ふみの世界樹 / 第53話

第四十五話 結界小屋

「ヴァン、こちらは何をすればいい?」  僕はヴァンと二人で、野営地からは遠く、小屋からは少し離れた茂みの中で作戦会議中だった。ローティが、不測の事故で脇腹に怪我をして、レオナ様の籠を担ぐのは不安だから、役割を急に交代することにした。本来なら僕は、オーレリア、ハリスと一緒に湖の方へ向かう予定だったが、そちらはローティに回って貰うことになった。多分、オーレリアとハリス、知性派の二人が同行しているので問題はあるまい。それよりも、僕が直面している状況の方が問題だ。  |結界小屋《バリアヒュッテ》。  この強力な創成系の召喚術は、頑丈な小屋を一棟、術者が指定した場所に建てる呪文だ。この術式で建てられた小屋は、周囲の土地に馴染むそうだが、この杉の木だらけの森の中では木造建築の外見になっている。使われている素材も、ちゃんと見た目は杉の木だ。  この魔法の等級は、第四位列に分類される。つまり、その辺の魔法使いじゃ扱えない高度な呪文ってことだ。術式それ自体は召喚術に含まれるが、そうやって召喚される小屋の方は、いくつかの防御術が施されている。これは見た目以上に強固で、物理的にも頑丈で、魔法による防御もあって、ほとんど付け入る隙がない。  全ての窓には鎧戸が降りているし、扉は正面に一つしかない上に、護衛の兵士が常に二人ずつ交代で歩哨に立っている。さらには扉も鎧戸の窓も、|術式錠《ルーンシュロス》によって堅く閉ざされている。僕達には|解錠術《アウフシュロス》や、|解呪術《ディスペル・マギー》といった魔法的な突破手段がない。  仮にそれらの呪文を封じた|魔法の巻物《マジック・スクロール》を用意できたとしても、見張りの兵士に見付かってしまうし、その監視の目を潜り抜ける事ができたとしても、窓や扉に|警戒術《アラルム》が設置されている。従って外部からの侵入者は直ぐに、この小屋を用意した術者、つまりベイオベア卿に警報が伝わってしまう。  いや、ベイオベア卿のことだ。|警戒術《アラルム》の設定を、自分だけが聞こえる意識的な警報音ではなく、護衛の兵士達とチャミー殿、そしてレオナ様自身にも伝わるように、物理的な警報音が鳴り響く設定にしてあるだろう。  うん、僕でも守る側で、ベイオベア卿の立場ならそうする。部屋の内部にいるなら侵入者に対してカウンターで奇襲する為に、警報が鳴ったと報せない無音タイプが有効だが。いかに親衛騎士隊長でも、レオナ様の寝室で夜を明かすのはマズイはずだ。  ともかく、男性達は外部から護衛するしかない。そうなると警報の受け取り手、つまり術者本人が先に狙われて無力化されてしまい、奇襲のための警報が全くの無意味になる可能性が生まれる。この可能性は、ベイオベア卿も潰しておきたいはずだ。仮に自分が先に殺されても、残った者達に警報が届くようにと考えるだろう。  この辺りの読みは、ハリスの見解と僕の見解も一致している。ベイオベア卿は、間違いなく物理警報を仕掛けている。もし、そうでなければ、僕らが束になっても勝てないであろうベイオベア卿、仮にあの人が相手だったとしても、理屈だけなら、警備を乱す方法はいくつか浮かぶ。別の緊急事態をでっちあげて遠くへ誘導する、テントの周囲を|氷壁《アイスヴァント》で囲って時間を稼ぐ、そういう乱暴な手段だ。勿論、実行すれば作戦どころでは済まない。  そうなれば、今いる二名の兵士にバレないようにするか、これまた何らかの手段で先に兵士達を無力化した後、精神警報を無視して解錠と移動速度のゴリ押しで、少し離れたテントにいるベイオベア卿と、残り二名の兵士達が駆け付けるよりも先にレオナ様を連れて脱出するという作戦が使える。  だけど物理警報なら、丘の下にいる野営地、ジークハルト先生達や他の生徒達までが異変に気付く。これは絶対にマズい。だから、正攻法は選択肢から外れる。 「木登り。屋根に飛び移る。ロープを支える。それと、見張り」  ヴァンに言われたことは、すごく単純だ。つまり、僕達が選んだ作戦は、煙突を利用する方法だ。そして、今からベイオベア卿が小屋を離れたタイミングで、小屋の裏手に回って木登りをして、静かに屋根に飛び移る。