ふみの世界樹 / 第92話

第八十話 驚きと安らぎ

「ミコト、おれはミコトを一番好きだと言った」  ヴァン。 「世界で一番好きだって意味だ」  わたしも、好き。 「でも、それは間違いだ」  え?  胸の奥が、ひゅっと冷えた。 「おれは、ミコトをこの世界でも、そっちの世界でも、どんな世界でも、とにかく絶対一番好きだ」  ……あ。  冷えたものが、一瞬でほどけた。  世界一よりも上、全異世界一。 「……ヴァン」  名前を呼んだだけで、涙が出そうになった。 「泣いてる?」 「すみません」 「謝るな。……泣かせたのは、おれか?」 「違います。嬉しいんです」 「そうか。難しいな」 「……そうですね。難しい、かも。だって、好きな人から嬉しいことを言われて、胸の奥が嬉しくてぎゅっとなって、涙が出てくるんですから」 「そうか」 「そうです」  ヴァンは困った顔をした。手を伸ばしかけて、途中で止まる。どうしていいか分からなくなったみたいだった。  その様子を見て、ふと思いつく。わたしは、ヴァンを手招いた。 「ヴァン。ちょっと、こっちへ来てくれますか?」  小さなボートが揺れる。ヴァンは慎重に座る位置をずらして近づいた。わたしは、その頭にそっと触れる。  硬い髪。いつも少し乱れている髪。普段は女の子なんて気にしてないから、髪型に無頓着。なのに、今日は少しだけ整えようとしたのが見える。できてないけど。 「何か変か?」 「ううん。可愛いなって」  きみの一生懸命さがわかって、嬉しくて。  ゆっくり頭を撫でると、ヴァンは固まった。 「……何をしてる」 「撫でてます」  愛でているともいう。 「子供扱いしてないか」 「少しだけ」 「おれはもう子供じゃない」 「きみも、わたしも、まだ子供ですよ」  もう一度やさしく撫でると、ヴァンは逃げなかった。少しだけ諦めたように目を細める。まるで警戒心の強い子犬が、ようやく撫でられるのを許してくれたみたいだった。 「ヴァンは、いつも強くあろうとしますね」 「うん。おれは弱いから」 「その時点で、もう十分に強いです」 「そうか?」 「うん。ヴァンは強い子です」  芝生で泣いていたヴァンを思い出す。  兄の背中を見送る前に、全力で向かっていったヴァン。負けて、悔しくて、それでも声を上げずに泣いていたヴァン。  あの時は、何もできなくて胸が苦しくなった。傍にいることしかできなかった。でも、ヴァンのことを守ってあげたい、支えたいと思っていた。今ならきっと、それができる。 「でも、……今くらいは、もう少し肩の力を抜いてもいいんですよ。むしろ、抜いてください」 「どうやって」 「こうやって」  わたしは、ヴァンの頭をそっと両腕で包むように抱き込んだ。  胸の奥が、ふわっと暖かくなる。  この人が好きだと思った。  強いところも。不器用なところも。時々、子供っぽくなるところも。全部、好きだと思った。なにより、自分の気持ちに真っ直ぐなところが、大好きだ。 「ミコト」 「はい」 「ちょっと、恥ずかしい」  ヴァンは固まっていた。わたしも実は緊張していて、胸がドキドキしている。自分でも少し大胆だなって思う。でも、ヴァンにゆっくり安らいでもらいたかった。 「誰もいないから、大丈夫です。…だから、このまま甘えてください」  ヴァンは少し身じろいで、ぽつんと呟いた。   「……こういうの、知らない」 「こういうの?」 「頭を撫でられるとか。抱きしめられるとか。……母さんがいたら、こうだったのかもしれない」  その言葉で、胸の奥がきゅっと痛くなった。  ヴァンは、お母さんを知らない。  強い子だと思っていた。けれど、強いから平気だったわけじゃない。知らないまま、欲しがり方も分からないまま、ここまで来ただけなのだと思った。 「じゃあ、今から覚えてください」 「何を」 「こういうふうに、力を抜いてもいいってことを」  わたしは、もう一度だけ髪を撫で、とんとんと背中を軽く撫でた。  ヴァンは何も言わなかった。  ただ、少しだけ頭を預けてくれた。 「……嫌じゃない」 「うん。良かった」  小舟は、夕暮れの湖に小さく浮かんでいた。  二人の影は寄り添ったまま、ゆらり、ゆらりと水面に揺れた。  やがて鐘の音だけが、遠く学院から流れてきた。      *  翌朝。  礼拝堂には、静かな朝陽が差していた。  色硝子を通った淡い光が、長椅子の列に落ちている。|緋鋼建国神《アーダル》様の祭壇も、今はひどく遠く見えた。  ヴァンに「一人で抱えるな。アルフォンス先生とつばめ先生には話した方がいい」と言われて、わたしはここに来ていた。 「……以上が、わたしの全てです」  つばめ先生は何も言わなかった。アルフォンス先生も、珍しくすぐには口を開かなかった。  やがて、アルフォンス先生が眼鏡の位置を直して、深く息を吐いた。 「……予想の遥か斜め上でした」 「うそ。