ふみの世界樹 / 第36話

第三十二話 おへんじ

 おれは、ダガーを突き下ろした。 「待って!」  ミコトの声だった。刃を、白紙の頁に届く寸前で止めた。声が届いた瞬間、考えるよりも先に身体が動きを止めていた。喉は焼けている。腕は重い。指先も痺れている。けれど、あの声だけは、赤黒い煙の中でも妙にはっきり聞こえた。おれは刃先を頁のすぐ上に残したまま、ミコトを見た。  ミコトは、床にへたり込んだまま顔を上げていた。息は苦しそうだった。言葉を出すだけで、胸の奥から何かを削っているように見える。それでも、目はこっちを見ている。さっきまで謝っていた目ではない。怖がっている。苦しんでもいる。けれど、それだけじゃない。何か、まだ消えていないものを見つけた目だった。 「おへんじ」  短い声だった。  それだけだった。  おれには、すぐには分からなかった。ハリスも、ロイも、ハリエットも、一瞬だけ動きを止めた。けれど、オーレリアだけが息を呑んだ。苦しそうに胸を押さえながら、それでも手帳を抱える手が動く。震える指が、手帳の端に付いた細いペンフォルダへ伸びる。いつも使っているインクペンを、迷わず抜いた。 「……そう、なのよぅ」  オーレリアは、膝をついたままペンを差し出した。 「返事を、書くのよぅ」  返事。  日記に。  白紙の頁に。  おれは、ミコトを見た。ミコトは小さく頷いた。声はもう出なかった。それでも、そうだと言っているのは分かった。壊すんじゃない。潰すんじゃない。ハンナが最後に残した白紙へ、返事をする。正しいのかは分からない。間違っているかもしれない。けれど、ダガーを突き刺すよりは、ずっと分からないままではなかった。ミコトがそう言った。オーレリアが分かった。なら、賭ける価値はある。  問題は、本だった。  床に置かれたままでは、オーレリアは書けない。もう立てる状態ではない。ロイも、ハリスも、ハリエットも、ミコトも、床に近いところにいる。動けるのは、おれだけだった。さっきまで、おれはこの本を潰そうとしていた。触れたらまずいと思っていた。実際、まずいのだと思う。けれど、今は違う。壊すためではない。届けるために触る。そう思えば安全になるわけではないが、それでも、今この場で本を持てるやつがおれしかいないなら、おれが持つしかない。  おれはダガーをしまい、本に手を伸ばした。  指先が表紙に触れた瞬間、冷たいものが皮膚の下へ入り込んでくるような感じがした。息がさらに詰まる。喉の奥がぎゅっと縮む。手を離せば少しは楽になるのかもしれない。けれど、離せば何もできない。持ち上げる。重い。本そのものの重さじゃない。中に残っているものが重い。誰にも読まれず、誰からも返されず、ただ閉じ込められていたものが、紙の形をして手の中に乗っているようだった。  おれは、その本をオーレリアの前へ差し出した。  オーレリアは、ペンを握った。息を整えようとして、整えられず、少しだけ眉を寄せる。それでも、白紙の頁へペン先を置いた。最初の線が、強かった。紙が破れるかと思うくらい、強かった。 『あなたは、しんじられないくらい、がんばった』  短い言葉だった。  でも、そこには怒りがあった。  オーレリアは、いつもふわふわした声で話す。語尾も柔らかい。何でも面白がって、記録して、笑っているように見える。けれど、怒っていないわけじゃない。オーレリアは怒鳴らなかった。泣きもしなかった。ただ、紙が破れそうな筆圧で怒っていた。記録するって、こういうことなのかもしれなかった。  次に、ロイが手を伸ばした。 「貸せ」  声は掠れていた。けれど、ロイらしい声だった。オーレリアがペンを渡す。ロイはまだ片膝をついたままだった。息は苦しいはずなのに、背筋だけは曲げなかった。おれは本を少し動かし、ロイが書ける位置へ持っていく。  ロイはペンを握り、迷わず書いた。 『その時代に私達がいたら、君と友達になっていたのに、残念だ。あと120年はオーレリアと共に生きてから、そっちへ行くので、待っていろ。 ロイ・アッシュフィールド』  ばかだと思った。  けれど、悪くなかった。  百二十年生きるつもりなのか、とも思った。オーレリアと共に、というところを当然のように書くのもどうかと思った。でも、ロイはそういうやつだ。死んだ相手にも、未来の約束を投げる。友達になっていた、と言い切る。そっちへ行くから待っていろ、と言う。慰めなのか、宣言なのか、挑発なのか、おそらく、その全部だった。