ふみの世界樹 / 第93話

第八十一話 湖上の約束

「大切な話って、なにさね」  |逸《はや》るつばめ先生を片手で制して、アルフォンス先生は咳払いをした。いつもの穏やかな表情、何食わぬ顔で言う。 「ヴァルクとエイデンの任務が、無事に終了しました」 「……え?」  つばめ先生の声が、一瞬だけ抜けた。 「無事、なの?」 「はい。今回の特別任務については、すでに完了しています。来月には、二人ともこちらへ戻れる見込みです」  つばめ先生は、しばらく黙っていた。怒るのか、笑うのか、泣くのか、そのどれにもなりきれない顔で、唇を引き結んでいる。 「……あんた」 「はい」 「あたしに内緒で、助けに行ったりしてないでしょうね?」  アルフォンス先生は、ほんの少しだけ視線を逸らした。 「行きました」 「行ったの⁉」  つばめ先生が勢いよく立ち上がりかける。 「ちょっと、なんで誘ってくれなかったのよ!」 「ヴァン君とミコトさんを放置できませんから」 「それは、そうだけど……!」  つばめ先生は言い返しかけて、結局、言葉を飲み込んだ。わたしとヴァンの名前を出されると、つばめ先生は強く出られないらしい。 「ずるいわね、あんた」 「必要な判断でした。それに私の力が無ければ、危ない場面でした」 「|万象因果収束《ミリオン・パスト》だっけ? それあれば無敵じゃない」 「いえ、弱点はあります。連続使用は、私の精神を喰らい、脳を焼きます。それに、私自身が行くことも見聞もきできない範囲は外れますし、何より最大で一日しか見れません」 「意外と制約も多いのね」 「はい。後は眠くなります」 「それで、普段からそんな感じなのね」 「はい。そうかもしれません」  つばめ先生は大きく息を吐き、長椅子に座り直した。それでも、さっきより肩の力は抜けていて、ヴァルク先生とエイデン神父様が帰ってくるという事実が、少しずつ胸の中で形になっているように見えた。 「あの、つばめ先生」 「なに?」 「その……エイデン神父さまの、プロポーズの話は、受けるんですか?」  つばめ先生が固まった。アルフォンス先生は、静かに目を伏せる。 「ミコトちゃん」 「はい」 「そういうところ、思い切りがいいわね」 「す、すみません」 「謝らなくていいけど」  つばめ先生は、少しだけ顔を赤くして横を向いた。 「そうね。気持ちの整理がついたらね」 「整理、ですか」 「ええ。あたしにも、色々あるのよ」  それ以上は聞けなかった。でも、拒絶ではなかった。それだけで、少し嬉しくなる。  つばめ先生は、今度はわたしを見た。 「そういうミコトちゃんこそ、ちゃんとお付き合い始めたの?」 「え」 「ヴァン君と」 「あ、えっと」 「好きです、って互いに気持ちを確認しただけじゃ、その先には進めないよ。特にヴァン君はね。あの子、自分から大事なものを欲しがるのが下手だから」  つばめ先生はいつもの軽い調子で言ったけれど、目はちゃんと真面目だった。 「だから、ちゃんと恋人してきなさい」 「恋人……」  その言葉だけで、顔が熱くなる。  わたしとヴァンが、恋人。昨日、好きだと言ってもらえて、わたしも好きだと言った。でも、その言葉に名前をつけると、急に胸の奥が騒がしくなった。 「ただし、まだ一線は越えちゃだめだからね」 「い、ぃぃ一線、ですか……⁉」 「そう。一線」 「え、えっと……子供だから、まだ早いってことですよね?」  わたしが尋ねると、つばめ先生は少しだけ表情を改めた。 「まだ責任を取れないからよ。好きだから何をしてもいい、ってわけじゃないの。大事にしたいなら、ちゃんと待つことも覚えなさい。自分も、相手も、未来もね」 「……はい」 「まあ、手を繋ぐとか、少し寄り添うとか、そういうのはいいけど」 「つばめさん」  アルフォンス先生が咳払いをした。 「具体的すぎます」 「必要でしょ。あんた、こういう話は絶対役に立たないもの」 「否定はしません」 「そして、あんた以上にできないのがヴァルク。絶対まともな性教育なんかしてない」 「それも否定しません」 「いい、ミコト。あの子は、年齢の割にバカみたいに強いけど、中身は子供なの。