そこで僕達は煙突からロープを中に垂らす。生物でない無機物の侵入は、警報が鳴らない。そして、チャミー殿を介して伝言が伝わっていれば、既にレオナ様の外出準備は終わっているはずだ。炉の火も、チャミー殿が早めに落としてくれているはずだ。  後は、ロープを使ってレオナ様を引き上げれば脱出成功。|警戒術《アラルム》は侵入者に対しては警報を発するが、外へ出て行く者に対しては無視を決め込む仕様だ。ハリスが、この呪文の構造上の穴に気付かなければ、成立しなかった作戦だ。後はそのロープを使って、そのままレオナ様には地上に降りて貰って、持って来た籠に乗せて、三人で一緒に湖へと向かうだけ。思ったより簡単そうな作戦だ。ただ一つの要素を除けば、である。 「無理だ。僕は|木《・》|登《・》|り《・》|が《・》|苦《・》|手《・》だ」  僕は、ヴァンに事実を告げた。見栄を張っている場面ではない。 「分かった。おれ一人でやる。下でロープを支えるか、樹に結んでくれたらいい」  即断即決がすごい。いや、それよりも納得と受容が、恐ろしく早い。木登りが不得手だという僕に対して、何一つ嫌な顔をしないし、文句も言わない。なぜだと理由も聞かない。僕が嘘を吐かないと信じていることは勿論だし、その事実に対する受け入れが、潔いなんてものじゃない。  こいつ、例え片腕を失っても、「そうか」の一言で済ませそうな、そんな怖さと危うさがある。だが今は、それが頼もしいし、ありがたい。なら僕も、ヴァンほどじゃないが、即断即決で返さなくては。 「任せろ」  それと、持って来た少しのアイデアを付け足そう。 「それから、垂らしたロープを結んでもらうのはナシだ」  本来、ローティと二人で予定していたレオナ様の腰にロープを結んで引っ張り上げる方法は、事故る可能性が高い。ローティとヴァンの二人ならまだしも、僕が抜けた今、ヴァン一人で引き上げても安定しない。レオナ様が、くるくる回る。そうやって煙突内で、頭を内壁にでもぶつけられたら大変だ。 「どうする?」 「こうする」  僕はロープの先を小さな輪にする前に、筒状の金属材にロープを通した。蓋を取って、底をくり抜いた携帯用の茶筒だ。長さは拳ほどで、レオナ様が足を乗せて支えやすい形にした。  それから、レオナ様の身長と、伸ばした腕の長さを考慮して、握りやすいように結び目を幾つか作っておく。さらに腰を縛るのではなく、脇の下に通す補助の輪も作っておく。身体を吊るためではない。万一、手が離れた時に落ちるのを防ぐためだ。  僕は手が大きすぎて、細かすぎる作業は苦手だが、工作それ自体は好きだ。直ぐに作ってみせると、ヴァンは感心したような顔をしていた。 「ロイ」 「どうした。改まって」 「おまえ、すごいな」  僕は、声を出して笑いそうになった。こんなことを考え付いて、みんなを巻き込んで実行に移すような男に言われても。それが僕の正直な感想だった。  でも、悪い気はしない。すごいやつに、すごいと言われた時、こんなに気分がいいなんて知らなかった。 「では姫様、今夜はごゆるりとお休みくだされ。チャミー殿、後はお任せ致します」 「はいですだ。ドルガン様も、おやすみなせえまし」 「うむ。それでは失礼する」  ベイオベア卿と、チャミー殿の会話が聞こえた。作戦決行だ。僕はヴァンと顔を見合わせ、頷いた。 「おまえ達、交代は二時間後だ。絶対に居眠りするなよ」 「はっ、お任せください」  見張りの交代は二時間後、つまり今から二時間は状況が安定する。絶好の機会だ。  やがて、ベイオベア卿の姿が遠く、完全に見えなくなってから僕らは籠を担いで動いた。そうでなければ、わずかな気配でも感知される気がしたからだ。小屋の裏手まで来た時、ヴァンが立ち止まった。 「この樹だ」  もう既にヴァンは、登るべき樹の下調べが終わっていたらしい。僕達は樹の幹、その裏に身を隠して準備した。籠は邪魔にならない斜面の下、小屋から死角になる場所に安置する。僕が籠を置いてから振り返ると、ヴァンの姿が見えない。  ふと見上げると、もう樹の上、横に張り出した太い枝の上に立っていた。ロープは輪にして束ねて、肩に掛けている。僕は少しだけ樹の幹から顔を覗かせ、小屋の前方を確かめた。