ふみの世界樹 / 第54話

第四十六話 背中

「先生!」  ロイ様の大きな声が、夜の中にひびきました。  わたくしは、びくっとしました。  何が起きたのか、すぐには分かりませんでした。前を歩いていたロイ様が、急に大きな声を出したのです。誰かに呼ばれた声ではありません。何かを見つけた声でした。  けれど、ヴァン様はすぐに止まりました。  わたくしの手を引いて、テントの影へ寄せます。動きはしずかで、速くて、少しもまよいがありませんでした。  ロイ様は、こちらを見ませんでした。  ヴァン様にも、わたくしにも、目を向けませんでした。  ただ、背中だけをこちらに向けていました。  その背中が、言っているようでした。  止まれ。  隠れろ。  あとは、僕がやる。  その時になって、わたくしにも分かりました。  ロイ様の前に、誰かがいます。  先生です。  たぶん、ジークハルト先生です。  ロイ様の声は、先生を呼ぶ声であり、わたくし達への合図でもあったのです。 「あちらにダイア・ウルフがいるかも知れないので、確認に出ました」  ロイ様の声が聞こえました。 「ダイア・ウルフだと?」  低い声でした。  やはり、ジークハルト先生です。 「はい。ウォールが、向こうで音がしたと言っていました。フェルトンも一緒に確認へ向かっています」 「なに?」  ジークハルト先生の声が、少し変わりました。 「案内しろ」 「はい!」  ロイ様は、すぐに答えました。  そして、先生を連れて、わたくし達とは別の方へ歩いていきました。  ロイ様の背中が、夜の中へ遠ざかっていきます。  振り返りません。  大丈夫とも、行けとも、言いません。  でも、その背中は、ちゃんと言っていました。  今のうちに行け。  わたくしは、その背中を見つめていました。  ロイ様とヴァン様は、何の打ち合わせもしていないはずです。それなのに、見つかった瞬間に、すぐに役目を分けました。ロイ様は先生を連れていく。ヴァン様はわたくしを連れて進む。  言葉がなくても、分かり合える。  まよわずに、動ける。まるで、マナ姉様と、マギ兄様みたいです。  それが、少しだけ、うらやましいと思いました。 「行く」  ヴァン様が言いました。 「はい」  わたくしは、小さく答えました。  けれど、すぐに分かりました。  わたくしの足では、間に合いません。  少しなら歩けます。でも、夜の森を、みなさまのところまで急いで進むことはできません。走ることなど、できるはずがありません。  ヴァン様は、置いてある籠を見ました。  わたくしも、籠を見ました。  ここまで、ヴァン様とロイ様が運んでくださった籠です。わたくしのために作ってくださった、大切な籠です。でも、それは二人で持つ必要があるのに、ロイ様はいません。  ここから先、それを持っていくのは無理なのだと分かりました。 「籠は置く」  ヴァン様が言いました。  わたくしは、少しだけ息をのみました。  籠がなければ、わたくしは長く歩けません。  でも、持ち手がいなければ、籠で先へ進めません。  ヴァン様は、わたくしの前で少し身を低くしました。 「背負う」 「……え」 「その方が早い」  わたくしは、すぐには返事ができませんでした。  背負っていただく。  それは、いちばん早い方法です。  きっと、そうです。  でも、少しだけ、はずかしいと思いました。  わたくしは、女の子です。  男の子の背中にしがみつくなんて、そんなことをしてよいのでしょうか。ヴァン様は、護衛でも、侍女でも、騎士でもありません。わたくしと二つしか違わない、男の子です。  ヴァン様は、急かしませんでした。  ただ、しずかに言いました。 「レオナが決めて」  わたくしは、はっとしました。  わたくしが、決める。  そうでした。  わたくしが、行きたいと言ったのです。  湖へ行きたい。白く光る湖を見たい。  みなさまと一緒にいたい。  そう思ったのは、わたくしです。  ミコト様が、他のみんなが、湖で待っているはずです。  なら、わたくしが決めてよいのです。  こんな当たり前のことを、わたくしは少しだけ忘れていました。 「お願いします」  わたくしは、そう言いました。  声は小さかったけれど、ちゃんと言えました。  ヴァン様は、うなずきました。 「腕、首に」 「はい」 「苦しくしないで」 「はい」  わたくしは、ヴァン様の背中におぶさりました。  