それも|星級《ステラ・クラス》の子よりも、男女の話を知らない」 「たぶん、そんな気はしていました」  つばめ先生は、わたしの肩をぽんと叩いた。 「でしょ? でも、怖がらなくていいわ。嬉しいなら嬉しいって言って、会いたいなら会いたいって言って、ちゃんと恋人になってきなさい」 「……はい」  わたしは、小さく頷いた。  ヴァンと、恋人になる。それは昨日よりも、もっとはっきりした約束のように思えた。    *  それからの日々は、驚くほど甘かった。  朝、教室で目が合う。それだけで、胸の奥がそわそわした。ヴァンはいつもと同じ顔をしようとしていたけれど、わたしが小さく手を振ると、ほんの少しだけ耳が赤くなる。  それを見て、わたしも赤くなる。何も変わっていないはずなのに、全てが変わっていた。  隣の席で教本を開く時、指先が触れる。廊下を歩く時、歩幅を合わせてくれる。訓練場でヴァンが木剣を振る姿を見ていると、前よりもずっと格好よく見えて困った。 「ミコト」 「なんですか?」 「見すぎ」 「す、すみません」 「謝るな」 「でも」 「……嫌じゃない」  そんなことを真顔で言うから、わたしはまた何も言えなくなる。  放課後には、寄宿舎までの短い道のりを一緒に帰った。校舎裏の小道を歩き、湖の見える坂で少し立ち止まると、ヴァンはわたしの手を見て、それから顔を逸らした。 「手」 「うん?」 「繋いでいいか」  わたしは慌てて頷いた。 「う、うん……」  ヴァンの手は、少し硬かった。剣を握る手。わたしを助けてくれた手。その手が、今はそっとわたしの手を包んでいる。  それだけで、世界が少し違って見えた。 「恋人、ですもんね」  小さく言うと、ヴァンがこちらを見た。 「恋人? そうか、恋人か」  今まで意識してない辺りが、とってもヴァンらしい。 「違うの?」 「違わない。恋人同士だ」  迷いのない返事だった。その真っ直ぐさが嬉しくて、恥ずかしくて、胸がいっぱいになる。 「ヴァン」 「何だ」 「もう一回、言ってもいいですか」 「何を」 「好きです」  ヴァンは、一瞬だけ黙った。それから、わたしの手を少しだけ強く握る。 「おれも好きだ」  それだけで、一日分の幸せが増えた。    *  湖の上で星を見る約束の日は、その何日か後だった。  夕食のあと、寄宿舎の一階カフェで窓の外を眺めていると、冬の空は澄んでいて、星がいつもより近く見えた。 「綺麗ですね」 「うん」  ヴァンも窓の外を見ていた。 「湖の上だと、もっと綺麗だ」 「湖の上?」 「ああ。水に星が映る。上にも下にも星があるみたいになる」 「見たいです」  思わず言ってしまった。けれど、すぐに現実を思い出す。 「でも、夜に出歩くのは……」 「駄目だな」 「うん」  学院の規則もある。アルフォンス先生やつばめ先生に心配をかけるわけにもいかない。そう思っていたのに、ヴァンは少し考えてから言った。 「任せて」 「え?」 「少しだけなら、何とかなる」 「何とかって、何をするんですか」 「静かに出る」 「それは無断外出では」 「うん」 「うん、じゃありません」  わたしは止めなければいけなかった。止めなければいけないと、ちゃんと分かっていた。  でも、星の映る湖をヴァンと二人で見たい。その気持ちが、規則より少しだけ強かった。  わたしは、夜の約束が楽しみでワクワクしていた。    *  夜。  わたし達は、こっそり寄宿舎を抜け出した。  つばめ先生に見つかったら、きっと怒られる。アルフォンス先生に見つかったら、たぶん微笑みながら全部見透かされる。だから、できるだけ音を立てずに廊下を歩き、外へ出た。  冬の冷たい夜気が頬を刺す。けれど、ヴァンが手を握ってくれていると、不思議と寒さは怖くなかった。 「大丈夫か」 「うん」 「足元」 「大丈夫」  ヴァンが何度も振り返って、わたしを気にかけてくれる。その度に、わたしの胸から頬までぽかぽかと温かくなる。  桟橋に着くと、湖は驚くほど静かだった。ヴァンが手早くボートを出し、わたしはまたヴァンの手を取って乗り込む。小舟が少し揺れたけれど、この前よりも少しだけスムーズに乗り込めた気がした。  ヴァンが櫂を入れる。水音が、夜に溶けていった。  岸から離れるにつれて、学院の灯りが遠くなる。そして、空が広がった。 