片方の見張り、兵士の後ろ姿、その一部が見えた。建物の陰になって見えないもう一人の見張りと、何かしら談笑しているように見えた。  風が吹いた。ヴァンが跳んだ。屋根の上に着地すれば音がするので、屋根の縁にぶら下がる恰好で飛び付いた。そこから単純な腕力、懸垂で身体を持ち上げてから、脚を振り上げて、一気に屋根の上に転がるようにして登った。そこまで一連の動作が、余りにも手慣れていて、少し見惚れてしまった。あいつの兄貴が、一体どんな訓練をさせたのか気になる。  と、ロープの束が飛んで来た。さっき足場に使った枝の上を越えてから、僕の目の前に落ちて来る。反対側の端は、ヴァンが握ったままだ。僕はロープを樹の幹で一周させると、固く結んだ。更に上から足で押さえ、ロープを両手で掴んだ。  上でヴァンが何をしているかは、ここからでは死角になって見えない。順調なら、今頃はロープを煙突の中に垂らし終えて、下では着替えの終わったレオナ様が、茶筒で作ったステップに、足を置いている頃だ。チャミー殿が、着替えを手伝ってくれて、ベイオベア卿に報告しないで、こちら側に協力してくれる。そうでなければ、絶対に不可能な作戦だった。  やがて、ロープを引っ張る合図が来た。僕は慎重に、ゆっくりと、一定の速度とタイミングを保ちながら、ロープを手繰り寄せて行く。何十回か手繰り寄せた頃、すっと抵抗する力が抜けた。恐らく煙突を登り切ったのだろう。僕は、そのまま次の合図を待った。  その時、声が聞こえた。 「ちょっと、用を足してくる」  見張りの兵士、その一人がこっちへ来る。おまえ、レオナ様がいるんだぞ。もっと離れた所でしろよ。こっちに来るな。  見上げると、ヴァンが屋根の上にレオナ様と一緒に顔を出してから、直ぐに引っ込めた。状況に気付いたのだろう。僕はロープを放置して、樹の幹に隠れた。結び目を解いて、束に巻き直してから、ロープを回収する時間はない。苦肉の策だ。今夜は満月で、月明かりは強い。視線を向けられれば、見えてしまう。どうか空を見上げませんように、見付かりませんように……。僕は祈りながらも、どこかで冷静だった。  しきりに止むことのない虫の鳴き声に混じって、たまに不意を突いて聞こえる鳥の鳴き声。それ以外は静寂。だが、それを台無しにする兵士の立てる水音。その音が聞こえないように、ヴァンはレオナ様の耳をちゃんと塞いでいるだろうか? それとも二人でクスクス笑うのを堪えているだろうか? 距離的に近い僕は、身じろぎ一つできない。枝を踏む音一つ、葉が擦れる音一つで、こちらの位置がばれてしまう。僕は息を止めた。  出すものを出し終えた兵士は、鼻唄交じりに持ち場へ戻って行く。その後ろ姿を確認してから、ようやく僕は息を吐き出した。  屋根を見上げると、ヴァンが手を振って合図している。僕は頷きを返して、ロープを解く。それから束にして、結んで、枝の上を越えて、放物線を描くように投げ返す。ヴァンが受け取る。次はレオナ様をロープで降ろす仕事が待っている。これはヴァン一人で、レオナ様の体重を支える事も可能だろうが、安全のためと、これから籠を担いで山越えをする体力を温存する為に、ロープの端は煙突にでも結んでおいた方がいい。  僕は樹の幹から離れ、小屋の裏手、壁際の直ぐ傍まで移動した。ロープの輪に足を掛けて、立った姿勢のままレオナ様が降りて来る。脇の下に通す補助の輪があっても、ロープを掴む力が足りなくて、途中で手が離れて落ちたりしないかと心配になるが、それは取り越し苦労に終わった。無事に着地成功。屋根から降りることができた。用の済んだロープは、ヴァンが引き上げて回収した。直ぐに戻って来るのかと思ったら、少し時間が掛かっていた。どうやら、屋根の上にロープを置きっぱなしにする状態は避けるという判断だ。月の入りまでという時間制限がある中で、そのわずかな時間でも惜しいと思える。けれど、置きっぱなしにしたロープが風で解けて屋根から垂れさがった場合、兵士達に異変が察知される。後片付けは、きちんとしておく。とても大事なことだ。  なら僕は、ただ待つだけじゃない。今の内にレオナ様を連れて次の工程に向けて行動を開始する。籠に座って、きちんと身体を固定するだけでも多少の時間を使ってしまう。