琥珀 / 第20話

20 突撃、お宅訪問?

クロエは最後、もう会えないであろう最愛の夫の頬に触れ、言った。 "愛してるわ。永遠に。娘たちの事、お願いね" そして、神々しい光に包まれ天へと昇って行く。夫のダンは泣きながらも笑顔は絶やさず、姿が消える最後の瞬間まで、妻から目を離さなかった。 「うっ・・・ぅう・・・ぐっ・・・」 シュシュッと高速で箱から抜いたティッシュが目の前に差し出された。黒く鋭いクチバシからそれを抜き取り、涙を拭いた。 「その前に鼻水を拭いたら?口に入ってるわよ」 もはや涙なのか鼻水なのかわからない。わたしの目から下は化粧水が要らないほど潤っている。 「はぁ〜・・・泣きすぎた。目痛い」 「どこに泣く要素があったのか、わたしにはわからないわ」 「えええ!?なんでですか!最初から観てたのに?」 「あなた、最後に妻が消滅するところで号泣していたけど、なぜ?」 「消滅って・・・最後の別れだからですよ!もう2度と会えないから・・・」 「元々奥さんは亡くなっているじゃない」 「そぉ・・・ですけど!やっと奥さんの存在に気づいて、最後に姿が見えたんですから」 「そもそも、最後だけ見えるようになるのもわからないわ。だったら最初から見えるほうが最後の別れも感動が倍増するじゃない」 「・・・最初は奥さんが見えなくて、周りで起こる不可解な出来事によって徐々に亡くなった奥さんの存在に気づいていくのが良いんです」 「だとしても、最後に奥さんが見えたのは突然だったじゃない。理由もなく突然姿が見えることに違和感はないの?」 ──珍しく、一緒に映画を観るというから女子会のようにワクワクしていたけど、空舞さんは一緒に観てはイケナイ烏(ヒト)だった。 「それが映画なんですぅ。ありえない事が起きるから楽しいんですぅ」 「それを言うなら、現実のあなたもそうじゃない。普通の人間にわたしは見えないよの」 「・・・現実は、楽しくない・・・いやっ!空舞さんと話せるのは嬉しいけどっ、そーじゃないのもいっぱいいるし・・・」 「見えないほうがよかった?」 以前のわたしなら、即肯定していただろう。でも今は、そうとも言い切れない。見えなければ、早坂さん達に会う事もなかっただろうし──「空舞さんの話せないのはイヤです」 「それは今だから言えることでしょ。元々存在さえ知らなければ、思うこともないわ」 「そうなんですけどぉっ・・・みんな空舞さんみたいに良い妖怪だったらいいのに」 「残念ながら、そんな事はあり得ないわ。人間の世界だってそうでしょう、善人もいれば悪人も存在する。どちらかと言うと悪のほうが濃いわね」 「そうですね・・・世の中、良い人ばかりじゃないですけど」 「まあ、悪人とは関わらなければいいだけよ」 「・・・悪い妖怪とも関わりたくない」 「ならそうすれば?妖怪が見えない人間が傷ついても放っておけばいいのよ」 「・・・なんか空舞さんイジワルだっ」 「そう?グジグジ言うくらいなら、関わるのをやめたほうがいいと思うけど」 下唇が前に突き出る。 「まあ、あなたはよくやってると思うわ。じゃあわたしはこれで」 「えっ、帰るんですか?」 「これからまた同じような映画を観るんでしょ?寝ているほうがいいわ」 そう、今日のリストは恋愛映画を2本と、海外ドラマを寝落ちするまで、だ。 「明日休みだからといって夜更かしすると、その分アルコールも増えるわよ。冷蔵庫にワインも半分残っていたしね」 ギクリとした。いつの間に見たんだ?最近、この器用なクチバシを恨めしく思うことがある。 「大丈夫です。もうけっこう眠いのでそんなにもたないかと」 「この前のようにソファーでお腹丸出しで寝ていると風邪引くわよ。それじゃあ、おやすみ」 「おやすみなさい」 空舞さんはいつものように恨めしいクチバシで窓を開閉してベランダから飛び去って行った。 