あなたでも?」 「はい。思った以上に、これは深刻な問題です」 「え。どれぐらいなの?」 「文字通り国と大陸は無論、全世界を揺るがす|程《ほど》に」  話が壮大過ぎて、まったく実感がわかない。こんな無力に近い女の子一人が、そんな大層な問題になるとは思えない。 「ミコトさんが通常の和之国出身者ではない可能性は、そもそも最初から分かっていました」 「そう言えばアルフォンス、あなた名前まで知ってたわよね?」 「ミコトさんが打ち明けてくれたので、私も秘密を一つ開示しましょう」  つばめ先生の目が驚きに開かれた。 「本当に? 今まで何年も、どれだけ聞いても教えてくれなかったのに?」 「はい。それに値するだけの大事件ですから」  そう聞くと、何だか緊張してきた。  「私が|運命の女神《アルモニア・ミラ》様から授かった特別な力は、|万象因果収束《ミリオン・パスト》と申します」  なんだか、すごいの出てきた。 「要するに、未来に起こり得る万象の世界線から、一つを選びとる力です」  ちっとも分かりません。 「何それ、分からないわよ。あなた賢いんだから、もっと分かるように説明して」 「分かりました。誤解を覚悟で申し上げましょう。つまり、未来を体験してから現在に戻れます」 「時間を?」 「タイムリープですか⁉」 「違います」  違った。 「でも、似たようなものです。例えば……」  アルフォンス先生は、顔を覆うように片手を広げ、中指で鼻筋を撫でるように眼鏡を持ち上げた。 「なるほど。ミコトさんは、今度またヴァン君と舟遊びをする約束をしましたね?」  え⁉ 「誰にも言ってないのに……⁉」 「教えて貰いました。ミコトさん本人に、今から五分後、私があれこれ条件を提示して問い詰めたら、教えてくれました」 「え?」 「……という五分後の未来から、私が戻って来たと考えて下さい。詳細事実は、それとは異なるのですが、現象としては同じ事ですから」 「す、すごい……」 「ちょっと、あんた……」  つばめ先生が何か言おうとしたが、アルフォンス先生が割り込む。 「それを、何で今まで黙っていたのか、ですよね?」 「……そう、どこかの未来のあたしも、同じ質問をしたってわけね」 「はい。呑み込みが早くて助かります。……こんな力、緋鋼政府の能力開発局に知られたら逮捕されて、監禁、実験、解剖、なんて事になってしまうので、絶対に言わないで下さいね」 「そんなまさか、いくら政府でも……」  つばめ先生が笑い飛ばそうとしたけれど、アルフォンス先生の顔が、いつになく真剣だった。 「……まさか、体験済みなの?」 「はい。今の政府は、明らかにおかしいので……」  なんだか怖い話になってきた。 「それはさておき、些細な問題よりも、ミコトさん、貴女の話です」  それが些細な問題になっちゃうほど、わたしは大きな問題らしい。 「先ず、単なる|転移事故《ペレホート・エラー》でもなければ、|次元界転移《プレイン・ペレホート》を使って、|精霊界《エレメンテ》や、|天上界《ヒンメル》から来たわけではない。…その記憶もない」 「はい。違います」  よく分からないから、それは絶対に違う。 「それから一度死んだという話ですが、通常の神聖魔法第七位列、|蘇生《ベレーブン》には該当しません。あれには、死んだ時点でその人の肉体だった一部が必要です。ミコトさんの場合、こちらの世界にその肉体がありません」 「でもアルフォンス、|上級蘇生《グローサー・ベレーブン》なら?」 「それなら、肉体が失われていても対象にはできます」 「じゃあ、わたしは……」 「ですが、それも違います。あれは超高位神官、国家予算級の莫大な費用、希少な触媒、盛大な儀式、膨大な記録、そして対象を正確に指定するための情報が必要です。何の痕跡もなく、異世界の少女をこちらへ呼び戻せるようなものではありません」  アルフォンス先生は続けた。 「一つ、別の可能性があります。それは|森祭司《ドルイド》の秘術、|輪廻転生《リインゲブルト》の呪文です。しかし、そう呼ぶにしても、あまりに記憶が連続しすぎています」  わたしは確かに生前の記憶がある。事故の記憶、お父さん、お母さん、お姉ちゃんの顔も名前も憶えている。 「よみがえりと呼ぶにも、戻った場所が違いすぎる。これは、神格の干渉を前提にしても、かなり特殊な事象です」 「でも、ミコトは和語を使えたわよ?」 「そこです。記憶喪失ではないのに、和語は使える。たまたま文化的に似た環境だったと考えるには、余りにも言語の一致が過ぎる」 「それって、|並行世界《パラレル・ワールド》でしょうか?」 「ミコトさんは、さらっと世界を揺るがす高次の概念を持ち出しますね。確かに、その可能性を提示している学者は、この大陸にも何人か存在します。しかし、それも違います。……ミコトさんの世界に、魔法はありましたか?」 