ふみの世界樹 / 第86話

第七十四話 あずかりもの

「ひゃっ⁉」  やってしまった。私は変な声を出してしまった。でも仕方がありません。だって、そこには愛しのエドワード様が立っていらしたのだから。  冬の午後の光の中、外套の襟元はきちんと整えられていて、手袋をはめた指先までいつものように上品だった。背筋はまっすぐで、こちらを見る優しい目は、木漏れ日のように穏やかで、微笑みはいつも通り春の雪解けみたいに暖かい。  つまり、私の心臓に悪かった。 「ごきげんよう、ハリエット嬢」 「ご、ごきげんよう、エドワード様」  ちゃんと言えた。  たぶん、言えたと思う。  声が少し裏返っていた気もするけれど、それは聞こえなかったことにしたい。  エドワード様の隣には、ヴァルク先生もいた。 「よう」  大きな身体に、厚手の外套。片手には紙袋を抱えている。いつものように人懐こく笑っているのに、その姿は少しだけ、学院の先生ではなく、遠くへ行く旅人みたいに見えた。 「それにしても、今の扉は……?」  ミコトちゃんが、開いたままの屋敷の扉を見ている。  |見えざる従者《クラール・ディーラー》。  初歩的な術式魔法で、家事のお手伝いに使うことが多い。 「ミコトさん、ですよね? 驚かなくても大丈夫、それは見えない召使いみたいなもの。アルフォンスの魔法ですから」 「なるほど。見えないのに、いるんですね」  エドワード様が、穏やかに答えた。そういえば、ミコトちゃんと顔合わせするのは、これが初めてだった。 「ええと。ミコトちゃん、こちらは……」 「エドワードさんですね。お話は、ハリエットから常々たっぷり聞かされています」 「ハリエットは、いつもエドワード様のお話ばかりなのよぅ」 「ちょ、ちょっと二人とも!?」  恥ずかしい。本当のことだけど。エドワード様の前だと、恥ずかし過ぎる。 「皆様、ようこそいらっしゃいました」  アルフォンス先生が、家の扉を開いていた。その横から、つばめ先生がひょっこり顔を出して、アルフォンス先生を押し退けて走って来た。今日の衣装は、普段のシスター服とは違って、少し大人っぽくて、それでいて可愛らしい装いだった。 「三人ともいらっしゃい」 「わしらもおるき」 「あら、いたの?」 「いたの? やない。まっこと、おんしは……」  つばめ先生が、茶目っ気あることは知っていたけれど、プライベートだとこんな感じだっていうのは意外だった。エドワード様は、慣れた様子で微笑んでいらっしゃる。 「さあ、皆さん、玄関先で立ち話をしていては冷えてしまいますよ」 「はい、お邪魔します」 「はーい、お邪魔するのよぅ」  アルフォンス先生の招きに従って、家の中へと入る。暖炉の匂い。お茶の匂い。乾いた草と、少し清らかな水のような匂い。廊下を抜けて居間へ入ると、床には幾つもの郵便小包が並んでいた  そこにはソファに座ったエイデン神父様がいた。普段着で、細い目はいつも通り穏やかだった。お祈りをしていなくても、そこにいるだけで礼拝堂の空気を少し連れてきたように見える。  ミコトちゃんが、小包を見て尋ねた。 「神父様、これは何ですか?」 「関係各所に送る|星結函《ステラ・アルカ》です。我等は聖夜祭当日には不在ゆえに……」  そうだった。エイデン神父様も、ヴァルク先生も、そして愛しのエドワード様も、戦地に赴かれるのでした。私は少し、胸の中に重たいものを感じて、俯いた。 「それじゃ、わたし達はどうすれば?」  ミコトちゃんの問いはもっともだ。たぶん、それは昔から多くの人々が頭を悩ませてきたこと。会いたい時に、そばに一緒にいて欲しい時に、そうできない。 「その場合は、封と、時、これを守れば、贈り物の意味は失われません」 「封と、時」 「ええ。星結函は、開けるまでの約束も含めて贈り物ですから」  つばめ先生が、手慣れた仕草で人数分のお茶を淹れ始める。 「|聖夜祭《アポカルダ》の夜は、配達人とか運び屋にとって、大忙しの日になるのよ」 「つばめさんの言う通りです。本来、|星結函《ステラ・アルカ》は聖夜祭の夜に手渡すのがよいとされていますが、遠くにいる者、務めで離れる者、帰れない者もいます」 「それで郵送するんですね」  ミコトちゃんは、物珍しそうに小包を眺めていた。宛名を書き終えた小包の中には、緋鋼皇國の切手と、緋鋼帝國の切手、両方が混じって貼られていた。 「これ、切手が二種類あるんですか?」 「そういう事は、歴史のアルフォンス先生に聞いた方がいい」 「ああ、それは今が過渡期だからですよ」 「過渡期?」 「国号が変わるのよぅ」 「ええ。新しい公文書や札には、既に帝國の名が使われ始めています。ですが、役所や組織の名称、古い建物の看板や、長く使われてきた祈りの言葉、それに歌や、人々の意識まで、名前が一夜で全て変わるわけではありません」 「そうなんですね……」  ミコトちゃんは、自分の抱えている包みを見た。その中には、|星結函《ステラ・アルカ》の箱がある。つばめ先生の分も、アルフォンス先生の分も、ヴァルク先生の分も、エイデン神父様の分も。もちろん、ヴァン君への分も。  