そうだ、気をつけなければ。この前のように、思い切りヘソを突かれて飛び起きるのは二度とゴメンだ。 その後突入した2本目の映画は、30分ほどで挫折した。睡魔に負けたわけではない、序盤からあまりにもハイスペックな男子が登場したからだ。片やヒロインは極一般的な家庭に育ち、何の取り柄もないが性格の良いただの"美女"。いわゆる、身分差を題としたありきたりな恋愛映画だ。 海外ドラマに切り替えてからは、あっという間に時が過ぎた。キリが良い所で止めようと思いつつ、なかなかその場面に行き当たらない。 4話目の序盤では、主人公のマシューが潜入先のテロリストの隠れ家で腹を刺されたのである。 「お前はサツだろ?」テロリストの男がマシューの耳元で囁いた。「それに、もう1人仲間がいるな?」 テロリストはマシューの腹に突き刺したナイフをゆっくり抜くと、わたしを見た。 ──えっ・・・わたし? 血で染まったナイフを片手に、こちらへ向かってくる。 周りを見るが、ここにいるのはマシューとわたしだけだ。 ああ・・・次はわたしか。こんなことで死ぬんだったら、早坂さんに好きだと伝えればよかった。 目の前まで来たテロリストは、わたしのお腹にナイフの先端を突き当てた。 「白状すれば、命までは取らない。お前はサツだろう?」 「・・・なんのこと?わたしは飲食店に勤める、普通の女だ」 「そうか。残念だ」テロリストは不敵な笑みを浮かべた。 ──ここまでか。わたしは死を覚悟して目を閉じた。 そして、ナイフがわたしの腹にめり込んで──うぐっ・・・・・うっ・・・ううっ・・・ぅう? あれ。痛く、ない? チクチクはするが、刺されるのってこんなものなのか?思わず自分の腹を見ると、ナイフは刺さっていなかった。かわりに違う何かが、わたしのお腹を攻撃している。 なんだ?黒くて、鋭い──あれは──・・・ 「空舞さん?」 「やっと起きたわね」 「・・・・・・ん?」 状況の把握に努める。見えるのは家の天井。ここはソファーか。空舞さんは何処に? 「寝ぼけてるの?」 仰向けのまま、顔だけ上げた。空舞さんだ。 わたしの服は胸まで捲れ上がっていて、お腹の上には空舞さん。 「あれ・・・戻ってきたんですか?」 「何を言っているの?あれから10時間経っているわよ」 「・・・えっ!」 本当だ、カーテンの隙間から陽光が差し込んでいる。部屋の時計は9時ちょうど。 「あなた、言ったそばから同じ事を繰り返すのね。どうしたら寝ていてこんなにお腹が出るの?」 「・・・あれ、さっきまでドラマ観てたような・・・ぎゃっ!」 ヘソに痛みが走り、身体が勝手に飛び起きた。 「いつまで寝ぼけているの?」 「・・・もしかして、ずっとお腹突いてました?」 「あなたがいつまで経っても起きないからよ」 テロリストの夢は、空舞さんのせいにした。 「いつの間にか寝てました。キリの良いところで止めようと思ったんだけどな・・・」 「テレビもついてたから消しておいたわ」 「ありゃ、ありがとうございます」 「ワインもこれだけ飲めばソファーで寝るのも当然ね」 テーブルにあるワインのボトルには、1センチほど中身が残っている。 「一応、全部は飲んでないですよ」 「飲み干す前に酔っ払って寝ただけでしょ?」 ぐうの音も出ない。 「あの空舞さん、ヘソを突くのはやめてもらいたいんですが!」 「あなたが起きないからじゃない」 「それにまだ9時ですよ?昼まで寝てて起こされるのはしょうがないけど」本当にしょうがないのか? 「9時はまだとは言わないと思うけど。携帯が鳴っていたのよ、2回」 「えっ」 テーブルの缶を掻き分け、1本倒したのは無視して携帯を手に取る。 瀬野さんからだった。空舞さんの言う通り、2回着信がある。20分ほど前だ。 