ふみの世界樹 / 第83話

第七十一話 聖輪樹

 どれぐらい泣いていたのか、覚えていない。  気が付くと、ミコトが傍にいた。おれは慌てて顔を背け、袖で涙を拭いた。  ミコトに見られた。  見られていた。  気まずい。でも。 「ありがとう」  待っていてくれたから。 「ううん、わたし何もしていません」 「それでも、ありがとう」  おれは立ち上がって、芝生に刺さっていた木剣の折れ先を引き抜く。断面は、ささくれていた。さっきまでおれが握っていたものなのに、今はもうただの壊れた木片に見える。  届くと思った。今度こそ、ほんの少しでも届くと思った。でも、届かなかった。その証拠品。  木剣の折れた感触が、まだ手の中に残っている。兄貴の剣が、おれの剣を押し潰して、根元から折った。その瞬間、勝負は終わっていた。  分かっている。分かっていたのに、悔しかった。 「痛みますか?」  ミコトが聞いた。 「少し」  本当は左手首と、背中の肩甲骨辺りが、そこそこ痛い。  でも、痛いのは身体だけじゃない。身体の痛みなら、たぶん明日には少し引く。問題は、もっと奥にある。そこをミコトに見られたのが、たまらなく恥ずかしかった。 「保健室に行きます?」 「後で行く」 「後で、じゃなくて、今の方がいいと思います」 「……分かった」  おれがそう答えると、ミコトは少しだけ安心したような顔をした。  外庭には、まだ何人かの生徒が残っていた。こっちを見ている者もいる。  ローティが何か言いたそうにして、ハリスに止められていた。オーレリアは記録帳を抱えたまま、なぜか妙に真剣な顔をしている。  少しだけ周りを見てから、ミコトは小さく息を吐いた。言うなら今だ。   「ミコト」 「はい」 「冬休みのことだけど」  ミコトが、少しだけ背筋を伸ばした。 「おれが行ったら、邪魔になる?」 「邪魔?」  ミコトは、少し目を丸くした。それから、すぐに首を横に振った。 「邪魔なんて、そんなことありません」 「本当か」 「はい。むしろ、ヴァンが一緒なら、すごく心強いです」 「心強い、か」 「はい。知らないお家は、少し緊張しますから。つばめ先生がいらっしゃるのは嬉しいですけど、ヴァンも一緒なら、もっと安心します」 「そうか」 「そうです」  ミコトは神妙かつ真面目な顔で頷いた。それが少しおかしくて、少し笑った。 「じゃ、そのつばめ先生の所に行こう」 「はい」      *  保健室。おれは一応の治療を受けた。 「あの馬鹿、可愛いヴァン君に何してくれちゃってるの」  つばめ先生が、こんな風に言うなんて珍しい。ミコトも、反応に困っているようだ。 「いつものことだ。それに兄貴は悪くない。弱いおれの責任だ」  おれは思った通りのことを言った。 「なんてできた弟なのかしら。あんな勝手に前線に出ちゃうような、お馬鹿な兄のことを庇って、本当に……」  そんなつもりはなかったのに、ややこしい。でも、何だろう。この違和感。 「つばめ先生、もしかしてヴァルク先生が行っちゃうの、気に入りませんか?」  それだ。ミコトが言い当ててくれた。つばめ先生は、きっと兄貴が出ていくのが嫌なんだ。 「当たり前でしょ。突然そんなこと言われても、困る」  なんだ、おれと同じか。 「それに、エイデンまで行くってんだから、寂しすぎるわよ。あたしだって戦えるのに……」  そんな気はしてた。気配を悟らせずに、レオナを見守ってた時から、つばめ先生は実はかなり戦える人だと思ってたけれど、やっぱりそうだった。 「え。もしかして、つばめ先生も、前線に出たかったんですか?」   「違うわ。あたしだけ置いていかれるのが嫌なだけ」    やっぱり、おれと同じだ。 「弱いと、置いてかれる」 「それと女もね」 「それじゃ、弱くて女の子のわたしなんて、絶対に置いてかれちゃいますね」 「そうね。男の子って、いつも勝手だからね」  否定はしない。できない。おれも兄貴も、かなり好き勝手に生きていると思う。いや、ちがう。他があまりにも不自由に生きているだけなのかもしれない。  でも、だからって男が全部そうとは限らないじゃないか。 「それは人によるんじゃ?」 「逆よ。自分勝手な生き物を、オトコノコって呼んでるの」 「そういうものなんですか?」 「そういうものよ。オトコノコだったら、少しぐらい自分勝手な方が、子供として健全って話よ」 「兄貴も子供なのか」 「子供よ。誰よりも少年ね。それも夢見がちな」  分からない。オンナって分からない。でも、つばめ先生なら、兄貴に勝てそうな気がした。少なくともクチでは圧勝だと思う。 「ところで、あの約束は覚えてますか?」 「あの約束?」 「|聖輪樹《セイント・リース》です。ヴァンが、手伝ってくれるって言ってくれたでしょう」 「ああ」  そうだった。  兄貴と喧嘩する前に、そんな話をした。  ミコトが初めて|聖夜祭《アポカルダ》を迎える。おれは扉に飾る|聖輪樹《セイント・リース》作りを手伝うことになった。  あの時は、それどころではなかった。  でも、今は違う。兄貴との|本気の勝負《はなしあい》は終わったし、冬はアルフォンス先生の家に行くことに決めた。  なら、次にやることを決める。 「いいわね。アルフォンスの家、扉が大きいから、飾りがいがあるわよ」 「なら、たくさん材料が要る」 「何が必要ですか?」 「|山葡萄《トラウベル》の|蔓《つる》、赤い実。白い糸。あとは、小さい飾り」 「飾り?」 「何でもいい。木でも金属でも、布でも、紙でも、家によって少し違うけれど、色も形も基本的に自由だ」 「家によって違うんですか?」 「違う」  囲炉裏の匂い。山小屋の板壁。柔らかい光。白い布。誰かが、幼いおれの手に枝を持たせている。そんな記憶。 「そうだ。輪は、きっちり閉じない」  おれは言った。 「閉じないんですか?」 「ああ。一箇所だけ、指一本分ぐらい隙間を空ける」 「どうしてですか?」 「帰ってくる者が、そこから入れるように」  言ってから、自分で少し黙った。  帰ってくる者。兄貴。 「魔除けなのに、隙間を空けるんですか?」 「魔を入れるための隙間じゃない。帰る者のための道だって聞いた。だから、ただ閉じればいいわけじゃない。家は、守るだけじゃ駄目なんだと」 「守るだけじゃ、駄目」  ミコトが、ゆっくり繰り返した。 「入れてやらないといけない。帰ってくる奴を。迷ってる奴を。寒いところにいる奴を」  ミコトと、つばめ先生は、おれの話をじっと聞いていた。 「素敵です」 「ええ、いいわね。それ」 「そうか?」 「はい。すごく素敵です」 「あたし達も、そのやり方に従いましょう」  ミコトは両手を胸の前で握った。 「はい、それを作りましょう!」  ミコトの声が弾んだ。

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