あいつは、怒っている時ほど真っ直ぐだ。真っ直ぐすぎて危なっかしい。けれど、ハンナの日記みたいなものに対しては、その真っ直ぐさが一番遠くまで届くのかもしれない。  オーレリアが、息が苦しいのに少しだけ笑った。  次に、ハリスがペンを受け取った。  ハリスは、すぐには書かなかった。白紙の頁を見る。日記の文字を見る。オーレリアとロイの書いた言葉を見る。それから、ゆっくりとペンを置いた。 『君を無価値だと言った者達は、君の価値を量れるほど、君を見ていなかった。  君を守る立場にいた者達は、立場だけを持っていて、責任を持っていなかった。  先生も、神父も、家名を誇った者達も、クラスメイトも、君一人すら救えなかった。  なら、無価値だったのは君の人生ではない。  彼らの肩書きだ。』  ハリスらしいと思った。  優しい、と言えばいいのかは分からない。けれど、おれは正しいと思う。ハリスは、ハンナを慰める前に、ハンナを追い詰めたものを切り捨てた。君は悪くない、では終わらせない。悪いのは誰か。何をするべきだった者が、何をしなかったのか。誰が見ず、誰が助けず、誰が笑い、誰が値札を貼ったのか。ハリスはそれを一つずつ切り分けて、ハンナの代わりに粉砕して見せた。それは、おれの言いたかったことでもあった。  ハリスはペンをハリエットへ渡した。  ハリエットは、震える手で受け取った。ミコトを支えていた手を少しだけ離し、白紙の頁に向き合う。息は苦しそうだった。けれど、その目はもう逃げていなかった。 『あなたは母思いで、努力家で、誠実な人。無価値なんかじゃない』  ハリエットの文字は、柔らかい。それなのに、強かった。ハンナを悪霊とも、禁書とも、危険なものとも呼ばなかった。母思いで、努力家で、誠実な人、と書いた。日記の中にいたハンナを見ている。あの赤黒い煙ではなく、母親を助けようとして、馬鹿にされても日記を書き続けて、最後まで何かを残した女の子の方を見ている。おれにはできない見方だった。おれは、危険なら止める。元凶なら潰す。そう考える。でも、ハリエットはその奥にいる人を見て、価値を見付けて褒めた。  次に、ミコトの番だった。  ミコトは、ペンを受け取る時に少し手を震わせた。息が苦しいせいだけじゃない。皇國語を書くのは、まだ簡単じゃないはずだ。話すのだって、少し前までたどたどしかった。文字を書くなら、もっと難しい。それでも、ミコトはペンを握った。  おれは本を支えた。  ミコトは、白紙の頁をじっと見つめる。それから、一字ずつ、確かめるように書き始めた。 『つらいことが沢山あったのが、わかりました。それでも、いじめに負けず、ずっと最後まで生き抜いて、日記も書き続けて、4か月も耐えたことが、すごいです』  時間がかかった。  けれど、誰も急かさなかった。  文字は少し硬い。ところどころ、線が迷っている。覚えたての皇國語、あけべ文字で書かれていた。けれど、その分だけ、ミコトが一字ずつ選んでいるのが分かった。知っている言葉だけで、言えることを探している。足りない言葉の代わりに、何度も考えて、書ける形にしている。 『あなたは、立派です。おかあさんは、少なくともあなたを誇り、に思っているはずです』  誇り、のところで少し止まった。たぶん、書き方を思い出していた。ハリエットが小さく口の形だけで教えた。ミコトは頷き、また書いた。 『無価値ではない。誰にわかってもらえなかったこと、今、私たちが知りました。無意味ではない。あなたは、すごい』  ミコトの息が乱れる。  それでも、手は止まらなかった。 『もう、だいじょうぶ』  その言葉だけ、少し丸かった。子供に言うみたいだった。自分に言い聞かせているみたいでもあった。 『あなたは、努力家、すてきな、女の子』  努力家。  すてき。  それは、ハンナのことだった。でも、おれにはミコトのことにも見えた。知らない言葉を覚えて、知らない文字を覚えて、怖いものの前で泣きそうになりながら、それでも書いている。自分も苦しいのに、ハンナへ言葉を届けようとしている。変なやつだ。今もそう思う。けれど、それだけじゃない。ミコトは、自分が何もできないと思っているのかもしれない。よく謝るし、怖がるし、すぐ自分のせいにしようとする。でも、できないから動かないやつじゃない。できないまま、覚えたての言葉で、覚えたての文字で、届くかどうかも分からない相手に返事を書いている。努力家で、すてきな女の子。その言葉は、ミコト自身にも当てはまるのだと、おれは思った。  