わたしは急に胸騒ぎがしてきた。瀬野さんからかかってくるのは初めてだ。それも2回も。なんで?瀬野さんがかけてくる急を要する内容。考えられのは──早坂さんに、何かあった。 わたしはすぐ瀬野さんへ折り返した。 3回コールが鳴る。お願い早く出て、瀬野さん。4回、5回、6回目の途中で呼び出し音が途切れた。 「もしもし!?瀬野さんですか!?」 「・・・威勢がいいな」 瀬野さんの落ち着いた声を聞いて、少し安心した。 「どうしたんですか!?何かありました!?」 「・・・お前が何かあったんじゃないのか」 「えっ、いや、だって瀬野さんから2回もかかってくるなんて何かあったとしか・・・」 「まあ、そうだろな」 ──ああ、何か既視感があると思ったら、この前と同じ状況だからか。わたしから瀬野さんに電話をした時も、瀬野さんは同じ反応をしていた。 「大丈夫だ、何もない」 その言葉を聞いて心から安堵した。 「いや、あるっちゃあるんだが」 「えっ!?なんですか!」 「お前、確か月曜日は休みだったよな」 「はい。今日は休みです」 「暇か?」 「暇です」早くその先を聞きたくて即答した。事実でもあるが。 「頼みがある」 こんなふうに、瀬野さんから改まって言われるのは、緊張以外の何者でもない。 「なんですか?」 「遊里んとこに行ってほしいんだが」 何もないと聞いてはいても、心臓が動く。 「早坂さんの家に?なんでですか?」 「大熱にやられてる」 「大熱・・・ええっ!?マジですか!?」 「・・・耳に響く。落ち着け、生きてるから大丈夫だ」 「風邪引いたのかな・・・大熱って、どれくらいですか?」 「確か、39℃とか言ってたな」 「39ドォッ!?だっ、大丈夫なんですか?」 「アイツも俺もガキん時以来、熱を出した事がないからわからんが、いつになくしんどそうだったな」 瀬野さんの言う、ガキの時が何歳の事を言っているのか知らないが、それから今に至るまで1度も熱を出した事がないなんて、あり得るのか?本当に人間じゃない説が濃厚になってきた。 「しんどいに決まってますよ・・・病院には行ったんですか?」 「アイツは行かん」 「行かんって、ダメでしょっ!」 「とにかく、アイツは死んでも行かん。殴って気絶させて連れて行かない限り無理だな」 心配を通り越して、腹が立ってきた。わたしには微々たる事で病院に行けとうるさいくせに。 「瀬野さんは行ってきたんですか?」 「食料と水分は持って行ったんだが、俺が居たところで何も出来んしな。仏頂面見てると悪化するって追い返された」 笑う状況ではないが、笑いそうになった。 「でも、わたしが行ったところで何が出来るか・・・」 「近くにいるだけでいい。何かあった時のために、という意味でな。ばーさんは居るが、アテにならんしな。無理強いはしないが」 「行きます」 「・・・わかった」 「住所送ってもらえますか?」 「住所?」 「早坂さんのお家の」 「なんでだ」 「え、タクシーで行くのに」 「俺が連れてく。タクシーで行かせたら後で何を言われるかわからん」 「いや、でも・・・」 「俺の頼みなんだ、くだらん事で気を揉むな」 「・・・じゃあ、お願いします」 「1時間後に出れるか?」 「あー、はい。大丈夫です」 「家の前で」 わたしの返事を待たず瀬野さんが通話を終わらせた。 「大変そうね。優子も熱がある時はとても辛そうにしていたわ」 さすが地獄耳。説明の手間が省けた。 「39℃って、かなりキツイですよ・・・」 考えてみれば、早坂さんからの連絡が"2日も"途切れている。基本、毎日か1日置きで用の無い電話やメールが来るんだが。相当、具合が悪いんだろうか──。 こうしちゃいられない。5分でシャワーを浴びてスーパーまでダッシュだ。 