ふみの世界樹 / 第77話

第六十五話 二度目の真実

「えぇ~~~~⁉」  自分でも驚くくらい、大きな声が出た。  初めてじゃない。  実は、二度目なんだ。  二度目。  二度目。  二度目、とは。 「に、二度目、ですか?」 「ああ」 「二度目って、あの、二回目という意味の、二度目ですか?」 「たぶん、それ以外の意味はない」  そうかもしれない。  そうかもしれないけれど、そういうことではない。  わたしは口を押さえたまま、何度か瞬きをした。舞台の上で触れてしまったことだけで、頭の中はいっぱいいっぱいだった。ヴァンの初めての、ふぁ、ファースト・キスを勝手に奪ってしまったのではないかと思って、それを謝らなければと思って、でも事故だから数えないのかもしれないとも思って、それでも触れたのは事実だから、なかったことにするのも違う気がして。  だから、謝った。  謝ったのに。  初めてじゃない、と言われた。  では、一度目はどこへ行ったのか。  いつ、誰と。 「待ってください。待ってください、ヴァン」  わたしは片手を前に出した。 「では、一度目は、いつですか」  そう聞くと、ヴァンは黙った。 「いえ、誰とですか」  さっきまでとは違う沈黙だった。そして、聞いてから失敗に気付いた。これはプライベートな個人的事情を、まったくもって無遠慮に尋ねてしまっているのでは? 「湖で、ミコトと」  ヴァンが言った。 「へ? 湖? わたし?」 「おまえが、最初に学院へ来た日だ」  その言葉を聞いた瞬間、顔の熱が少し引いた。  湖。  最初に学院へ来た日。  冷たい水。息ができなくて、苦しくて、上も下も分からなくなって、何かを掴もうとして、けれど何も掴めなかった。声を出そうとしても、水ばかり入ってきて、胸が痛くて、怖くて。  そこまでは、少しだけ覚えている。  でも、その先は曖昧だった。  目が覚めた時には、知らない部屋で、知らない人達がいて、わたしはただ眼鏡を探していた。  だから、湖で。  わたしと。  その言葉の意味が、すぐには結びつかなかった。 「……わたしと?」 「ああ」 「湖で?」 「ああ」 「でも、わたし、覚えていません」 「意識がなかったからな」 「意識が、なかった……?」 「ああ。息も止まっていた」  ヴァンは目を閉じた。 「だから、おれが息を戻した」  ヴァンは言った。 「息を……戻した?」 「ああ」 「どうやって?」  聞いてから、嫌な予感がした。  ヴァンは、少しだけ目を逸らした。 「口で」  わたしは、もう一度固まった。  口で。  口で、息を戻した。  それは、つまり。  つまり。 「そ、それは……」 「人工呼吸だ」  別の声がした。  わたしとヴァンは、同時に振り向いた。  建物の裏から、ハリスさんが姿を見せた。  その後ろに、ハリエットもいた。 「ハ、ハリスさん⁉ ハリエット⁉」  わたしの声が裏返った。  ハリエットは、申し訳なさそうに眉を下げた。 「ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなかったの……」 「姉さんは、俺の尾行についてきただけだ」  ハリスさんが言った。 「は?」 「え?」 わたしとヴァンの声が重なった。 「二人の様子が妙だったからな。何かあると思った」 「何かって」 「何かだ。そして来て見れば案の定これだ。ヴァン、説明を代わっていいか?」 「なんで」 「今の言い方では、余計に混乱する」 「そうか。なら頼む」 「え、もしかしてハリスさんも知っていたんですか?」 「そうだ」  ハリスさんは、わたしに向き直った。  いつものような皮肉っぽい顔ではなかった。少しだけ真面目で、少しだけ慎重な顔だった。 「ミコト。湖からヴァンが君を引き上げた時、君は呼吸が止まっていた」 「……はい」 「ヴァンが人工呼吸をした」  人工呼吸。それは、知っている。 「はい」 「それは救命措置だ」  救命措置。それも、分かる。  わたしはヴァンの方を見た。