腕を首に回します。  落ちないように、しっかりつかまります。  少し、はずかしいです。  でも、それよりも、落ちてはいけないと思いました。わたくしが落ちれば、ヴァン様の足を止めてしまいます。みなさまの作戦を、だいなしにしてしまいます。 「行く」 「はい」  ヴァン様は走り出しました。  夜の森が、流れていきました。  わたくしは、今まで走ったことがありません。  少なくとも、自分の足で、風を切るほど速く走ったことはありません。馬に乗ったこともありません。馬車には乗ったことがあります。もっと速い|皇國鉄道《ライヒスバーン》にも、何度も乗ったことがあります。  けれど、これは違いました。  馬車とも、皇國鉄道とも、ぜんぜん違いました。  わたくしは、しっかりつかまっていなければなりません。手をはなせば、落ちてしまいます。体をかたむけすぎれば、ヴァン様のじゃまになります。  足もとから、土をける音がしました。  枝が近くをかすめました。  夜の風が、ほほに当たりました。  これは、運ばれているだけではありませんでした。  自分の足ではないのに、自分も一緒に走っているみたいでした。  こわいです。  でも、胸がどきどきします。  少しだけ、楽しいです。  ヴァン様は、まよいませんでした。  まっくらな森の中なのに、どちらへ進めばいいのか、分かっているみたいでした。  木の根元に、小さな光が見えました。  夜光苔です。  ハリエット様が置いてくださった目印でした。  一つ。  また一つ。  岩のそばに一つ。  曲がるところに一つ。  小さな光です。強い光ではありません。でも、その光があるだけで、森の夜道は、ただの暗やみではなくなりました。  ハリエット様が、ここにいる。  そう思えました。  ハリエット様は、この場にはいません。でも、あの方が置いてくださった光が、わたくし達をみちびいてくれています。  こっちです。  まよわなくていいです。  そう言ってくれているようでした。  わたくしは、少し安心しました。  道は少しずつ登り坂へと変わっていきます。  ヴァン様の背中に、もう少し強くつかまりました。  ヴァン様の背中は、大きかったです。  わたくしと二つしか違わない、子供の背中です。大人の騎士の背中ではありません。ドルガンみたいな、くまのように大きな背中でもありません。  それなのに、とても大きく感じました。  とても、たよりになる背中でした。  背中。  わたくしは、いくつかの背中を思い出しました。  お父様の背中も、大きかったです。  先代皇帝であったお父様。  戦場へ行き、そのまま帰って来なかった方。  わたくしの中にあるお父様は、いつも少し遠くにいました。近くにいるのに、遠い背中でした。  わたくしが生まれてすぐ、母様は亡くなりました。  だから、お父様にとって、わたくしは母様をうばった子だったのかもしれません。生まれて来てはいけなかった子だったのかもしれません。  そう言われたわけではありません。  でも、小さいわたくしにも、分かりました。  抱き上げられることが、あまりなかったこと。  名前を呼ぶ声が、いつも少しかたかったこと。  わたくしを見る目が、わたくしではない誰かを見ているようだったこと。  そして、すぐに背中を向けてしまうこと。  お父様の背中は、大きかったです。  でも、遠かったです。  ヴァン様の足が、地面を強く蹴りました。  わたくしの腕に、少し力が入りました。    それから、ヴェナリスお兄様。  今の皇帝であるお兄様。  すごく年のはなれたお兄様は、わたくしが病気だと聞いて、一度だけ見舞いに来ました。  大きな部屋でした。  とても静かでした。  侍医達は、みんな下を向いていました。  寝台の上から見上げたお兄様の目は、冷たかったです。  不治の病だと知った時、お兄様は言いました。 『弱者は皇族に不要だ』  その言葉を、わたくしは覚えています。  お兄様は、その時、わたくしへの興味をなくしました。  そして、背中を向けました。  遠ざかっていく背中。  あれは、わたくしの家族ではありません。  わたくしは、そう思ってしまいました。    でも、わたくしには家族がいます。  お爺様がいます。  お爺様は、わたくしの無理を聞いてくださいました。学院に通わせてくださいました。