ふみの世界樹 / 第72話

第六十話 誓いの冠

 バルトロメウス・バートムは、備えている。  常日頃から、皇帝陛下の側近として、あらゆる魔法的害悪から皇帝陛下の御身を守るため、幾重もの警戒を敷いている。  |魔法感知《マギーオーブル》に|不可視視認《ウンジヒトオーブル》、|思考感知《ゲダンクオーブル》の術式魔法は、無論、常時発動している。それに加えて|転移出現警戒《ペレホートアラルム》と、|時間停止感知《クロノオーブル》まで発動している。  だから死角など存在しないはずだった。 「私は、王を討ちに来たのではありません。王が戴いた冠の意味を、思い出していただきに来ました」  舞台に立つマギ・レ・ズリッド=キルシュ王弟殿下の台詞からは、何の敵意も害意も感知できなかった。  |魔化武器《マギー・ヴァッフェ》の術式魔法を、剣を振り回す最中に、無詠唱で展開できるとは、かなりの実力と認めざるを得ない。    その時、一つの声が聞こえてきた。 『大きく』 『強く』 『束ねよ』  バートムの頭皮に刻まれた|魔印刺青《マギータトゥード》が、僅かに明滅した。学生の集った講堂のように、これだけ思考する者が多い場所では、|思考感知《ゲダンクオーブル》はノイズの海になってしまう。  だが、それは強く。  とても荒々しく聞こえた。  舞台袖の女生徒が、|魔法感知《マギーオーブル》の網に掛かった。紅蓮。これは力術だ。そして術者の輪郭が濃い赤で縁取られている。炎の副系統を持つ呪文だ。こんな屋内で、火気だと?  バートムが少し疑問を挟んだ時には、術式魔法は既に発動まで組み上がっていた。マナ・ラ・ピアス=フォン・キルシュ皇妹殿下であると気付いたのも、その時だった。  無詠唱だと? だが、あの指の形は、|火炎光線《フラムシュトラール》だ。  ここでバートムは一拍だけ遅れた。思考や魔法にだけ注目して、舞台上で繰り広げられる物語をまともに見てはいなかったからだ。  光線は、マナ殿下の指先から発射されるものと思い込んでしまった。だが、実際は指先よりも、ずっと先に魔法の発動起点が置かれていた。  舞台上に立つ黒冠の近衛役。  見せかけの術者は、驚いているように見える。多分だが、本来ならば|魔力弾《マギー・ミサイル》と、|魔力盾《マギー・シルト》のような比較的に安全な呪文だったはずだ。  その指先から魔法が放たれた。遅れて気付いたバートムは、光線を目で追うのが精一杯だった。だが、射線はマギ殿下へ向いている。強い意思で練られた魔法だが、殺意はない。少なくとも、皇帝陛下を狙った攻撃ではない。  直後、その判断は水泡に帰した。  マギ殿下が、いつの間にか防護魔法を展開している。  |術式反射《マギーシュピーゲル》だと? 有り得ない。こんな少年が簡単に使える呪文ではない。  よく見れば、やはり指輪だ。それも恐らく限定的な|術式反射《マギーシュピーゲル》を宿した魔法の指輪だ。  術式紋を見れば分かる。|火炎光線《フラムシュトラール》だけを反射、偏向する|限定版呪文《リミテッド・スペル》で間違いない。  待て。偏向?  あの角度、皇帝陛下に向かう。  遅い。手遅れだ。  既に向かっている。  まさか、有り得ない。このバートムが、情報戦で出し抜かれるなど、許されない。  ただただ、強い魔法を練り。  ただただ、魔法の方向を逸らす。  それには強い精神力と、余計な事を思考から排除するだけの、極めて強い集中力が要求される。殺意のような別の強い意思を乗せる暇などない。  だから見逃した。  殺意は、すでに舞台に組み込まれていた。  この脚本、演出、それ自体が暗殺装置だ。 