最後に、ペンがおれへ向けられた。  おれは少しだけ迷った。書くことなんて、ないと思った。オーレリアが認めた。ロイが友達になると言った。ハリスが間違いを切り捨てた。ハリエットが人として見た。ミコトが、すごいと書いた。もう十分だろうと思った。  けれど、ミコトがこっちを見ていた。書け、と言っている目だった。さっき、跳べと言ったのは、おれだ。ミコトに苦手な「跳ぶ」をさせたのだから、おれも、苦手な「書く」をする。おれはペンを受け取った。持ち慣れない。ダガーよりずっと軽いのに、やけに重かった。白紙の端に、書いた。 『ハンナ、おれ達が読んだ。事実を知った。誰か知らないが、そんな奴等の言った事は間違いだ。今、意味が生まれた』  それだけだ。  慰めになっているのかは分からない。けれど、おれに書けるのはそれだけだった。誰にも読まれなかったなら、読んだと書く。誰にも知られなかったなら、知ったと書く。無意味だったと言うなら、今、意味が生まれたと書く。それ以上のことは分からない。でも、それだけは言える。  ペンを返そうとした時、ミコトが小さく息を吸った。 「ヴァンさん!」 「何だ」 「ルナ、描いて!」  ルナ。  ミコトは、そう言った。  そういえば、授業中に教科書の端へ描いていた落書きを、ミコトに見られたことがあった。あれを覚えていたのか。こんな時に、そんなものを思い出すのかと思ったが、ミコトは苦しそうな顔のまま、それでも真剣にこっちを見ていた。言葉だけでは足りないと思ったのかもしれない。慰める言葉だけではなく、日記の白紙に眠る小さな生き物の絵を添えようとしている。なぜルナなのか、全部は分からない。けれど、ミコトがそう言うなら、それでいいと思った。  おれは、少しだけ息を吐いた。 「分かった」  ペンを握り直す。  文字よりは、絵の方がまだましだった。白紙の隅に、丸くなったルナを描く。授業中に描く時より、線は震えた。息も苦しい。手も痺れている。それでも、耳を描き、背中を描き、尻尾を描く。最後に、目を閉じて眠っている顔を描いた。  小さなルナだった。  ハンナの日記の白紙に、言葉と一緒に、眠るルナがいる。  その瞬間、本が震えた。  がく、と一度。  がくがく、と続けて震える。  赤黒いものが、頁の端で揺れた。黒紫の煙が、部屋の中で渦を巻く。まずいと思った。失敗したのかと思った。おれは本を押さえた。けれど、次に聞こえたのは、悲鳴ではなかった。  しゅうう、と細い音がした。日記の背から、黒紫の瘴気が抜けていく。赤黒い染みが、紙の奥へ吸い戻されるように薄くなる。部屋に満ちていた息苦しさが、少しずつほどけていく。  息が入った。  空気が、胸の中へ戻ってきた。  ロイが大きく咳き込む。オーレリアも肩で息をした。ハリスは床に手をついたまま、深く息を吐いた。ハリエットはミコトを抱きしめたまま、泣きそうな顔で笑っていた。ミコトは、まだ苦しそうだったけれど、ちゃんと息をしていた。  おれは、日記を見た。  さっきまでの重さは、少しだけ薄れていた。完全に消えたわけではない。日記はまだ古く、黒ずんでいて、痛みを抱えたもののままだった。けれど、もう息を奪ってはいなかった。  終わったのか。  そう思った。  その時だった。 「こら、貴様ら!!!」  階下から、ジークハルト先生の声が響き渡る。 「これは一体どういう事だ!!!!」

運営おすすめ

週間ランキング

全ランキング

反応スコアランキング

もっと見る

PV・ブックマークランキング

もっと見る

更新された連載作品

すべて見る
読み込み中…

新着短編

すべて見る
読み込み中…

作品一覧

読み込み中…

作品ダッシュボード

作品全体の公開状況と、読者からの反応をひと目で確認できます。

作品パフォーマンス

選択期間のPVが多い順

上位5作品
ライブラリ

作品の公開状況と構成

最近の更新

最後に編集した作品

要チェック

公開前に確認したい項目

プレビュー
読者に表示される見た目

表示設定

文字サイズ
100%
背景色
縦書き表示
リッチモード
目次
読み込み中…

キーワードを入力して作品を探しましょう

アクセス解析
アクセス解析データは 5分おき に自動更新されます
読み込み中…
ランクイン記録
通知
通知はありません
地形ブラシ
25
スタンプ
ツール
装飾
表示
100%

世界地図

100%

REACTION SCORE

反応スコアの内訳