ドルガンとチャミーをつけて、わたくしが少しでも安全に過ごせるようにしてくださいました。  そのおかげで、わたくしは学院に来られました。  みなさまに会えました。  こうして、林間学校にも来られました。  ヴァン様。  ミコト様。  ハリエット様。  ハリス様。  オーレリア様。  ロイ様。  それから、わたくしの騎士になると言ってくださったローティ様。  ルナさんもいます。  みなさまと、おそろいのマスコットを持っています。  小さなものです。  でも、とても大切なものです。  あれを見た時、わたくしは、とてもうれしかったです。とても楽しかったです。  わたくしは、ただ守られているだけの病人ではなくて、みなさまの輪の中に入れてもらえたのだと思いました。  でも。  大公領主として、城の執務室に、一人で座っているお爺様の背中は、いつもさみしそうでした。  苦しそうでした。  お爺様は、わたくしにやさしいです。  でも、そのやさしさの奥に、痛みがあることも分かります。わたくしのことで、思いなやませているのだと分かります。  助けたい。  でも、助けられない。  その苦しみを、お爺様はずっと背負ってくださっています。  わたくしは、それがうれしくて。  そして、つらいです。  マナ姉様とマギ兄様も、そうです。  お二人は、ぜったいにわたくしの治療法を見つけると言ってくださいました。  本に向かうマナ姉様の背中。  研究に没頭するマギ兄様の背中。    わたくしのために、がんばってくださっています。  やさしいお二人です。  わたくしは、お二人が大好きです。  大好きな家族です。  でも、あの二人の人生を、わたくしのために使わせたくはありません。  わたくしが病気でなければ、あの二人は、もっと自由にふるまえるはずです。  もっと好きなことをして。  もっと遠くへ行って。  もっと笑っていられるはずです。  わたくしの命は、たくさんの人の背中に乗っています。  お爺様の背中。  マナ姉様とマギ兄様の背中。  ドルガンの背中。  チャミーの背中。  そして今、ヴァン様の背中。  どうして、わたくしは、こんなに重いのでしょう。  こんなに軽い体なのに。  わたくしは、みんなにとって、おもりでしかない。  そう思ったら、目の奥が熱くなりました。  夜の風が、ほほに当たります。  小川の上流、水のせせらぎも聞こえます。  その瞬間、ヴァン様の背中が、ほんの少し沈みました。    走り方が変わります。    わたくしを落とさないように、支え直したのだと分かりました。 「力、抜けてる」  ヴァン様の声がしました。 「すみません。大丈夫です」 「泣いてる」  わたくし、泣いていたようです。 「いえ、大丈夫です」  そう答えました。  でも、ヴァン様はしばらく何も言いませんでした。  ぜったい大丈夫じゃないって、ばれている気がします。 「そうか」  でも、ヴァン様は、そう言ってくれました。  それから、少し間がありました。  じっと何か考えているようでした。  ぽつりと、ヴァン様は言いました。 「くまの騎士」  わたくしは、瞬きをしました。 「チャミー」  ヴァン様は、前を向いたまま言いました。 「マギ、マナ」  夜光苔の光が、また一つ、また一つと、足もとを過ぎていきます。 「ミコト、ハリエット、オーレリア、ハリス、ロイ、ローティ」  ひとり、ひとり、その人たちの顔が、思い浮かびます。 「ルナも」  ヴァン様の言葉は、いつも短いです。 「レオナは、大丈夫」  本当に短いです。でも。 「みんなが、いる」  でも、なぜか、とても胸の奥に届きました。  わたくしは、ヴァン様の肩に、もう少し強くつかまりました。 「ヴァン様もいます」  ヴァン様は、少しだけ黙りました。 「そうか。おれも、いた」 「はい、ヴァン様もいました」 「ヴァンでいい」 「そうなのですか?」  その時でした。  ヴァン様の足が、大きな石を踏みました。  その石がゆれ、足場が大きく崩れました。 「しくった」  ヴァン様の声が、いつもより少し近く聞こえました。  体が、ふわりと浮きました。  地面が消えました。  夜の森も、夜光苔の光も、ヴァン様の背中も、月の光も、ぜんぶ一度にひっくり返りました。  わたくし達は、崖の外へ投げ出されていました。

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