ふみの世界樹 / 第81話

第六十九話 兄弟喧嘩

「兄貴、喧嘩しに来た」  おれの兄貴、ヴァルク・ラドーレは職員室の中で顔を上げた。  職員室には、何人かの先生がいた。机の上には教本や書類が積まれていて、窓からは外庭の芝生と並木が見えている。 「いきなりどういたがじゃ。ヴァン、理由を話してみい」 「理由なんて、どうでもいい。死んだら、もう喧嘩できない」  兄貴は、少しだけ目を細めた。今の言葉で、おれの真意、その片方は伝わるはずだ。 「なるほどのう。爺さんの剣を取り返す、最後の機会になるかもしれんき、いうことか」 「それもある。でも、おれが勝ったら、弟に負けるような兄貴なんて、戦争に行かなくてすむ」  職員室の空気が少し張り詰めた。アルフォンス先生がこちらを見て、何かを言いかけた。 「その捻くれた優しさ、どうにかならんかのう」 「ならない。あと、優しいかは分からない」 「いいや、十分に優しい子に育っちゅう」  兄貴は、いつも返答に困ることを言う。本題に入ってしまえ。 「やるのか、やらないのか」 「やっちゃる。ただし、先生として特別稽古をつける。そういう形にしちょく」  兄貴は席を立った。 「何でもいい。本気で行く」 「それ以外に、万が一でも勝てる道があるがか」  兄貴は、壁に掛けてあった訓練用の木剣を一本取り、おれにもう一本を放った。  「ない。わかってる」  受け取った木剣が、今だけは重い。  爺ちゃんの剣ではない。あの形見は、ここにはない。けれど、木剣を握った瞬間、墓の前で抱えていた剣の重さを思い出した。あの日、初めて本気で兄貴に向かっていった時のことを。  あの時、おれは剣を放せなかった。放したら、爺ちゃんがもっと遠くへ行く気がした。今は、兄貴が前線へ行く。死ぬかもしれない場所へ行く。だから、その前に一度くらい、おれの全力をぶつけてもいいはずだった。  外へ出る。  おれと兄貴の後に、ミコトや、ハリス達も続く。気になるけれど、今は構っていられない。終わったら話そう。今は兄貴と、とことん|本気の勝負《はなしあい》をする時間だ。  外庭の芝生は、朝の湿り気をまだ少し残していた。正面玄関前の噴水ロータリーが見える。昨日、学芸会の来賓や兵士たちが通った場所も、今日はいつもの素顔に戻っている。  兄貴が芝生の上で、木剣を構える。  それだけで、場の空気が変わったのが分かる。遠巻きの観衆達にも、それは伝わっているようだ。いつの間にか、廊下の窓や玄関の周りに、生徒達が集まっていたが、誰も野次の声をあげない。  十七歳で|緋鋼武勲章《ロートシュタール・オルデン》を受けた騎士。  ローティが憧れる、伝説の騎士。  おれの、兄貴。 「来い」  その瞬間。おれは全力で走る。  |躊躇《ためら》わない。様子見もしない。不要だ。  距離を詰めながら、見て、感じて、考える。背丈の差があるから、頭部は遠い。跳べば隙が多い。低く、膝や脚を狙えば、簡単に読まれる。  接触直前の距離。左へ跳ぶ。  と、見せ掛けて右へ跳ぶ。打てる間合いだ。おれは兄貴の膝を狙う。  簡単に払われる。……のを見越して、剣先を膝への狙いから外して、地面に突き立てる。  手首を捻る。剣を杖に、跳ぶ。身体も捻る。逆立ちになる。兄貴の頭上を飛び越える。  着地。  なんて待っていられない。落下中、天地が逆さの状態で、首を薙ぐ。  入った。  ……かに思えたが、防がれた。兄貴は、いつの間に向き直った?  重い。単なる防御が、イノシシより重い。吹き飛ばされる。 「くっ」  思わず息がこぼれた。足下が芝生で良かった。地面を二度、転がりながら体勢を整える。片膝立ちで、切っ先を兄貴に向ける。変則的な構え。  いない。切っ先の向こう側で、待ち構えているはずの兄貴の姿がない。