『なんですかあれは⁉ 粗相をしないこと! あたくしは、そう言ったざま……ブチッ』  ノイズに耳を傾けている暇はない。  だが、皇帝陛下に迫る光線を防ぐ暇もない。  エドワード小隊長が飛び出そうとしている。盾になる気か? しかし、申し訳ないが間に合わない。それに、皇帝陛下には加護が既に施されている。あの程度の魔法では殺されない。  無駄足だ。  いずれにせよ、我共々、責任を取らされるだろう。  御愁傷様だ。 「私は王に伝えたいことがある!」  マギ殿下の次の台詞。  それと同時に、|火炎光線《フラムシュトラール》が立ち消えた。  何だと? |解呪術《ディスペル・マギー》か?  否。  有り得ぬ。  マナ殿下が、自分で放った光線に、追い付く速度で解呪など不可能だ。マギ殿下も同様だ。指輪を使った後で、即座に解呪を割り込ませる事なんて無理だ。  では、第三者か?  いや、その可能性も薄い。  光線が放たれてから|解呪術《ディスペル・マギー》を間に合わせるには、事前に詠唱を終わらせ、予め備えておく必要がある。  それならば、その解呪の魔力は、準備段階で我が探知の網に引っ掛かっている。見逃しはない。  だが確かに、|火炎光線《フラムシュトラール》は、皇帝陛下に届く直前で、糸を断たれたように消えていた。  皇帝陛下は、微動だにしなかった。  エドワード小隊長が、一歩だけ前に踏み出た形になっていた。  |黒の牙《ブラック・ファング》の隊員達も、半歩踏み出した姿勢で固まっていた。 「下がれ」  皇帝陛下の一言で、エドワード小隊長は我に返ったようだった。一礼の後、即座に元の立ち位置へと戻る。 「伝える? 何を伝えるというのです、王弟殿下」  黒冠の近衛は、両手を広げたまま後ずさる。  舞台中央の冠が、白く光る。  これには幻術系の術式魔法が使われていたが、今、そこへ注意を割く必要はない。バートムの関心は舞台の物語へと向けられた。  マギ殿下は、剣を下ろさなかった。視線は、王役ではなく観客席へ、皇帝陛下へと向けられていた。そして、今更になってバートムは、状況がもたらす本当の意味に気付いた。 「声です」  バートムの位置からでは、皇帝陛下の表情は見えない。魔法で、その表層意識を読み取る事もできない。読もうとすれば不敬罪である。 「声だと?」 「はい、兄上」  これは双子からの挑戦状だ。  子供の学芸会を隠れ蓑にした、皇帝陛下に対する直訴。あるいは正面切っての忠告。  政治も何も分からぬ低学年の生徒は別として、今では誰もが皇帝陛下と、あの王役の立場を重ねてしまっている。  バートムは、途中で呪文が立ち消えた謎よりも、今はそちらを考える必要があった。皇帝陛下が、どう受け取るか。感想の言葉一つで、人死にが出る。  マギ殿下は、民衆役の方へ視線を向けた。 「まだ、聞こえるはずです」  冠の光が、舞台の床を走った。  膝をついていた民衆役の一人が、ゆっくりと顔を上げた。 「あ……」  小さな声だった。 「寒い」 「腹が空いた」 「父を返して」 「門を開けて」 「ここに、います」  民衆達の声が、戻っていく。 「黙れ!」  黒冠の近衛役が叫んだ。 「黙れ、黙れ、黙れ!」  だが、民衆役はもう口を閉ざさない。マギ殿下の扮する王弟を旗印として、人々の声はどんどんと大きくなる。マギ殿下は、民衆役の前に立った。 「兄上。これが、兄上の国です」  その台詞は、「皇帝陛下、これが兄上様の国です」と言っているようにしか聞こえなかった。王役は、玉座の肘掛けを握る。  皇帝陛下は、身じろぎ一つしなかった。 「余の国だ。余が守った国だ」 「はい。兄上が守った国です」  マギ殿下は頷いた。 