ふみの世界樹 / 第66話

第五十四話 本番までに

「頼みがある」  マギさんは、まっすぐヴァンさんを見ていた。  その言葉に、教室の空気が少しだけ止まった。  けれど、ヴァンさんはほとんど迷わなかった。 「分かった。いいぞ」 「え?」  思わず声を出したのは、わたしだった。  マギさんも、少しだけ目を瞬かせたように見えた。 「まだ、何も聞いていません」 「断る理由がない」  ヴァンさんは、いつもの調子で言った。 「なんで?」  そう聞いたのは、マリアンナさんだった。  手帳を持ったまま、ものすごく興味深そうにヴァンさんを見ている。さっきまで後宮入りだの、玉の輿だのと言っていた人とは思えないくらい、目が真剣だった。真剣というより、記事の匂いを嗅ぎつけた顔だった。  ヴァンさんは、少しだけマリアンナさんを見てから、すぐにマギさんへ視線を戻した。 「おまえなら、無理な頼みはしない。おれに頼むってことは、おれにしかできない。違う?」  マギさんは、少しだけ黙った。  それから、静かに答えた。 「違いません」 「なら、話せ」 「分かりました」  マギさんは、ほんの少しだけ姿勢を正した。 「実は、練習に付き合ってほしいのです」 「剣の?」 「剣のです」  マギさんは頷いた。 「最初は、ヴァルク先生に頼みました。けれど、断られました」  ヴァンさんの眉が、わずかに動いた。 「理由は分かりません。ただ、代わりに、貴方を推薦して頂きました」  マギさんの視線は、まっすぐヴァンさんに向いていた。  ヴァンさんは、少しだけ顔をしかめる。 「兄貴め、どういうつもりだ……」  小さな声だった。 「たぶん、ヴァルク先生は断るしかなかったんじゃない?」  そう言ったのは、マリアンナさんだった。  さっきまで楽しそうにしていた顔が、少しだけ真面目なものに変わっている。 「断るしかなかった?」  わたしが聞くと、マリアンナさんは頷いた。 「皇家の剣術には、正式な指南役がいるはずよ。皇子殿下や皇女殿下に、誰が剣を教えていいかは、ちゃんと決まっているの。学院の先生だからって、勝手に教えていいものじゃないわ」 「そうなんですか?」 「少なくとも、そういうしきたりがある。だから、マナ様とマギ様は剣術の授業も免除されているでしょ?」  言われてみれば、そうだった。  剣術の授業で、マナさんとマギさんの姿を見たことはない。あの二人が剣を持っているところも、わたしは見たことがなかった。 「ヴァルク先生は騎士だから、そのあたりをちゃんと分かっていたんだと思う。だから、指南役として教えることはできない。でも、舞台のために剣を合わせる練習相手なら、話は別」  マリアンナさんは、そこでヴァンさんを見た。 「それで、ヴァン君を推薦したんじゃない?」  マギさんは、少しだけ目を伏せた。 「なるほど。そうだったのか……」  静かな声だった。 「そう言われると納得だ。僕もまだまだ未熟だな」  マギさんは、自分を責めるようにではなく、確かめるようにそう言った。  ヴァンさんは、少しだけ黙った。 「兄貴らしい」  短く、そう言った。 「それで、ヴァン君はどうするの?」  マリアンナさんが聞いた。  ヴァンさんは、マギさんを見た。 「やると言った」 「本当にいいのですか?」 「二度言わせるな」  マギさんは、ほんの少しだけ頭を下げた。 「ありがとうございます」 「場所は?」 「裏庭を借りる予定です」 「時間は?」 「放課後、夕食の前に一時間。明日から、本番の二日前まで」 「分かった」  ヴァンさんは、それだけで話を終わらせようとした。  けれど、マリアンナさんが、すぐに手帳を開いた。 「明日から本番二日前まで、裏庭で、ヴァン君とマギ様が剣の練習。これはなかなか面白いわね」 「書くな」  ヴァンさんが低い声で言った。 「書かないわよ。まだ」 「まだ?」 「取材はするけど」 「するな」 「見るだけ見るわ」 「帰れ」 「新聞屋から目を奪うのは、剣士から剣を奪うようなものよ」 「そうか。なら、簡単には奪えないな」  あ。そこで納得するんだ。 「ふふん」  マリアンナさんは、胸を張って笑った。   *  その翌日から、裏庭でヴァンさんとマギさんの稽古が始まった。それぞれの舞台稽古が終わってからすぐに集まった。  稽古といっても、本当に斬り合うわけではない。舞台の上で、剣をどう見せるか。そのための練習だった。  けれど、二人が木剣を構えると、それだけで空気が少し変わった。  ヴァンさんは、あまり大きく動かない。必要な分だけ足を動かし、必要な分だけ剣を上げる。マギさんは、それを見ながら、何度も動きを合わせていた。  剣が重なる音がする。  乾いた音だった。  強く打ち合っているわけではないのに、近くで聞くと胸の奥が少しだけ震えた。 「そこは遅い」 「はい」 「踏み込む前に肩が動いている」 「はい」 「見せたいなら、先に視線を使え」 「はい」  マギさんは、ほとんど反論しなかった。  ヴァンさんの言葉は短い。けれど、マギさんはその短い言葉を逃さないように、一つずつ受け取っていた。何度も同じ場面を繰り返し、踏み込み、止まり、剣を下ろし、また最初の位置へ戻る。  わたしは、雑用……、もとい助監督の仕事をする合間をみて、毎日のようにタオルと飲み物、それから小さな差し入れを持って行った。  