段取りよく物事を進めるには、同時進行だ。レオナ様を連れて、籠の所まで先に行く。月明かりの下、レオナ様は冷えないように温かい恰好をしていた。手荷物は何もない。それでいい。少し、興奮なさっている感じがした。そりゃそうだろう。おそらく人生で初めての大冒険なのだから。  緊張した面持ちで、レオナ様が籠の椅子に座る。膝掛けの上から、ベルトを軽く締めて安定させる。そこへ、ヴァンが戻って来た。  屋根から降りたばかりだというのに、息は乱れていない。月明かりの中で目だけが動き、僕、レオナ様、籠、小屋の角、見張りの位置、順に確認する。多分、風向きも。もしかすると、僕が気付いていないだけで、匂いや湿度なんかも確かめているかも知れない。彼は喋るという出力が少ない分、感覚への入力は多いんだと思う。そのヴァンが言った。 「行く」 「分かった」  僕は小さく頷いた。  ここから先は、二つの道がある。野営地の傍を突き抜けるか、大きく山側に迂回するか。一瞬だけ、その二択が頭を過った。  ジークハルト先生は、ただの林間学校であっても、きちんとプロの仕事をしている。野営地に選ばれた場所は、一見するとただの開けた土地に見える。けれど、生い茂った木々や斜面、岩の並びをよく見ると、出入りできる方向が限られている。守る側には強く、近づく側には面倒な土地だ。  つまり、大きく迂回した場合、待っているのは悪路だけということになる。  昼のうちに、昨日と今日で、湖へ向かうルートはいくつか検討しておいた。だが、最終的な決定は、その時の現場判断に任せることになっていた。つまり、今、ここ。  ヴァンは迷わなかった。  野営地へ向かう。  顔を向けた方向で、その意志は伝わる。その判断に、僕も反対しなかった。山側を迂回すれば、確実に時間が掛かり過ぎる。今は、月が山の稜線に沈むまでの時間が全てだ。月が沈んでしまった後、真っ暗な湖を見せても意味はない。少しでも早く湖へ向かわなければならない。  問題は、ここから下る斜面だった。  小屋は野営地より少し高い場所、丘の上に建っている。そこから野営地の縁まで下りるには、木々の間を抜ける細い斜面を進む必要があった。昼なら何でもない距離でも、夜になると話は別だ。足元は暗い。根が張り出している。落ち葉も積もっている。しかも、僕達はレオナ様を乗せた籠を運ばなければならない。  普通に考えれば、背の高い僕が前に出た方が籠は安定する。前後で高さが違いすぎると、籠が傾きやすいからだ。けれど、山歩きに慣れているのはヴァンだ。前に立つ者が足場を選び、後ろにいる者は支えて、着いて行くことだけに専念する。そうした方が、斜面では安全なのだろう。 「レオナ様、少し揺れます」 「はい」 「レオナ、低くして」  ヴァンが前を見たまま言った。  レオナ様を呼び捨てにするとは、ヴァンのやつ。  僕は一瞬そう思った。相手は皇妹殿下だ。いくら今が秘密の脱出作戦中で、声を大きくできない状況だとしても、呼び捨てはさすがにどうなんだ。  けれど、レオナ様の返事は早かった。 「はいっ!」  すごく素直だった。  そこには、不快感も、戸惑いも、咎めるような響きもなかった。むしろ、信頼の色が見えた。ある種の、妹が兄に向けるような親密感すらあった。ヴァン兄様がそう言うなら、その通りにすればいい。そんなふうにも聞こえた。  僕の知らない間に、二人の間で何かあったのだろうか。  そう考えかけて、すぐに雑念を振り払う。今は、それを考えている場合ではない。気をつけるべきは足元だけではなかった。杉の枝が、夜の闇の中から不意に伸びている。僕達なら肩や腕で払える枝でも、籠に座るレオナ様の高さだと、ちょうど顔のあたりに来る。少しでも油断すれば、頬や目元を打ってしまう。  ヴァンは一歩ずつ、足場を選んで下りた。  僕は後ろで重さを受け止める。籠が前に滑りそうになれば引き、後ろへ傾けば押す。ヴァンが枝を手で押し上げるたび、僕も反対側の枝を肩で受けた。レオナ様は息を潜めるようにして、籠の縁を握っていた。僕は心配になって尋ねた。 「大丈夫ですか」 「はい。……少し、楽しいです」  その返事に、僕は危うく足を滑らせそうになった。  楽しい。  