ふみの世界樹 / 第35話

第三十一話 息のつまる話

「息が……」  ロイは、喉を押さえていた。声は出ている。けれど、いつものロイの声ではなかった。胸が大きく上下しているのに、息が入っていない。吸おうとして、吸えず、もう一度吸おうとして、歯を食いしばっている。顔色が変わる。膝が揺れる。それでも、まだ前に立っている。オーレリアを背に置こうとしている。こいつでなければ、たぶんもう倒れている。そう思うくらい、ロイは苦しみながら立っていた。 「ロイ様!」 「来るな……オーレリア、みんな、下がれ」 「でも…、ロイさ…、うっ」  オーレリアは下がらなかった。下がれと言われても、ロイを見捨てられるやつじゃない。手帳を胸に抱えたまま、一歩だけ前へ出ようとして、それで遅れた。赤黒いものがほどけた空気を吸ったのだと思う。オーレリアの肩が小さく跳ねた。口元が震える。手帳を抱える腕に力が入り、それから、ゆっくりと膝が落ちた。倒れるというより、立っている力を少しずつ抜かれていくみたいだった。それでも手帳は離さなかった。床に膝をついても、ロイの方を見ていた。 「みんな、吸い込むな……いや、違うな。これは、空気そのものじゃない。息を奪う系統か……姉さん、これは死霊術か?」  ハリスは、おれの隣にいた。おれとハリスの二人で、自然と前に出ていた。後ろにはハリエットとミコトがいる。ハリエットはミコトの肩に手を添え、ミコトはその手に縋るように身を寄せていた。二人とも怖がっている。無理もない。目の前でロイとオーレリアが息を詰まらせ、部屋には赤黒いものが広がっている。ハリエットはそれでもミコトを離さず、ミコトもハリエットのそばから動けない。二人の肩が触れていて、どちらがどちらを支えているのか分からなかった。 「はい。たぶん、奪息呪《アーテムラウプ》に似た強力な魔法の力です」  ハリエットの声は震えていた。怖がっている。それなのに、ちゃんと見ている。怖がりながら、術式を考えて、名前を探して、今起きていることを言葉にしている。すごいと思った。おれには、あれが何の魔法かなんて分からない。けれど、分からないまま見ているだけでは駄目だ。ハリエットが分かることを言っているなら、おれはおれで、やれることを探すしかない。入口。壁。天窓。本。煙。仲間の位置。動けるやつ。動けないやつ。全部見る。 「うっ」  ハリスの息が詰まった。隣で、肩が揺れる。口元を押さえ、目だけはまだ本を見ている。倒れないように踏ん張っているのが分かった。ほぼ同時に、おれの喉にも来た。熱いものが入ってきたような、何かを奪われたような、嫌な感覚だった。  苦しい。  喉の内側が乾いて、熱い。息を吸うと、空気ではないものが胸へ入り込もうとする。吸い込めば楽になるはずなのに、吸おうとするほど苦しくなる。体が勝手にもっと息をしろと言う。もっと吸え、もっと空気を入れろと急かしてくる。だが、それに従えば駄目だと分かった。爺ちゃんの教えを守れ。  煙を吸った時、喉が詰まった時、水を飲んでむせた時、胸を打って息が止まった時、体は勝手に慌てる。慌てると、余計に喉が閉まる。余計に空気を探して、余計に悪いものを吸う。だから、まず立て。膝を折るな。目を閉じるな。吸おう吸おうとするな。これは魔法による緩やかな窒息だ。吸えないなら、吸えない分だけ動け。動けるうちに、見ろ。 「……ヴァン、さん」  ミコトの声が聞こえた。振り返ると、ミコトとハリエットは、二人とも床に座り込んでいた。ハリエットはミコトを庇うように体を寄せているが、自分も息がつらいのだろう。肩で息をして、片手を胸元に当てている。ミコトはその隣で、片手を喉に当て、もう片方の手で床を支えていた。二人とも立てない。けれど、完全に動けないわけではない。苦しみながら、それでも互いから離れようとはしていなかった。 「ごめん、な、さい…」  一瞬、おれは意味が分からなかった。何か失敗したのか、知らない間に別の危険が迫ったのかとミコトを注意深く観察した。  ミコトは、死にそうな顔をしていた。顔色は白く、唇は小さく震えている。目には涙が滲んでいて、それでもこぼれ落ちる前に光を受けていた。