それから1時間後、アパートの前で待っていたわたしを迎えに来た瀬野さんは、助手席の窓を開けてこう言った。 「登山にでも行くのか?」 「なんか、いろいろ買いすぎちゃって!ちなみにコレ、ホントに登山用のリュックです」 「・・・後ろのほうがいいな。乗れ」 「お願いしまっす!」 自動で開いた後部席にリュック共々乗り込んだ。瀬野さんの車はワゴン車だから車高が低くてありがたい。 「それ、何が入ってんだ?」 車がアパートの敷地を抜けたところで瀬野さんが言った。ルームミラー越しにわたしの巨大なリュックを怪訝な顔で見ている。 「えと、水と栄養ドリンクと、あと果物とゼリーとプリンと、パンとかレトルト商品とか」 「・・・食料と水分は持ってったって言っただろ」 「や、わかってたんですが、アレもコレもと買い込んでるうちにこんな量になってました」 「殺傷能力ありそうだな」 どうやって殺すんだろう。体当たりか? 「見た目ほど重くないですよ。わたしが普通に動けるくらいなので」 「まあ、それが基準になるかはわからんが」 それは、褒め言葉として受け取っておこう。 「早坂さん、大丈夫でしょうか・・・」 「アイツは大丈夫だ。お前を呼んだのは念の為だ、あくまで」 その根拠はどこから来るんだろう。 「ていうか、わたしが行って迷惑じゃないんですかね・・・」考えたら、急に不安になってきた。「あれ?わたしが行く事、早坂さんは知ってるんですか?」 「・・・むしろ、元気になるんじゃないか?」 「知らないんですね?」 「まあ、気にするな」 ──言われるがままに動いて、早坂さんに連絡をするという頭が一切なかった。更に不安が募る。 「追い返されたらどうしよう・・・」 「お前は野生の勘が働く割に、消極思考だな。追い返そうとしても、移したくないからだろ。そこはお前が粘れ」 「粘れって・・・」 「そうか、お前も移される可能性があるのか・・・自信あるか?」 「自信?とは?」 「移されない」 「・・・ちなみに、自信でどうにかなるものなのでしょうか」 「俺は移らないって言い切れるが、お前はわからんからな。一応気をつけろよ」 言い切れる根拠はさっき聞いたから、納得だ。お前はわからんと言うのも、風邪を移された事のない人にしか言えないセリフだ。大抵の人は、移されるという前提で動く。 「マスク持ってきたので」 「意味はあるのか?」 「予防にはなるかと」 「・・・そうは思えんがな」 マスクの効果がわからないのも納得だ。 3度目の早坂邸。まさか、こんな形で来る事になろうとは。 家の前に車を停めた瀬野さんは、運転席から降りようとしなかった。先に降りたわたしが運転席へ回る。 「どうしたんですか?」 「何がだ」 「降りないから」 「俺は行かん」 「えっ!?なんでっ!」 「1回行ったっつったろ。鍵は開いてるから勝手に入れ」 「んなこと言ったって・・・ハードル高すぎます!一緒に来てください!」 「何がだ?前にも来ただろうが」 「勝手には入れないですし、病人をインターホンで呼び出すのも無理です!一緒に来てください!」 「・・・チッ」 瀬野さんは渋々、車から降りた。ありがたいが、「今、舌打ちしましたよね」 「知らん仲でもないし入れるだろうが」 「知ってる仲でも勝手には上がれません普通!」 瀬野さんは遠慮なく玄関の扉を開けると、わたしの背中に手を当て、中に押し込んだ。 「じゃあ頼んだぞ。何かあった時は連絡くれ」 それだけ言い残し、扉がバタンと閉まる。 「いや、せめて早坂さんに会うまで一緒に・・・」 独り言が、静かな玄関に響く。これ以上は諦めるしかないようだ。 「・・・どうしよ」 その時、奥の扉がガチャっと開き、わたしはその場で飛び跳ねた。 「雪音が?」 「・・・おっ・・・おばあちゃん!」思わず声が大きくなり、口を塞ぐ。 