この状況を、そう言えるのか。  いや、そうなのだろう。レオナ様にとっては、夜の斜面を籠で下りるだけでも、きっと大冒険なのだ。  レオナ様が素直に身を低くした、そのすぐ上を、張り出した枝がかすめていった。ヴァンが枝を押さえていなければ、確実に当たっていた。  やがて斜面が緩くなり、足元が少しだけ平らになった。野営地の明かりが、木々の隙間から見えた。 「ここからは?」 「野営地を抜けるまで歩く」  ヴァンが短く答えた。  確かに、その通りだ。籠を担いでいれば、どうしても目立つ。人を運んでいると一目で分かるし、影も大きくなる。野営地を抜けるまでは、レオナ様には歩いていただくしかない。 「レオナ様、少し歩けますか」  僕が尋ねると、レオナ様は小さく頷いた。 「はい。少しなら」 「無理はしないでください」 「はい。無理は、少しだけにします」  それは無理をしない返事ではなかったが、今は訂正している時間もなかった。  ヴァンが、籠をなるべく目立たないように持ち、野営地の方へ進んだ。テントから伸びる長い影を使い、木の幹や積まれた薪、荷物置き場の暗がりを遮蔽物にする。火の残りが赤く揺れていて、人の声はもうほとんどない。けれど、完全な静寂でもなかった。誰かの寝返り。布の擦れる音。遠くの虫の声。夜の野営地は、眠っているようで、どこか起きている。  その時、学生の一人に出会った。  ウォールだ。  彼は、テントの横に立っていた。用を足しに起きたのか、夜風に当たっていたのかは分からない。ただ、こちらを見た瞬間、目が合った。  まずい。  僕は息を呑んだ。  ヴァンも止まった。レオナ様も止まった。  ウォールは、僕達を見た。ヴァンを見て、僕を見て、最後にレオナ様を見た。  そして、何かを言おうとした。  その前に、レオナ様がそっと指先を唇の前に立てた。 「しーっ」  声にならない、小さなお願いだった。  ウォールの目が少し丸くなる。  それから、彼はゆっくりと頷いた。  助かった。  そう思った次の瞬間、ウォールの後ろから別の声がした。 「ウォール? 何をしているんだい」  フェルトンだった。  僕は心臓が止まるかと思った。  よりによって、なぜこのタイミングで来る。しかもフェルトンだ。見つかったら、面倒という言葉では済まない。騒がれる。問い詰められる。あるいは、自分も連れて行けと言い出すかもしれない。どれも最悪だ。  ヴァンが、ほんの少しだけレオナ様を見た。  レオナ様は、もう一度、唇の前に指を立てた。  今度はウォールに向けて。  ウォールは、分かったというように頷いた。 「何でもない」  ウォールはそう言って、フェルトンの方へ歩いた。 「少し、向こうで音がした」 「音?」 「たぶん、獣だ。今度は、ダイア・ウルフかもしれない」 「ダイア・ウルフだって?」  フェルトンの声が少し高くなる。 「それなら先生に知らせるべきじゃないか」 「フェルトン君なら、倒せるんじゃないの?」 「……そ、それもそうだな。よし、ついて来い。どこで音がした?」 「あっち」 「そっちか」  ウォールは、フェルトンを連れて、僕達とは反対側へ歩いていった。  その背中がテントの影に隠れるまで、僕は動けなかった。息を吸うのも忘れていた気がする。 「……助かった」  小さく呟くと、ヴァンが頷いた。 「ああ」  レオナ様は、ウォールが消えた方を見つめていた。 「あとで、お礼を言わないといけませんね」 「言えるなら」  ヴァンはそう答えて、また進み始めようとしたが。それを片手で制して、今度は僕が先頭に立つ、籠を持つ者が先頭では目立ちすぎるからだ。  テントの横を幾つか通り抜けた。順調だ。  と、安堵したのは、本当に束の間だった。  次の瞬間、僕は立ち止まった。  前方の影が、動いた。  見間違いではない。人影だ。しかも、ただの生徒ではない。大きさが違う。姿勢が違う。立ち方が違う。夜の中でこちらを待っていたように、まっすぐ立っている。目が合ってしまった。  僕の背中に、冷たいものが走る。    ジークハルト先生だった。

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