「……すごい」  思わず声が漏れた。  空一面の星。その下に、同じ星を映した湖。本当に、上にも下にも星があった。  私の知っている夜空ではないけれど、似たような星の並びがあるのも面白い。黄道十二星座なんか、ほとんど同じだ。  西の空には、牡牛座が傾いている。 南の空には獅子座、南東からは乙女座が顔を出している。でも、それらに纏わる物語、神々の話は私も知らない。  未知なのに既知。既知なのに未知。なんだか不思議だ。  ボートだけが、その不思議な星空を映した広い|水面《みなも》の真ん中に浮かんでいる。 「星が綺麗ですね」 「うん」 「綺麗な夜……。|空《上》も|湖面《した》も、キラキラしてる」 「うん」 「ヴァンは、こんな素敵な景色、どうやって見つけたんですか?」 「兄貴が教えてくれた」 「ヴァルク先生に?」 「ああ。夜に抜け出して、怒られたらしい」 「怒られたんですか」 「うん」  わたしは小さく笑った。ヴァンも少しだけ笑う。  水面の星が揺れている。その揺れの中で、ヴァンの横顔が見えた。  整った顔、鍛えられて逞しい身体、頼もしくて温かい手、湖面と同じ青い瞳に星明かりの粒が見える。少しの間、見惚れてしまった。  近い。  でも、もっと近づきたいと思った。 「ヴァン」 「何だ」 「隣に行っても、いいですか?」 「だめ、危ない。おれが行く」  そう言って、ヴァンが隣に座る。わたしは少し横にズレて座る。 「ミコト。手、繋いで」 「うん」  沈黙が落ちた。けれど、嫌な沈黙ではなかった。胸がうるさくて、言葉が出ないだけの沈黙だった。 「ミコト」 「はい」 「恋人なんだよな」  ヴァンが、星ではなくわたしを見ていた。 「うん。わたし達は、恋人です」 「ミコト、恋人の次はどうする?」  次。 「結婚か?」  え? 「その後は、子供か?」  ええ……⁉  ちょ、ちょちょちょ……早い早い! つばめ先生の予想通りだった。  わたしは、一度深呼吸したあと、コホンと咳払いをし、ヴァンに向き直る。火照った顔ではなく、できるだけ真面目な顔で。 「ヴァン。物事には順序と、相応しい時があります」 「順序と、相応しい時」 「そうです」 「分かった。それじゃ、ちゃんとしよう」 「なにを?」 「事故じゃなく」 「⁉ そ、それって……」  キスのことですか⁉ ……とは口に出せないまま、わたしは動揺で固まってしまった。頭でそう思い当たった瞬間、胸の奥が熱くなる。顔が熱い。  ヴァンの目が、少し揺れた。おそらく、口にしなくても、わたしが思い当たったことは伝わっているみたいだった。 「そう」  ヴァンはそこで止まった。珍しく迷っている。 「……いいか?」  何を、と聞くまでもない。  顔が熱くなる。人命救助でも、事故でもない。これが初めてだ。  わたしの、初めてになる。 「はい」  声が、生まれたての子猫みたいに小さく震えた。  ヴァンが少しだけ近づく。わたしも、目を閉じた。  吐息が掛かる。ヴァンも緊張しているのか、その吐息は微かに震えていた。どくんどくんと高鳴る心臓の音が、互いに聞こえてしまいそう。  唇に、温かいものが触れた。  ほんの短いキスだった。驚くほど静かで、驚くほど優しい。ふわりと触れて、そっと離れる。それだけなのに、胸の奥がいっぱいになった。  これが、恋人同士のくちづけ。  わたしとヴァンの、はじめて。  目を開けると、ヴァンがすぐ近くにいた。  星の光が、ヴァンの瞳に映っている。わたしも、きっと同じ顔をしている。  唇が離れたあとも、すぐには言葉が出なかった。ヴァンがわたしを見ていて、わたしもヴァンを見ている。  湖の上には、星の光が落ちていた。  わたし達は、本当に恋人になったのだと思った。この世界で、この湖の上で、会いたい人、帰る場所、帰るべき約束ができた。  しあわせだ、と思った。こんな時間がずっと続けば…… 。  その時だった。  夜の向こうで、光が弾けた。  ────え?   続いて、大きな爆音が轟いた。  見れば、学院に火の手が上がっていた。  広がる黒煙に、星々は隠れた。

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