おばあちゃんは軽やかな足取りでわたしの元へ駆け寄ってきた。 「雪音!元気だったが?」 「うんっ、元気だよ。おばあちゃんも元気そうだね」 「ダッハッハッ!オラァいつも元気だ!」 「おばあちゃん、早坂さんは?」 「遊里は寝でだ!起ごしてくっから待ってろ!」 「ちがっ、待っておばあちゃん!」 おばあちゃんはわたしの呼びかけも聞かず、廊下の先の階段を小走りで駆け上がって行った。 「はや・・・」妖怪とはいえ、本当に96歳なんだろうか。追いかけるには、遅い。 何も出来ず玄関で立ち尽くしていると、少しして2階から物音が聞こえた。次に、足音。そして、それが大きくなっていく。 「美麗ちゃん、幻覚でも見えたんじゃない?雪音ちゃんが1人で来るわけないでしょう」 ハッキリと、早坂さんの声が聞こえた。 よかった、声はそれほど辛そうではない。そしてスミマセン、幻覚じゃないです。 パタパタと階段を下りるスリッパの音がして、早坂さんの脚が見えた。わたしは咄嗟に柱の影に隠れた。いや、何やってんだわたしは。 廊下を歩く音が近づき、心音が速まる。言うなら、隠れんぼ中に鬼が近づいているような心境だった。 「ほらぁ、誰もいないじゃない」 「いや、いだ!雪音が来てだ!」 「ちょっと美麗ちゃん、あたしの風邪が移ったんじゃなっ・・・」 わたしの姿を目視した早坂さんは、急ブレーキがかかったように停止した。 数秒、無言の見つめ合いになる。 「こんにちはっ!元気ですか?」 脳内雪音がすぐに発狂する。バカな発言が当たり前のように出るお前は、本当のバカなのか? 早坂さんは片手で目を押さえ、上を向いた。 「美麗ちゃん、あたしまで幻覚が見え始めたわ」 「ほら、言ったべ!?ガッハッハッ!」 早坂さんはそのまま一時停止すると、我に返ったようにわたしに向き直った。 「雪音ちゃん?」 「雪音です」 「本物?」 「死んでなければ」 「・・・ちょっと、触ってもいいかしら」 「え」 早坂さんは1歩2歩進み、いつもより高い位置からわたしの頬に触れた。──熱い。これは、間違いなく高熱だ。 次に両手でわたしの頬を挟むと、その感触を確かめるように"揉んだ"。 「やだ!本物だわ!雪音ちゃん!?」 「だがら言ってんべよ!おもしれー奴だ!ダッハッハッ!」 何を基準に本物だと判断したのかは置いといて──「早坂さん、大丈夫ですか?だいぶ熱が高いみたいですけど」 早坂さんは無視して、わたしの肩をグッと掴んだ。「あなた、なんでここにいるの!?どうやって来たの!?」 服の上からでもその体温を感じる。 「瀬野さんに連れて来てもらったんです。それより、今熱は何度あるんですか?」 「瀬野?・・・あのアホ、言うなって言ったのに」 会話が、成立しない。 「お邪魔します」 靴を脱いで、中に上がった。そのまま早坂さんの額に手を当てる。 早坂さんはとくに反応もせず、目を閉じた。わたしの手が気持ちいいんだろう。それだけ、熱が高いということだ。 「かなり、熱高いですね。フラフラしませんか?」 「まあ、若干ね。てゆうかあなた、何で来たの?」 目が虚ろだ。顔もいつもより赤い。Tシャツにスウェット、乱れた髪に無精髭、初めて見る早坂さんの姿だった。 「スミマセン、歩かせちゃいましたね。ベッドに行きましょう」 「あら、雪音ちゃんからそんな発言、ちょっとドキッとしちゃったわ」 「そんな事を言ってる場合ですか。いいから、まず横になってください」 早坂さんの腕に触れようとしたわたしの手を、早坂さんが掴んだ。 「瀬野から言われて来たんでしょ?ありがたいけど、あたしは大丈夫だから、帰りなさい」 ──口調は優しいが、考えていた事が現実となり、動揺を隠せなかった。 「いや、迷惑とか、そーゆう事じゃないのよ?あなたに移したくないからで・・・お願いだからそんな顔しないでっ」 頭の中で自分を引っ叩いた。