ふみの世界樹 / 第76話

第六十四話 くちづけ

 これは事故だ。  触れた。  そう分かった瞬間、頭の中が真っ白になった。  触れてはいけないはずだった。寸前で止めるはずだった。照明を落とし、わたしの背中で隠して、影だけを重ねて、客席にはそう見えるようにする。それだけの場面だった。  なのに、触れた。  触れている。  触れてしまっている。  完全に触れ合ってしまっている。  唇に。  ヴァンの唇に。  わたしは、そのまま動けなくなった。離れてはいけない。ここは舞台の上で、まだ幕は下りていなくて、白百合姫は黒騎士に嘆きの口付けをしたあと、幕が下りる。そういう流れだった。だから、幕が下りるまで、この姿勢を維持しなければならない。  わたしの膝の上で、死にかけているはずの黒騎士。ヴァンが、目を開けた。  暗い照明の中でも、目が合ったのが分かった。ヴァンの目が、見開かれている。わたしも、たぶん同じ顔をしていたと思う。お互いに何かを言えるはずもなく、けれど、言葉にしなくても分かるくらい、同じことを考えていた。  ヴァンは動けない。  ここで起き上がったら、台無しになる。わたしも動けない。白百合姫がここで飛び退いたら、最後の場面が全部おかしくなる。  だから、わたし達は、動けなかった。  動けないまま、ぷるぷるしていた。  わたしの肩も、ヴァンの睫毛も、近すぎる距離で、ほんの少しずつ震えていた。幸い、照明はもうかなり落ちていて、客席からは細かいところまでは見えていないはずだった。見えていない。見えていないと思いたい。お願いだから、見えていませんように。  やがて、ゆっくり幕が下りた。  下りて。  下りて。  下りきった。  その瞬間、わたしは離れて息を吸った。  吸ったつもりで、喉の奥で変な音がした。  ヴァンも、動かない。黒騎士として倒れたまま、目だけでこちらを見ている。わたしは、どうすればいいのか分からず、膝に乗せたヴァンの頭をそっと支えたまま固まっていた。 「終幕! 全員、整列よぅ!」  オーレリアの声がした。  いつもの監督の声だった。  その声を聞いても、現実に戻ってくるのが遅れた。わたしは、まだ動けなかった。 「ミコト」  ヴァンが、小さく言った。 「……はい」 「その、頭」 「あっ」  わたしは慌てて、膝の上からヴァンの頭をいきなり放した。鈍い音がした。 「いて」 「ご、ごめんなさい」 「大丈夫」  ヴァンはそう言った。  どうにかヴァンが起き上がる。わたしも立ち上がる。整列する。再び幕が上がって、みんなでお辞儀をしたんだと思う。それから、たぶん、舞台袖に戻って。次の演目が始まって。そうこうしている内に、気が付いたら、学芸会が終わっていた。  その間、わたしは放心したような状態だったと思う。 「乾杯なのよぅ!」 「乾杯っ!」 「乾杯」 「かんぱーい!」  はっ⁉  我に返った時、すでに教室でお疲れ様会が始まっていた。色とりどりのジュースに、お菓子の盛られた皿が、ずらっと並んでいる。 「それにしても、二人とも、最後、とても良かったわよぅ!」  オーレリアが話題を振ってきた。みんなの視線が、わたしとヴァンに集まる。わたしは、心臓が止まるかと思った。 「えぇ、とても良かったのよぅ。特に最後の間。あそこ、練習よりずっと良かった。息を止めるような感じが出ていたのよぅ」  その感想が、刺さる。 「そ、そうですか」 「そうだな。影も綺麗に重なっていたし、客席も完全に静まっていた。あの沈黙は良い沈黙だった」  良い沈黙。  ハリスさんの評価に、わたしは、何も言えなかった。  影が綺麗に重なっていた。  つまり、客席からはそう見えていたのだと思う。実際に触れたかどうかまでは、たぶん分かっていない。分かっていないはず。分かっていないと思いたい。 「ミコト」  ハリエットが、少し目を潤ませながら来た。 「すごく良かった。最後、ほんとうに、白百合姫だった」 「……ありがとう」  胸が痛くなった。  ハリエットの言葉は嬉しい。嬉しいのに、今は素直に受け取れない。だって、最後のあれは、演技として良かったのかもしれないけれど、わたしの中ではそれどころではなかった。  くちづけ。  その言葉が、頭の中でブンブンと飛び跳ねた。 ぴしゃり。  そのブンブン迷い蜂を、叩き潰すように、イネヴェアさんの扇が閉じられた。傍らには松葉杖が立て掛けてあった。 「よくできました」 「はい」  わたしは、思わず背筋を伸ばした。 「すみません。あの、わたし、本当に上手くできたかどうか……」 「上手いかどうかで言えば、舞踏はかなり危なかったわ」 「……はい」  やっぱり。  わたしは肩を落とした。けれど、イネヴェアさんは続けた。 「でも、やりきった。それで十分でしてよ。もう一度だけ言わせてちょうだい」  顔をあげると、イネヴェアさんの笑み。 「よくできました」  その言葉と笑みが、胸の奥に落ちた。ちょっと泣きそうになった。 