星明かりと、赤黒い煙の奥に残るぼんやりとした灯の中で、ミコトの瞳は濡れた黒にも、深い紫にも見えた。髪は乱れて頬にかかり、その黒い髪のところどころに、光の加減で紫が混じって見える。こんな時に何を見ているのかと思った。けれど、見えてしまった。苦しくて、怖くて、涙目で、それでも自分だけではなく、隣のハリエットの背中に手を当てている。自分も息ができないのに、ハリエットを支えようとしている。その姿が、ひどく頼りなくて、ひどく綺麗だった。 「ミコトさん、それは違う」  ハリエットは、ミコトを抱きしめた。強くではない。自分も苦しいから、強く抱く力はない。それでも、ミコトの頭を胸元へ寄せるようにして、背中に手を回していた。ミコトは多分、自分が皆を巻き込んだと思ってる。今こうしてみんな窒息しそうになっているのは自分のせいだと思っている。女神の声をおれ達に伝えたから。確かに、きっかけはそうかも知れない。でも、おれは自分で選んで来た。自分で決めて来た。自分の意志だ。ミコトは何も悪くない。 「そうだ。違う」  おれは、それだけ言うと、前を見た。ロイは片膝をつき、オーレリアを庇う腕だけはまだ前に出している。オーレリアは手帳を抱えたまま、ロイのそばで膝をついている。ハリスは床に片手をつき、まだ考える目をしているが、立ってはいない。ハリエットとミコトは座り込んで、互いに身体を寄せていた。おれ以外、全員が床に近いところにいる。立っているのは、おれだけだった。  みんな、まだ生きている。まだ声が出る。まだ動ける。だが、このままなら、すぐに動けなくなる。何とかしなければ、何かないか。背後の壁を突き崩して出る。駄目だ。厚い石壁を壊すには時間が掛かりすぎる。壊している途中でまた石を貼り直されたら終わる。天窓を割って外の空気を入れる。多分、それも違う。この身体の感じは、空気が足りないとか、煙を外へ逃がせばいいとか、そういう話じゃない。範囲から出なければ意味がない。なら、天窓を割ってそこから出る。駄目だ。天井が高すぎる。登る足場もない。あれこれ、手立てを考える中、それとは別に、ミコトの事も考える自分がいた。  最初は、関わるつもりはなかった。  和之国から来た、変なやつ。転校する前日に事故に遭った、不運な娘。イネヴェアに言い掛かりをつけられて、縮こまるのかと思ったら、そうではなかった娘。食堂で、レオナを助けた娘。レオナを助けて自分が火傷した娘。  関わるつもりはないのに、つい見ていた。  そこまでのはずだった。見ているだけで終わらせるつもりだった。学院の中のことは、学院の連中がどうにかする。おれがいちいち関わる必要はない。そう思っていた。おれには、ハリスという友達がいるし、ゴーンズさんという師匠がいる。兄貴もいる。ローティや、ウォール、知らない間にできた男友達。他には関わるつもりはない。なかったのに、ハリエットは、ハリスの姉さんで、オーレリアはその親友だから、知らない間に関わっていた。もう、それ以上は増やしたくなかった。  でも、ルナを見られた。  それで終わった。もしくは始まった。関わらないと決めた相手に、関わりを持たれてしまった。しかも、女神の声が聞こえるという。ますます変なやつだった。普通なら距離を取る。知らないふりをする。関われば面倒になる。実際、面倒になった。開かずの間を調べ、鍵を取り、塔へ登り、階段に落とされ、通路を跳び、見えない道を渡って、今、息がつまる部屋に閉じ込められている。関わったから、こうなっている。その考えは、逃げ場もなく頭の中に出てきた。ミコトが謝ったりするから、そうかもって思ってしまった。  でも、違う。  それだけではない。  おれが選んだ。ミコトも選んだ。ハリスも、ハリエットも、ロイも、オーレリアも、それぞれ選んだ。誰かに首へ縄をかけられて、ここまで引きずられてきたわけではない。ミコトは、自分で開かずの間に何かあると言った。怖がりながらも、手を伸ばした。おれは、それに乗った。止めることもできた。知らないふりもできた。けれど、しなかった。  助けになるかもしれないと思った時に、助けない方を選ぶなんて考え、おれには無かった。爺ちゃんなら、動いた。兄貴なら、手を差し伸べた。おれは、自分を育ててくれた人の真似をしている。