「いえ、ありません」 「ですが、世界を跨いでも尚、その権能を維持できる神格が存在するのであれば、その影響を受けた文化圏や国家同士で、言語や文化様式が似る可能性はあります」 「そう、ですか……」  分かることが増えるほど、わたしは怖くなった。  わたしは、何なのだろう。人間なのか。死んだ人間なのか。それとも、女神さまに運ばれただけの、何か別のものなのか。  膝の上で握っていた手が震えた。その時、隣から腕が伸びてきた。細くて白いのに、鍛えられていて、力強い。つばめ先生は、何も言わずに、わたしを抱きしめた。 「……つばめ先生」 「ずっと寂しかったね」  その一言で、息が詰まった。 「誰にも本当のことを言えなくて、帰る家もなくて、家族もいなくて。平気な顔して、ずっと頑張ってたんだね」  だめだった。  涙が出た。  わたしは、つばめ先生の胸元で、小さく頷いた。 「……うん」 「うん」  つばめ先生の手が、わたしの背中をゆっくり撫でる。 「よく頑張ったね」  その言葉は、魔法の説明よりも、ずっと深く胸に入ってきた。 「……すみません」 「謝らない」 「でも」 「泣く時に謝らない」  つばめ先生の声は、少しだけ厳しくて、やさしかった。  アルフォンス先生は、その間、黙って待ってくれていた。  しばらくして、わたしが涙を拭うと、先生は静かに口を開いた。 「ミコトさん」 「はい」 「この件は、皆には秘密にしてください」  わたしは顔を上げた。  アルフォンス先生の表情は、いつになく真剣だった。 「ヴァン君にも、そう釘を刺しておいてください」 「ヴァンにも、ですか」 「はい。彼なら、あなたを守ろうとして不用意に口にすることはないでしょう。ですが、それでも念を押す必要があります」 「そんなに、危ないんですか」 「危ないです」  アルフォンス先生は、はっきり言った。 「これは、単に次元――|次元界層《プレイン》を移動したという話ではありません。この各種次元を含む世界――|全世界領域《ワールド・オムニスフィア》を越えた話です」  礼拝堂の空気が、少し冷えた気がした。 「|次元界層《プレイン》の移動なら、既存の魔法理論と体系で既に扱っています」  アルフォンス先生は、わたしをまっすぐに見た。 「ですが、|全世界領域《ワールド・オムニスフィア》を越えた異世界の存在となれば話が違います。世界の外側から来た魂。異なる法則、異なる歴史、異なる神々の下で生きていた記憶。それを保持したまま、こちらの世界で生きている唯一の人間」  わたしは、喉を鳴らした。 「それは」 「研究者にとっては、喉から手が出るほど知りたい存在です」  アルフォンス先生の静かな声が、刃物よりも鋭く、恐ろしかった。 「このことが広まれば、世界中から研究者がやって来るでしょう。魔法学者、神学者、魂魄研究者、召喚術士、国家機関、神殿関係者。善意の者もいるでしょう。ですが、全員があなたを一人の少女として扱ってくれるとは限りません」  つばめ先生の腕に、少し力が入った。 「アルフォンス」 「脅すつもりはありません。ですが、知らせておくべきです。今の私達では、彼女を、ミコトさんを守る事はできません」  その目には、いつもの静かな態度とは違って、熱がこもっていた。 「ミコトさん。あなたを守るために、ヴァン君は必ず無茶をするでしょう。命も捨てるでしょう。そこまでの遠い未来は分かりませんが、彼の普段の言動をみれば、私には分かります。それは、むしろ君達の方が詳しいはずです」  つばめ先生が、わたしを抱いたまま低く言う。 「ヴァンに、そんなことはさせないわ。この子も、誰にも好きにさせない」 「ええ。させません」  アルフォンス先生は頷いた。 「だからこそ、秘密にしてください。話す相手は慎重に選ぶ。必要がある時は、まず私か、つばめさんに相談してください」 「……はい」 「ヴァン君にも、必ず伝えてください。あなたを守るためにも黙る必要があるのだと」 「はい」  わたしは、つばめ先生の腕の中で頷いた。わたしが何なのか、まだ分からない。  けれど、分かったことが一つある。これは、わたし一人の秘密ではなくなった。みんなで守らなければならない秘密になったのだ。ヴァンを危険に晒すかもしれない秘密になったのだ。アルフォンス先生は、最後に静かに言った。 「ミコトさん。あなたは、ここにいていい。ですが、ここにいるためには、知られすぎてはいけません」  礼拝堂の色硝子から、最後の光が落ちていた。  わたしは、つばめ先生の腕の中で、小さく息を吸った。 「……分かりました」  声はまだ震えていた。  でも、今度は一人ではなかった。 「それと、あと一つ。……とても大切な話があります」  え? まだあるの?

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