病人を困らせてどうする。わたしはリュックのサイドポケットに忍ばせておいたマスクに手を伸ばし、装着した。 「これで大丈夫です」 早坂さんは目をパチパチと瞬いた。 「わたしが来たくて来たんです。このまま帰れと言われても無理なんで・・・言うこと聞いてくれませんか?」 早坂さんは、はあと息をつくと、力が抜けたように笑った。 「そんなこと言われたら、言うこと聞くしかないじゃない。わかったわ。ただし、あたしにあまり近づいちゃダメよ」 「・・・早坂さんに言われるとは思わなかったです」 「え、そお?」 普段は近すぎると指摘しても余裕で無視するのに。 「まず、寝室に行きましょう。2階ですよね?」 「そうよ。やだっ!なんか緊張するわ!」 これだけ喋れるなら、回復も早そうだ。 「ご飯は食べました?」 「無視?」 「何か作りましょうか?」 「無視なのね。情けない事に喉が死んでてねぇ、固形物は受け付けないのよ」 「ゼリーとかプリンは食べれませんか?」 「あ、それならイケるかも」 「瀬野さんが食料買って行ったって言ってたけど、食べなかったんですか?」 「カップラーメンを?ただでさえ死ぬほど喉が痛いのに?」 噴き出しそうになるのを堪えた。 「きっと、手間がかからない物と思ったんですね・・・」 「そうね。レトルトカレーの辛口と特盛りご飯は非常食用に棚に閉まっておいたわ」 「クッ・・・スタミナをつけさせようと思ったんですね。とにかく、早く横になりましょう」 「上手いこと言うわね。ところで雪音ちゃん、登山にでも行って来たの?」 「・・・おばあちゃん、わたし荷物を置いてから行くから、早坂さんをベッドまで連れて行ってくれる?」 「わがった!」元気な返事をくれたおばあちゃんは、早坂さんの背中にピョンと飛び乗った。 「行ぐぞ遊里!」 「あいあい。雪音ちゃん、階段上がって右の部屋よ」 「わかりました」 階段を上がる後ろ姿はどう見ても、早坂さんに連れて行かれるおばあちゃんにしか見えないが──とにかく今は、安静にしてもらいたい。 リビングへ行き、買ってきた物を冷蔵庫に入れながらふと思った。 なんか、やってる事、彼女っぽい?──いやいや、わたしは瀬野さんに頼まれて来ただけだ。こんな時に不謹慎だぞ。 戸棚からトレイを取り出し、食べられそうな物を適当に見繕って乗せる。キッチンの引き出しからスプーンを取り出し、思った。どこに何があるか把握しているのって、彼女っぽい?──いやいや、前に早坂さんと一緒に洗い物をしたから知っているだけだ。浮ついた頭を振り払う。 その時、ふと目についた物。シンクの中に1つだけグラスがあった。底にはうっすらと琥珀色の液体が残っている。手に取り匂いを嗅ぐと、ウイスキーだ。 洗い残しだろうか。でも、これだけ? 折り返しの階段を上がり2階へ行くと、廊下を挟んで3つの部屋があった。早坂さんに言われた通りすぐ右手の部屋へ向かう。ドアは開けっ放しだ。 「コンコン」手が塞がっていたため口でノックを伝える。「お邪魔します」 部屋に入った最初の感想は──殺風景。広さはそこまででもないが、設置されているのは、窓際の大きなベッドとサイドテーブルだけだ。それと壁一面のクローゼット。 「いらっしゃい」 早坂さんはベッドに横になっていて、わたしを見ると布団を捲った。そして片手を広げる。 「・・・なんですか」 「いらっしゃい」 「来ましたけど」 「ここによ。添い寝してくれるんでしょ?」 「そんなこと、一言も言ってませんが」 「あらそう、残念」 この人、本当に39℃もあるんだろうか。 「ダッハッハッ!雪音、一緒に寝でやれ!」 おばあちゃんはベッドの足元にチョコンと座り、足をブラブラしている。 「何言ってんのおばあちゃん・・・」 サイドテーブルには携帯と体温計と壺のような物が置いてあり、その隣にトレイを置く。 