後ろ?  勘だ。前に跳べ。  頭を低く。思いっきり前へ、地面を這うように転がって、間合いを開く。背後で風切り音がした。  返す刃で追撃が来るに違いない。体勢を立て直してから受ける余裕はない。  ならば、風が過ぎた方とは逆に、身体の水平回転で向きを入れ替える。体勢の立て直しと、受けの動作。これを一度にやる。  衝撃。  読みは見事に当たった。兄貴の放った横殴りの一撃を止めた。……が、両手でしっかり支えてあるのに、剣が爆ぜたような力が加わる。逆らっちゃだめだ。剣も、下手すれば腕も折られる。  おれは少しだけ地面の踏ん張りを消して、吹き飛ばされるに任せた。芝生の上で、横に、斜めに、縦に、後ろにと、軸の向きを変えながら五回と半分、地面を転がった所で、低い姿勢で構え直した。  今度は距離があった。一息つける。目は逸らさない。  その時、周囲から歓声が上がった。うるさい。なんで黙って見てられないんだ。いや、いい。気にするな。  始めてから何秒たった? まだ、30秒は過ぎていないはずだ。 「ちょこまか動き回りよって、体力がもつと思うちゅうがか? 爺さんは、そがな戦い方は教えちゃあせんはずじゃ」  分かってる。体力はもたない。爺ちゃんの戦い方ともちがう。  ただ、今のおれが兄貴に勝てるかもしれない戦い方なのは、間違いない。  同じやり方では、より積み重ねた方が勝つ。だから、おれが兄貴に万が一にでも勝てるとしたら、素早さでかき乱して、隙を作るしかない。 「なんちゃあ言い返せんがか?」  兄貴が、言葉で揺さぶりをかけて来る。これに付き合っちゃダメだ。思考がブレる。兄貴は、おれの考えなんて読んだ上で、何を狙っているか分かった上で、ああ言ってるに違いない。  おれは、低い姿勢の構えから、ゆっくり静かに立ち上がって、構えを基本に戻す。  仕切り直しだ。  でも、さっきまでの動きは、兄貴の意識に、印象として焼き付けたはずだ。この次の一撃にも、その印象を引きずってくれたなら、おれにも勝機はある。   次だ。  この次も、さっきと同じ手順でわざと攻める。無駄な動きが多くなるのは分かっている。でも、そうでもしないと届かない。正攻法じゃ勝てない。ずっと兄貴を倒すために考えて来た作戦だ。 「行くぞ」  おれは再び全力で走って、兄貴との間合いを詰める。  接触直前の距離。左へ跳ぶ。……と、見せ掛けて右へ跳ぶ。  ……と、見せ掛けてそのまま左へ跳ぶ。  衝撃。  マジか。  おれは吹き飛ばされた。くそっ、分かってたけれど、小細工が通用しない。 「かはっ」  剣筋が速すぎて見えない。見てからじゃ間に合わない。  地面を転がる。少し背中を打った。肺から空気が漏れるが、大したことはない。反射的に、なんとか受けが間に合っていたようだ。幸いにも剣で打たれてはいない。  おれは、再びゆっくりと立ち上がる。兄貴は、待ってくれている。あれは手を抜いてるとかじゃない。こっちが全力を出して、それでもなお叩き潰されるってことを、教えるためだ。腹の立つ兄貴め。  深く。長く。おれは息を吐く。  空気と共に、下らない雑念と、これまでの戦いの意識を、しぼり出して捨てる。  おれが間違っていた。  印象を焼き付けるつもりが、こっちが引きずられていた。忘れろ。今までの戦いは忘れろ。最初から。ここが最初だ。全部を捨てて、次に拾え。  息を吸え。  鼻から、肺の奥、腹の底へ。  さあ、やるぞ。   「今度は、そっちから来たらどうだ」  挑発だ。兄貴には効かない。  でも、付き合ってはくれるはずだ。 「ほいたら、遠慮のう行くぜよ」  来た。  おれに捌けるか。

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