「それにしても、ドレスを破るところ、あなた、本当に破れないのかと思ったわ」 「す、すみません」 「謝るところではないわ。あそこは、逆に良かった。白百合姫が必死だったもの」 「そうなのよぅ。最高のアドリブなのよぅ」 「イネヴェアとは違うけど、あれはあれで良かったよな」  オーレリアと、ローティさんが褒めてくれた。 「それから」  そう言ってから、イネヴェアさんはヴァンの方を見た。 「黒騎士も、ちゃんと黒騎士だったわ。悔しいけれど、わたくしが出ていても、あの最後は同じようにはならなかったかもしれない」  ヴァンは、少し困った顔をした。 「そうか」 「褒めているのよ」 「ああ」  ヴァンは短く答えた。  いつものヴァンなら、それだけで終わるはずだった。でも、今日は違った。イネヴェアさんの言葉を聞いたあと、ヴァンの視線が一瞬だけこちらへ来た。わたしも、その時ちょうどヴァンを見てしまっていて、目が合った。  また、すぐ逸らした。  イネヴェアさんが、少し目を細めた。 「……何かあったの?」 「な、何もありません」  声が裏返った。  ヴァンも黙った。  イネヴェアさんは、わたしとヴァンを交互に見て、それから小さく息を吐いた。 「そう。何もないなら、いいけれど」  たぶん、よくなかった。  触れた。  唇に。  ヴァンの。  だめ。  今は考えてはいけない。  そう思えば思うほど、考えてしまう。  わたしは皿に置かれたクッキーを取ろうとした。そこへヴァンも、同じクッキーに手を伸ばした。 「あ」 「あ」  指が触れそうになっただけで、二人とも手を引いた。  近くにいたローティさんが、不思議そうな顔をした。 「何してんだ?」 「な、何でもありません」 「何でもない」  わたしとヴァンの声が重なった。  ローティさんは、しばらくわたし達を見ていた。 「ふうん」  その声が、妙に怪しかった。  ハリスさんも、少し離れたところからこちらを見ていた。腕を組んで、何かを考えている顔だった。ハリスさんは、こういう時に余計なことを言わない。言わないけれど、言わないからこそ怖い。ハリスさんには気付かれているかもしれない。  それから、ローティさんや、フェルトンさんが、それぞれの活躍について自慢話を始めた。  今回の演劇で注目を浴びた二人、クラスで一番小さなリーゼさんと、一番大きなエルマーさんも、みんなに褒められていた。  オーレリアが、脇役も、裏方の衣装も照明も、みんな一人一人ちゃんと褒めて回っている。やっぱりちゃんと誰よりも観察してるから、えらい。  そんなこんなで、お疲れ様会も終わった。 「ミコト」  教室を出ようとした時、ヴァンに呼ばれた。  心臓が跳ねた。 「はい」 「少し、話がある」  その言い方が、いつもより少し硬かった。  わたしは頷いた。 「こっち」 「はい」  わたしは、ヴァンの後について歩いた。  たぶん、話すべきだと思っていた。あのまま何も言わずに、明日から普通に過ごすなんて無理だ。無理なのに、何を話せばいいのか分からなかった。  ヴァンは、校舎の外へ出て、大きな樹がある場所まで歩いた。夕暮れの秋風が少し冷たい。  しばらく、二人とも黙っていた。  最初に口を開いたのは、わたしだった。 「その……ごめんなさい」  ヴァンがこちらを見る。 「何が」 「今日の、舞台の……その」  言葉が喉の奥でつかえた。  くちづけ。  頭の中には、はっきり浮かんでいる。  でも、口には出せない。  それでも、なんとか決意した。 「あの、わたし、勝手に……ヴァンの、初めての……」  言いながら、顔が熱くなっていく。 「ふぁ、ファースト・キスを、奪ってしまって……ごめんなさい」  言った。  言ってしまった。  言った瞬間、地面に埋まりたくなった。  ヴァンは、しばらく黙っていた。怒っているのかと思った。困っているのかもしれないと思った。けれど、ヴァンの顔は、怒っているというより、迷っているような顔だった。 「でも、あれは事故で、演技の途中で、わざとじゃなくて……だから、数えないのかな、とも思って。でも、触れてしまったのは本当で。だから、やっぱり数えるのかなって。でも、数えたら、勝手に奪ったことになってしまうし、数えないって言ったら、それはそれで、なかったことにするみたいで……」  自分でも、何を言っているのか分からなくなってきた。 「だから、その、えっと……ごめんなさい」  もう一度謝るしかなかった。  ヴァンは、少しだけ目を伏せた。  それから、短く言った。 「初めてじゃない」 「……え?」  わたしは顔を上げた。  ヴァンは、困ったような顔で樹を見上げた。 「実は」  そこで一度、言葉が止まる。  そして、ヴァンは言った。 「二度目なんだ」 「……え」  意味が、すぐには分からなかった。  二度目。  二度目。  二度目? 「えぇ~~~~っ⁉」

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