「なんですかコレ?」 「美麗ちゃんのよ」 「・・・あっ!」これはまさか──蓋を取って中を覗くと、やっぱり。青唐辛子だ。 苦い記憶が蘇り、食べてもいないのに口の中がヒリついてきた。 「遊里に食えって言っても食わねー!雪音は食うが?」 「いらないっ!そしておばあちゃん、病人にこんなの食べせたらダメだよ・・・病人じゃなくてもダメだよ・・・」 「寝てる時に口の中に突っ込まれたわ。噛まなかったからセーフだったけど」 「えええ!?」 「なんも食わねーがらよ!死ぬんでねーがど思って!」 「・・・別の意味で死んじゃうよ、おばあちゃん」 「ごめん雪音ちゃん、椅子ないからここに座って」そう言って早坂さんがポンポン叩いたのは、自分の隣だ。つまりベッド。 躊躇したが、ベッドの広さを考えると、ここに座ったほうが動きやすい。わたしはおずおずとベッドに腰掛けた。 「早坂さん、ちょっと前髪上げてください」 早坂さんが手を伸ばした。 「わたしのじゃありません。自分の」 素直に言う事を聞いた早坂さんの額に冷却シートを貼る。早坂さんは冷たがりもせず、スッと目を閉じた。 「気持ちいい」 「よかった」この熱じゃ、すぐに効果を失いそうだが。「早坂さん、熱測ってください」 「昨日測ったわよ」 「・・・毎日数回測るんです」 「身体が痛いから体温計差し込んでくれない?」 「いいですけど、脇が甘くなりますがいいんですか?」 「ぎゃっ」早坂さんはわたしの手から素早く体温計を奪った。「昨日と変わってないと思うけど」 ピピッと鳴った体温計を早坂さんは見もせずにわたしによこした。 「なっ・・・39.5℃!?」 「ほら、変わってない」 「もはや40℃じゃないですか・・・早坂さん、病院に行きましょう」 「大丈夫よ。あと1日あれば治るわ」 「・・・なんで病院に行きたがらないんですか?」 「嫌いなの」 「好きな人はいません。こんなに高熱なのに行かないなんて自殺行為です!」 「大丈夫よ。ぜったい死なないから」 「・・・引っ張って連れて行きますよ」 「あら、いいけど、大丈夫?」早坂さんがニヤリと笑う。「熱はあっても、あなたには負けないと思うけど」 それが出来るなら、本当にそうしたかった。早坂さんを担いででも病院に連れて行きたい。 冗談を言って平気なフリをしているけど、呼吸と表情でわかる。本当に辛いのが。 何かあったらという不安と、どうにも出来ない苛立ちが涙に変わって溢れ出そうになる。 「雪音ちゃん?おーい、こっち向いて?怒った?」 「・・・その根拠はどこから来るんですか。こんなに高熱なのに・・・最悪死ぬことだってあるんですよ」 声が震えた。あれ、なんでわたし、こんなメンタルになっているんだ。しっかりしろ。辛いのは早坂さんなのに、わたしが弱ってどうする。 早坂さんの熱い手が、わたしの手をぎゅっと握った。 「心配かけてごめんね。あたし、本当に病院には行きたくないのよ。ていうか、行ったら悪化するかも。雪音ちゃん、あたしは大丈夫だから。熱ほど酷くないのよ?こうやって喋れる元気もあるし、本当にヤバいと思ったら行くから。ね?」 「・・・約束ですよ。本当に駄目だと思ったら、そうなる前に、ちゃんと言ってください」 「わかった」早坂さんがわたしを握る手に力を込めた。 「はあ・・・早坂さんも頑固だ」 「ふふ」 「なんですか?」 「いえ、そんなに心配してくれるなんて、愛されてるなぁと思って」 「・・・さ、プリン食べましょうか」 「否定しないわね」 「ゼリーがいいですか?」 「否定しないということは、"そーゆうこと"?」 「早坂さん」 「はい」 「"今は"、何か食べて薬を飲んで、一刻も早く寝てください。いいですね?」 わたしは真剣に訴えた。 