「だからこそ、兄上には聞く義務があります」 「何をだ」 「寒いという声を。腹が空いたという声を。父を返してほしいという声を。門を開けてほしいという声を。人々の嘆きと、悲しみを」  黒冠の近衛が、低く笑った。 「愚かな! 民の声をすべて聞いていては、王は王でいられませぬぞ」  同意する。  バートムは知っている。常に人々の表層意識を読む。だから分かる。  民の声は無責任だ。  民の声は身勝手だ。  民の声は愚かな|戯言《たわごと》だ。 「ならば」  マギ殿下が、観客席に向かって立つ。両手を広げて言った。 「人々の声を聞かぬ王は、何でいられるのですか。真の王ですか。それとも、王の名を借りた独裁者ですか」  講堂が静まり返った。教師達も、エドワード小隊長も、その部下達も、聡い生徒達の何人かも、同じことを感じていた。  この脚本も、台詞も、演出も、危険だ。  とてつもなく危険だ、と。  黒冠の近衛は、王へ近づく。 「陛下。声は迷いを生みます。迷いは弱さです。弱さは国を滅ぼします」  王役は答えない。  皇帝陛下も答えない。  バートムは思う。あの近衛は、自分と考え方が近い。  皇帝陛下が迷わないように、尽力する。それは、この国が迷走しない為だ。   危険だ。この双子は危険だ。  魔法の実力も勿論だが、こんな事を考え付く知能と、実行する度胸。これは将来、本当に国を二分する仇敵になり得る。皇帝陛下なら、摘み取ってしまえと命令するかも知れない。  実際、幾つもの反逆の芽を、我々は刈り取ってきた。 「ご命令を。この王弟を、反逆者として捕らえよ、と」  だが、そこは同意しなかった。  バートムは思う。自分はもう歳を重ね過ぎた。そろそろ次世代に、国の舵取りを委ねる時も、そう遠く無いのかもしれない。  マギ殿下は動かない。皇帝陛下を真正面から見下ろしている。  これは暴挙だ。舞台と観客席。その構造上、致し方のない事とはいえ、人目も憚らず堂々と皇帝陛下を見下ろすなんて、皇族の子供でも許されるか否か、確信が持てない。  王役が立ち上がった。玉座の横に置かれていた剣を取る。  階段を下りる。  一段。  もう一段。 「それでよいのです、陛下」  黒冠の近衛が両手を広げた。  王役の剣が振り下ろされる。  斬られたのは、王弟ではなかった。黒冠の近衛だった。  黒い仮面が、床に落ちる。外套も崩れ落ちる。仮面の下には、顔も何もなかった。黒い布だけが、舞台の光を吸っていた。  バートムには、|上級不可視化《グローサー・ウンジヒト》の術式魔法で、透明になって姿を消した黒冠の近衛役の様子が、はっきりと見えていた。  透明になっていた子供が、透明化の対象外にしていた外装と仮面を脱ぎ捨てる事で、実体の無い存在を表現しているのだ。  バートムは少し笑った。あの魔法には、こんな使い方もあったのか。まさか子供達から教わるとは。  先刻の、呪文が立ち消えた謎も、恐らく何かしらの工夫を凝らしたのだろう。バートムは、後で必ず調査するとして、今それ以上の追及は止める事にした。  王役は、剣を落とした。  その音が、講堂に響く。  やがて王役は、頭上の冠へ手を伸ばした。冠を外す。 「余は、王たる資格を失った」  王役の声は低かった。 「民の声を奪った。臣を疑った。弱き者を荷と呼び、病める者を切り捨て、諫める者を敵と呼んで遠ざけた」  王役は、その冠を王弟へと差し出した。 「この冠は、余より清き者が戴くべきだ」  マギ殿下は、受け取らなかった。そして短く告げた。 「断る」  王役の手が止まる。 「民の声を奪ったのは、兄上です。臣を斬ったのも、兄上です。誓いを破ったのも、兄上です」  マギ殿下は、冠に手を添えた。受け取るためではない。 