ヴァンは、困ったような、微笑んだような、なんとも分からない顔をしていた。 「俺は、ヴァンに黙っておくよう言われていた」 「待ってハリス、私にも秘密だったの?」 「姉さんにもだ。友達との約束は守らなきゃいけない」  そういえば、あの時、わたしに眼鏡を渡してくれたのはハリスさんだった。ヴァンが最初から教えてくれていたら、と思った。 「なんで、黙ってたのですか?」 「それは、ヴァンに聞いてくれ……」  ヴァンは少し戸惑ったようだった。言葉を探すように、視線をあちこちへやっている。腕を組んで、首をかしげ、んーっと唸っている。 「そんなに悩む理由なのか?」  ハリスさんが追及する。 「そうかもしれない」 「ヴァンらしくないな。はっきりしない」  ハリエットが、はっとした様子で、口を挟む。 「ちょっと待ってあげて、ハリス」  わたしは、ヴァンの様子を見ながら、さっきまでの気持ちとは別のものが胸の奥に湧いて来た。わたしが知らないところで、わたしが何もできなかった時、死にそうだった時に、わたしを助けてくれた。  手。  わたしは、唐突に思い出した。水底でつながれた手。あの力強い感触。必死で、握り返した。あの記憶。 「あの日の朝」  ヴァンが、ぽつりと話し始めた。ちゃんと説明しようとして、言葉が少し硬くなっている気がする。 「おれが、泳ぎの練習を終えて、ボートに乗っていた時」  ヴァンが宙の一点を指差した。樹の枝に届くかどうかの高さ。 「……丁度、あの辺の高さに光が見えた。…と思ったら、次の瞬間、ミコトが落ちてきた。……で、沈んでいった」 「わたし、そんな風になってたんですか……」 「あの時は、君が誰かなんて、分からなかったし、どうでも良かった。…でも、危ないって分かった。だから助けた」 「……わたし、誰かが助けてくれたことだけは記憶にあったんです。誰が、までは分からなかったけど…」  しばらく沈黙が続いた。それをハリエットが破った。 「それで、その後はどうなったの? あの時、私はハリスに呼ばれたよね」 「俺は水音を聞いて、ヴァンが飛び込みの練習でもしているのかと思って、桟橋まで降りて行ったら、ボートが戻って来ていた」 「とりあえず、息は戻ったけれど、冷たくなっていたから」 「それで、俺は桟橋にミコトを移すのを手伝った」 「おれは、勝手に湖で泳いでるって、バレたら困るから」 「そうだったのね。ハリスが助けたにしては、水に濡れてなかったのは、そういうことだったのね」 「ミコトは覚えてないだろうし、言う必要性がなかった」  うん、まったく覚えてない。 「それに、言ったら困ると思った」  確かに。聞いてしまえば、かなり真っ赤になって困っていたと思う。 「それだけじゃないだろ。おまえは恩に着せたくないからだ」 「あの時は、厄介ごとに関わりたくないと思ったから」 「ヴァン君は、素直じゃないところあるよね」 「まったくだよ、姉さん」  わたしも、まったくその通りだと思ってしまった。水に落ちた見ず知らずの子なんて、厄介ごとでしかない。女神様の声が聞こえるなんて話も、レオナのことも。 「ともかく、ミコト。……今まで、黙っててごめん」 「いいえ、こちらがお礼を言うところです」 「そうか」 「そうなんです。ヴァン、助けてくれて、ありがとう」  ヴァンは、ちょっと照れたように笑った。 「今、生きてるならいい」  短い言葉だった。    でも、その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。    湖の時も、舞台の時も、ちゃんとしたキスではない。  それでも、わたしはもう、ヴァンを前と同じようには見られなかった。  わたしが知らなかったところで、わたしをこの世界へ繋ぎ止めてくれた人。  命の恩人。  その人が、今、目の前にいる。  それだけで、胸の奥が少しだけ熱かった。

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