最初は、これも仕事の一つだと思って、なんとなく見ていた。けれど、毎日見ていると、少しずつ分かることが増えてきた。  マギさんは、真面目だった。ううん、真面目というより、必死だった。顔にはあまり出ない。声も大きくならない。けれど、木剣を握る指や、何度も同じところへ戻る足の動きに、諦めない気持ちが見えた。  マリアンナさんも、毎日のように見学に来た。 「取材よ、取材」  本人はそう言っていたけれど、手帳を開いていない時間の方が長かった気がする。二人とも根性がスゴいと思った。  わたしたちは、本番までに、どれだけのことを覚えて、直して、決めて、作らなければならないのだろう。そう考えると少しだけ気が遠くなったけれど、不思議と、嫌ではなかった。   *  そして、本番の二日前。  明日は、講堂でのリハーサルがある。だから、裏庭での練習は今日が最後だった。  陽は沈みかけていて、風は冷たかった。裏庭の木々の葉が、かすかに揺れている。わたしはタオルを抱えたまま、邪魔にならない場所に立っていた。  ヴァンさんとマギさんは、何度も同じ場面を繰り返した。  マギさんが踏み込み、ヴァンさんが受ける。木剣が重なる。距離を取る。もう一度、最初から。  その繰り返しだった。  けれど、最初の日とは違う。  マギさんの動きは、少しずつ舞台の動きになっていた。ただ剣を振るのではなく、見る人に分かるように動く。追い詰められているように見せる。けれど、弱くは見せない。剣を受ける時も、退く時も、顔の向きや足の置き方まで、何度も確認していた。  最後の一度が終わった後、マギさんはしばらく木剣を下ろさなかった。 「ねえ、マギ様」  声をかけたのは、マリアンナさんだった。マギさんが、静かに振り向く。 「どうして、そこまで一生懸命やるの?」  マリアンナさんの声は、いつもの軽い調子より少しだけ真面目だった。 「劇でしょ。もちろん、皇帝陛下がいらっしゃるから大事なのは分かるけど……それだけじゃない気がするのよね」  マギさんは、少しだけ黙った。風が、裏庭の草を揺らしている。 「使命だから」  やがて、マギさんは言った。 「陛下が御観覧されるということは、僕を品定めに来るということ。ここで下手は見せられない」  その言葉は、静かだった。  けれど、冗談ではないのだと分かった。 「僕には、夢があるから」 「夢?」  マリアンナさんが、少し目を細める。 「どんな夢?」  マギさんは、すぐには答えなかった。  木剣を握る指に、ほんの少しだけ力が入ったように見えた。 「それは、まだ言えない」 「恥ずかしいから?」 「違う」  マギさんは、首を横に振った。 「恥ずかしいからではない。まだ、その時じゃないからだ」 「ふうん。夢かあ」  マリアンナさんは、手帳の端で自分の頬を軽く叩いた。 「いいわよね、夢。ちなみに、わたしの夢は、いつか新聞記者になること!」  少し胸を張って、マリアンナさんはそう言った。その言葉に、ヴァンさんが少しだけ目を細めた。 「おれは、夢なんてものは、早く捨てろと教わった」 「え?」  思わず声が出た。マリアンナさんも、ぎょっとした顔をする。 「それって、ひどくない?」 「兄貴の言葉だ」 「ヴァルク先生の?」 「続きがある」  ヴァンさんは、木剣を下ろしたまま言った。 「ちゃんと期日を与えて、夢を目標に変えろ」  その場が、少しだけ静かになった。 「……あ」  マリアンナさんが、小さく声を漏らした。  夢。  目標。  似ているようで、少し違う言葉だった。 「マリアンナ」 「先輩って呼びなさい」 「マリ先輩」 「略すな」 「マリアンナ先輩」 「よろしい。呼び方って、とても大事なのよ」  マリアンナさんは、満足そうに頷いた。ヴァンさんは、何事もなかったみたいに続ける。 「新聞記者になるのが夢って言うけど、いつなるの?」  マリアンナさんは、少しだけ言葉に詰まった。 「それは……確かに、漠然としてたわね」  手帳を持つ指が、少しだけ止まる。 「学院を卒業してから、どこかの新聞社にスカウトされるとか、就職するとか……そういう感じで考えてたけど」 「ちゃんと決めた方がいい」  ヴァンさんは、短く言った。 「夢は、いつまでも夢のまま、ってことがある」  それは、冷たい言葉のようにも聞こえた。けれど、突き放しているわけではない気がした。 「でも、目標なら違う」  マリアンナさんは、何も言わなかった。マギさんも、黙ってヴァンさんを見ていた。わたしは、少し迷ってから聞いた。 「ヴァンさんの目標は?」  ヴァンさんは、すぐには答えなかった。  ただ、こちらを見た。 「ヴァン」 「え?」 「ヴァンでいい。さんはいらない」  急にそんなことを言われて、わたしは瞬きをした。 「でも……」 「呼び方って、とても大事らしいから」  ヴァンさんは、少しだけ視線を逸らして、そう言った。  さっきのマリアンナさんの言葉だ。  顔が、少し熱くなる。 「……ヴァン」 「ああ」  ヴァンは、短く頷いた。  わたしは、もう一度聞いた。 「ヴァンの目標は?」  ヴァンは、少しだけ空を見た。  そして、いつものように、短く答えようとした。 「おれの目標は──」

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