それだけだ。  ハンナ。  日記の名前を思い出す。息もつまるような話だった。  笑われた。汚された。盗まれた。信じてもらえなかった。母親を助けたくて金を集めた。騙された。感謝を伝えに行って、さらに踏みにじられた。最後には、母親も死んだ。それで、ハンナの人生は無意味で無価値でした、と書いた。  ひどい話だと思う。ひどい。  おれには、うまく慰める言葉なんてない。なんて言えばいいかも分からない。ハリエットみたいに痛みに寄り添う言葉も、ロイみたいに正面から怒る言葉もない。けれど、ひどい話だということくらいは分かる。読んでいるだけで、胸の中へ暗いものと重いものが入ってくる話だった。  でも、それとこれは別だ。  おれ達を巻き込んで、本当に息をつまらせるのは違う。悪いけれど、止める。悪霊の倒し方なんて知らない。悪霊。その呼び方で合ってるのかも分からない。あの禁書の壊し方も知らない。魔法の仕組みも分からない。ハリエットが見た色や、ハリスが考えている理屈や、オーレリアが引っかけた名前の意味も、今のおれには全部分からない。でも、元凶は分かる。入口が塞がったのも、頁が開いたのも、赤黒いものが滲んだのも、この息を奪う煙みたいなものも、全部あの本から始まっている。  なら、元凶を断つ。  媒体があるなら、媒体を潰せば止まるかもしれない。止まらないかもしれない。それでも、今できることがそれしかないなら、それをやる。おれは腰のダガーに手を伸ばした。指が少し痺れている。握りが甘い。いつもなら、一度握れば刃の向きも重さもすぐ分かるのに、今は感覚の端が鈍い。それでも抜ける。鞘から刃が出る。冷たい光が、星明かりを少しだけ拾った。 「ヴァン、待て……」  ハリスの声がした。止める声だった。まだ考えている顔だ。たぶん、ハリスには別の可能性が見えている。壊せば悪化するかもしれない。魔法の反動が出るかもしれない。禁書というものは、ただ破れば終わるようなものではないのかもしれない。そういうことを考えているのだと思う。  でも、時間がない。 「待てない」  声は出た。喉が痛んだ。ハリスは、悔しそうに目を細めた。言い返さなかった。言い返すだけの息を残したのか、止めきれないと判断したのかは分からない。爺ちゃんなら、たぶん笑わない。兄貴なら、後で怒るかもしれない。無茶をしたと言うかもしれない。もっと別の手があったはずだと言うかもしれない。けれど、目の前で仲間が息をできずに苦しんでいて、まだ自分の足だけが動くなら、兄貴だって動くはずだ。騎士道とか、そういう言葉はおれには分からない。おれは騎士じゃない。けれど、立っていられるやつが、立ってやれることをする。それだけなら分かる。 「ヴァンさん……」  ミコトの声がした。さっきより弱い。けれど、声だった。おれは見た。  ミコトは床に片手をつき、もう片方の手で喉を押さえていた。顔色が悪い。目に水が滲んでいる。それでも、こちらを見ている。止めたいのか、助けを求めているのか、違うと言いたいのか、分からない。でも、まだ目が合う。まだ、あいつは終わっていない。  だったら、おれも終われない。ミコトを終わらせることはしない。  一歩、進む。  喉が焼ける。  もう一歩。  視界の端が黒くなる。それでも、本は見える。白紙の頁。赤黒く滲む端。そこから立ち昇る、黒紫の気配を帯びた煙。触れたらまずい。見ているだけでもまずい。けれど、放っておけば、みんなが死ぬ。なら、やるしかない。  おれは、本の前に膝をついた。膝をついたら、そのまま倒れそうになった。腕で支える。ダガーを握り直す。刃先を、白紙の頁へ向ける。紙を刺して止まるものなのか、分からない。本が暴れるのか、煙が強くなるのか、何かが出てくるのかも分からない。だが、分からないものを待っている時間はもうない。  ハンナ。  すまない。  おまえの話は、聞いた。でも、おれ達はここで死なない。ミコトも、ハリスも、ハリエットも、ロイも、オーレリアも、まだ生きている。これからも生きていて欲しい。  だから、これは潰す。  おれは、ダガーを突き下ろした。

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