私も、エドワード様にお渡しするつもりで、|星結函《ステラ・アルカ》の箱をいつも持ち歩いている。任務中でも邪魔にならないよう、小さな贈り物を用意した。  薄く磨いた木の御守りで、片面には、小さな麦穂の焼き印。もう片面には、白い小花を押し花にして閉じ込めてある。端には、細い白紐が結ばれている。  職人さんにお願いして、私の|微傷治癒《キュア・メルキー》の魔法を閉じ込めておいた。ちょっとした掠り傷にしか効かないけれど。エドワード様の役に立って欲しい。 「ハリエット嬢」  そのエドワード様から不意に名前を呼ばれて、私は心臓が止まりそうになった。 「は、はい」  エドワード様が、懐から小さな箱を取り出した。薄い青色の紐で結ばれた、きれいな|星結函《ステラ・アルカ》だった。 「これを、あなたに預けておきます」  エドワード様から。私に。 「当日まで、開けずにいていただけますか」 「はわわ……、もちろんです。絶対に開けません」 「はい。信じています」  信じています。今、私はその一言だけで、どんな厳しい冬でも越せる気がした。  つばめ先生が、こちらを見てにやにやしていた。 「いいわねぇ。聖夜祭前って感じがしてきたじゃない」 「あの、エドワード様。私からも贈り物があります」  私は用意しておいた小さな赤茶色の箱、|星結函《ステラ・アルカ》を差し出した。 「ありがとう、ハリエット嬢。聖夜祭の日まで開けずに、大切に預かっておくよ」  渡せた。ちゃんと渡せた。そして、ありがとうって言って貰えた。私は、その事実だけで、しばらく心も頭も、いっぱいに満たされていた。 「先生、わたしからも贈り物があります」 「ミコトちゃん、私からも」 「わしも、みんなぁの分を用意しちゅうぞ」  気付けば、あちこちで贈り物合戦が始まっていた。はわわ……、エドワード様しか見えていなかった。他のみんなにも贈り物を渡しておかないと。 「ミコト」  その時、ヴァルク先生が、声を掛けるのが聞こえた。 「あいつのこと、ありがとな」 「え? わたし、何かしましたか?」 「しちゅう。あいつが冬の間、一人で意地張らんですむがじゃ。そりゃ、大きい」  ヴァン君のことだ。ミコトちゃんも、それに気付いたのか、やたら真面目な顔で頷いた。ヴァルク先生は、外套の内側から小さな箱を二つ取り出した。 「こっちはヴァンに。こっちはミコトに」 「私にも、ですか? ありがとうございます」 「おん。世話になるきに。それに、あいつはいつも素直に受け取らん。ほんに困ったやつじゃ」  そう言いながらもヴァルク先生は、笑っていた。 「はい。分かりました。ちゃんと預かっておきます」  ミコトちゃんは、二つの箱を両手で受け取った。ヴァン君への箱と、自分への箱。それを抱える横顔は、少し嬉しそうで、少し寂しそうにも見えた。 「ヴァルク、私の分は無いわけ?」 「すまん。皆に用意した分で、わしはもう金欠じゃ」 「なにそれ、ひっどーい」  つばめ先生からの距離が、やたら近いように感じる。 「金欠じゃき、大したもんは買えん。わしの手作りで用意しちょいた。手荒れ用の膏薬じゃ」 「ちょっと、ネタバレしないでよ」 「おっと、こりゃすまんかったのう」 「まあいいけど」  ブツブツ文句を言いながらも、つばめ先生はどこか嬉しそうだ。たぶん、きっと、そういうことなんだと思う。 「それから、爺さんの剣。あれも、一応預かっちょいてくれ」 「イヤよ」  即答だった。 「生還して、自分の手で渡しなさい」  ミコトちゃんが少しオロオロしている。かなり私も、はわわ……、している。オーレリアだけが興味津々で記録を取ろうとして、アルフォンス先生にペンを取り上げられていた。 「もしもの保険じゃ。必ず戻るき」  しばらく沈黙した後、つばめ先生は溜め息を吐いた。 「分かったわよ。もう、まったく。男の人って、出かける前に急に大事なものを置いていくんだから」  その言葉に、ヴァルク先生が少しだけ苦笑した。 「すまない、私もハリエットを置いていく……」  エドワード様は、穏やかに目を伏せる。愛し過ぎて、くらくらして来た。 「ハリエット、大丈夫!?」 「エドワード様が、ハリエットを殺しに掛かっているのよぅ」  ミコトちゃんとオーレリアが、私の心配をしてくれる。大丈夫、今の私は死んでも死なない。エドワード様から預かった|星結函《ステラ・アルカ》がある限り。 「そうね。しあわせのお裾分け、はいはい、どうもありがとう」  つばめ先生が、半ば自棄になっている。そっぽを向いて、|聖輪樹《セント・リース》の鈴飾りを手に持った。  エイデン神父様は、ほんの少し考えるように間を置いた。 「では、私も何か置いていきましょうか」 「何を?」  つばめ先生が、何でもないことのように聞き返した。 「約束など」 「どんな?」  つばめ先生は、飾りの紐に指を掛け、くるくる回している。  エイデン神父様は、いつもの穏やかな声で言った。 「つばめ。戻ったら、結婚でもしますか」  つばめ先生の手から、鈴飾りが落ちた。  ちりん、と小さな音がした。

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