「ならば、その罪を償うのも、兄上でなければなりません」  押し返すために。 『皇帝陛下、僕たちは玉座に興味なんてない。王冠なんて欲しくない』  バートムは、マギ殿下の表層思考を読んだ。  玉座を奪う意思はない。  反骨心が見えるが、少なくとも、皇位への野心は見えない。  子供達はただ、見て欲しかった。  弟、妹として、聞いて欲しかった。  心の深い所までは読めないが。  たったそれだけ。  たったそれだけの話なのかもしれない。 「余に、まだ王であれと言うのか」 「王であればよい、とは申しません」  マギ殿下は首を横に振る。 「王であるなら、償ってください」  沈黙。  王役は、冠を見下ろしていた。 「その冠は、逃げるために外すものではありません」  マギ殿下が言った。 「背負うために戴くものです」  王役の手が、冠を持ち上げた。 「重いな」 「軽い冠なら、民を守れません」  王役は、舞台の中央、スポットライトを浴びて、玉座の前に立つ。  空を見上げながら、再び冠を両手で持ち上げた。  民衆役は膝をつかない。  ただ、王を見ていた。 「我は、この冠に誓う」  開幕直後のシーンと、全く同じ台詞。  けれど、言葉の重みは違っていた。 「奪った声を聞き直す。斬った臣の家に頭を垂れる。見捨てた者の名を忘れぬ。壊したものを、我が手で直す」  マギ殿下が、王の隣に立つ。 「この冠は、王を飾るものではない」  民衆役が、一人ずつ声を重ねた。 「王を縛るもの」 「民の前に」 「誓いの前に」  マギ殿下が言った。 「逃げぬための冠」  王役が深く頭を下げる。  冠を、再び自らの頭に戴いた。  民衆役は、王を見たまま声を揃えた。 「誓いの冠」  光が冠へ集まる。 「我等が王よ」 「我等が祖国よ」  暗転。  幕が下りた。  拍手は、すぐには起きなかった。  息を吐く事もできなかった。  皇帝陛下が如何なる言葉を|下賜《かし》されるか。皆の注目が集まる。沈黙が続く。静寂の時が、肌に刺さるかのように痛い。  皇帝陛下が、頬杖を解いた。 「面白い余興であった」  その瞬間、世界の時間が再び動き出した。  一つ。  客席のどこかで、手が鳴った。  また一つ。  拍手が広がっていく。  その拍手を受けて、再び幕が上がる。月級三年の生徒達が舞台前に並ぶ。  王弟役のマギ殿下。  王役。  黒冠の近衛役。  民衆役。  最後に監督のマナ殿下。  監督の合図で、皆が、同時に頭を下げた。  拍手喝采となった。  皇帝陛下が立ち上がる。見るべきものは確認した。御退席である。 「皇國の為に、今後も励め」  マギ殿下とマナ殿下が、顔を上げた。  皇帝陛下は既に踵を返していた。エドワード小隊長が動く。|黒の牙《ブラック・ファング》が退路を開く。バートムも、皇帝陛下の斜め後ろについた。  講堂の拍手は、まだ続いている。演劇への拍手が、そのまま皇帝陛下へのお見送りの拍手へと変わっていた。  皇帝陛下は振り返らない。そのまま出口へ向かう。  その時だった。  バートムの頭皮に刻まれた|魔印刺青《マギータトゥード》が、かすかに熱を持った。  殺意ではない。  だが、敵意があった。それも、かなり強い敵意だ。  バートムは、足を止めずに視線だけを動かす。  見つけた。  陽級一年の列。黒髪の少年がいた。  一人だけ拍手をしていない。  隣には、黒縁眼鏡の少女が立っている。  その少年は、ただ皇帝陛下を見ていた。  はっきりとした敵意。  この鮮明さ。  この強い意思。  何者だ。

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