑った。 「……最後にみんなに言っておきたいことがあります」 「最後なんて言うなよ」 「ごめん。でも……言わせてくれ」  誰も答えない。  けれど、誰も止めなかった。  俺は最初に、花江さんを見る。 「花江さん」 「……はい」 「今まで、ありがとうございました」  花江さんは黙って俺を見る。 「訓練のときも、戦いのときも……いつも俺を気にかけてくれて」 「それは……」 「嬉しかったです」  花江さんの目に涙が浮かぶ。 「俺……一人じゃない気がしました」 「……橙真くん」 「本当にありがとうございました」  花江さんは涙を拭いながら頷いた。 「……こちらこそ、ありがとう」  次に、風宮さんを見る。 「風宮さん」 「……ああ」 「俺……もっと訓練したかったです」  風宮さんの表情がわずかに揺れる。 「まだ教えてもらいたいこと、いっぱいあったから」 「……そうか」 「だから……蒼太と碧羽のこと……お願いします」  風宮さんは二人を見る。  そして、俺へ視線を戻した。 「ああ。任せろ」 「……ありがとうございます」  次に、碧羽を見る。 「碧羽」 「……うん」 「蒼太のこと、頼む」 「……蒼太を?」  碧羽が目を瞬かせる。 「うん」  俺は少し笑った。 「あいつ、無茶するから」 「橙真だって……」 「俺は……言っても聞かないだろ」 「そんなこと……言わないでよ」  碧羽の声が震える。 「ごめん」  俺は俯いた。 「でも……蒼太のこと、俺以外で一番分かってるのは碧羽だと思う」 「……」 「だから、これからは……俺の代わりにあいつのそばにいてやってくれ」  碧羽は唇を噛みしめ、それから静かに頷いた。 「……分かった」 「……ありがとう」  俺は、蒼太を見る。 「蒼太」 「……なんだ」 「最初に会ったときは……正直、うるさい奴だと思ってた」 「おい……」  蒼太が睨む。  でも、その目には涙が溜まっている。 「でも……楽しかった」 「……」 「お前がいたから、俺は一人じゃなくなった」 「橙真……」 「お前に会えて……よかった」  蒼太が顔を伏せる。 「……そんなこと、今言うなよ」 「ごめん」 「俺、まだお前と戦いたい」  その言葉に、胸が痛くなる。 「……うん」  俺は笑った。 「俺もだ」  蒼太が涙を拭う。 「これからは……碧羽と一緒に、生きろよ」 「……分かってる」  蒼太は震える声で答えた。 「絶対に……生きるから」  そして――俺は、咲を見る。 「咲」 「……はい」  咲はずっと泣いていた。  俺はゆっくりと彼女の前まで歩いていく。  こうして近くに立つと、今までのことが次々と思い出された。  最初に会った日のこと。  あの時は、咲とここまで深く関わるとは思わなかった。  学校から帰って、家に帰る。  それだけでよかった。  でも、咲はそんな俺のところへ、何度もやってきた。 「橙真先輩!」  いつも、声をかけてくれた。  最初は少し苦手だった。  距離が近くて、元気で、何かと俺を巻き込んでくる。  それなのに――気づけば、その声を聞くことが当たり前になっていた。  一緒に帰った。  みんなで遊びに行った。  くだらない話をして、笑った。  戦いの中でも、何度も助けてもらった。  俺が炎に飲まれたときも。  倒れて目を覚ましたときも。  咲は、ずっと俺のそばにいた。  そして今回だって。  俺がイヤホンを外そうとしたとき、誰よりも必死に止めてくれた。  それでも俺が炎になったあとも――最後まで、俺を呼び続けてくれた。 「……咲」 「はい……」 「俺」  言葉を探す。  こんなときになって、初めて気づいた。  俺は、ずっと咲のことを見ていた。  咲が笑っていると、少し安心した。  咲が悲しそうにしていると、放っておけなかった。  咲が危険な目に遭うと、怖かった。  そして今――咲が泣いていることが、一番つらかった。 「俺……咲と出会えてよかった」 「……っ」  咲の目から、涙が落ちる。 「最初は、こんなに一緒にいるようになるなんて思ってなかった」 「私も……」 「でも、気づいたら……」  俺は少し笑った。 「咲がいるのが、当たり前になってた」 「……橙真先輩」 「学校で会ったり、一緒に帰ったり、みんなで遊びに行ったり……また四人で行こうって、約束したり」  そこで言葉が止まる。  あの約束は、まだ果たしていない。  また四人で遊びに行く。  あの日、そう言った。 「……約束、したよな」 「はい……」 「俺、約束……守りたかったな」  咲が首を横に振る。 「そんなこと言わないでください……」 「ごめん」 「最後みたいじゃないですか……」 「……うん」  俺は俯く。 「でも……言っておきたいんだ」  ずっと言えなかった。  言わなくても、いつか伝えればいいと思っていた。  明日があると思っていた。  また明日、会えると思っていた。  だから、言わなかった。  でも――今の俺には、その「いつか」が、もう来ないかもしれない。 「咲」 「……はい」 「俺は……」  胸が苦しくなる。  それでも、言う。 「咲のことが好きだ」  咲の目が大きく開いた。  何秒経ったのか分からない。  やがて――咲は俺の胸へ飛び込んできた。 「……っ」  強く、抱きしめられる。 「嫌です……!」  咲の声が震えている。 「私は……橙真先輩がいなくなるなんて、嫌です……!」  俺は驚きながらも、ゆっくりと腕を回した。  けれど、力を入れることができない。  右腕は、もう肘の近くまで灰になり始めている。 「……咲」 「嫌です……絶対に嫌……」  俺は残った力で、そっと咲の背中に手を回す。 「ありがとう」 「……離れません」 「え?」 「もう、離れませんから……」  咲がさらに強く抱きしめる。 「……咲」 「はい……」  俺は少しだけ笑った。 「そんなに強く抱きしめたら……」 「……?」 「俺、崩れるの早くなるぞ」 「……え?」  一瞬、咲の身体が固まった。  そして意味を理解した瞬間――。 「……っ! ごめんなさい!」  慌てて腕の力を緩める。  俺は思わず笑った。 「……冗談だよ」  そう言った直後だった。  右腕から、灰が落ちた。  さらさらと風に流されていく。 「……」  咲は何も言わなかった。  俺も、何も言えなかった。  咲は今度は、そっと俺を抱きしめる。  温かかった。  ずっと、このままでいたかった。  でも――。 「……俺も」  声が震えた。 「俺も……一度死んだって言われても……」  喉の奥が詰まる。 「今、死ぬのは……怖い」  誰も何も言わなかった。  俺は咲の肩へ顔を寄せる。 「もっと……みんなと一緒にいたかった。学校に行ったり……また四人で遊びに行ったり……」  そこで、声が途切れる。 「……もっと、生きたかった」  一筋の涙が頬を伝った。 「……あれ」  自分でも驚いた。 「俺……泣いてるのか」  もう一度、涙が落ちる。  咲は何も言わない。  ただ、俺を抱きしめている。  俺も、もう隠さなかった。  静かに涙を流しながら――ただ、この温かさを感じていた。
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