「・・・あい」 「何が食べやすいですか?」 「んー、ゼリーがいいわ」 早坂さんは隣にある枕を頭に挟み、軽く上体を起こした。 ゼリーの蓋を取り、スプーンと渡すが、早坂さんは受け取らない。 「ん?」 「関節が痛くて腕が上がらないわ。食べさせて」 ──さっき、わたしに向かって手を広げてましたけど? しかし、この高熱だ。関節が痛いというのは本当だろう。 ゼリーを一口すくい、早坂さんの口へと持っていく。それを早坂さんがパクりと咥えた時、心臓がドキリと跳ねた。なんなんだ、この急な心拍上昇は。 無になれ。目の前にいるのは早坂さんではない、店長だ。店長にアーンしていると思え。 ──ある意味、心拍も下がった。 「美味しいわ。ゼリーなんて何十年ぶりに食べたかしら」 そうは言いながらも、飲み込む時に顔をしかめ、辛そうだ。 「雪音!それはなんだ?うめーのが?」 おばあちゃんはベッドに両手をつき、興味津々にゼリーを見ている。 「うん、ゼリーだよ。まだあるけど、食べる?」 「んだ!1個くれ!」 おばあちゃんはベッドからピョンと飛び降り、トレイにある3個入りのゼリーの1つを手に取った。 「あら、珍しいわね。普段、何も入ってないスープしか食べたがらないのに」 「まあ、溶かせばスープみたいなもんですからね」 どうやら、透明で何も入っていないというのがミソらしい。 おばあちゃんはベリっと蓋を開けると、その小さな手をスプーン代わりに、一気に口の中にかき込んだ。 「豪快だね、おばあちゃん・・・どう?美味しい?」 「味がしねぇ!」そう言い、おばあちゃんは壺の中の唐辛子をポリポリと食べ始めた。 見ているだけで、唾液がたまる。 「あーん」 早坂さんに催促され、ゼリーをまた口に運ぶ。1つ食べ終えるのも辛そうだったが、何とか完食は出来た。 「次は栄養ドリンクです」 「ずいぶんいっぱいあるのね」 「冷蔵庫にもあるので、あとで飲んでくださいね」 「口移しで飲ませてくれないの?」 「風邪も移りますが」 「ああ、そうね。いただくわ」 ──こういうのも、最近は受け流せるようになってきたが、それと同時に本当にやってやろうかとも思うようになってきた。この"軽口"の裏にある"真実"を引き出したい。 「・・・睨まれてる?」 「いいえ。薬は最後、いつ飲みました?」 早坂さんは考えた。脳内で時を遡っている。 「昨日の夜ね」 「ちなみに、なんの薬ですか?見当たらないけど」 「咳止め?それしか無かったのよ」 「・・・咳はしてませんがね。まあいいです。買ってきたので、飲んでください」 「あい、ありがとう」 この素直さは可愛いが、やってることには腹が立つ。もう少し、自分の事を真剣に考えてほしいものだ。 薬を飲んだ早坂さんは目を閉じ、──ニヤニヤしていた。 「何笑いですか?」 「いえね、定期的に風邪引きたいなと思って」 「・・・なぜに?」 「あなたがこうやって、側にいてくれるんだもの」 「・・・わたしは気が気じゃないです」 「ふふ、これからも風邪引くように頑張るわ」 「風邪引かないように気をつけるの間違いですが!」 早坂さんがうっすら目を開け、わたしを見た。 そして、手が差し伸べられる。わたしはその手を当然のように握った。 「ありがとう、雪音ちゃん。あなたがいてくれて本当に良かったわ」 「・・・・・・死に際のセリフみたいに聞こえるんでヤメテもらえますか」 早坂さんはブッと噴き出した。 「まあ、このまま死ねるなら、それも悪くないわね」 「もう、ヤメテくださいって!いいから寝てください!」 「あはは、わかったわ。このままでもいい?」 ダメとは言えないくらい、強く握られている。 「はい」 「・・・ありがとう」 それから1時間後─。 早坂さんはグッスリと寝入り、おばあちゃんは床に大の字になりイビキをかき、──わたしは、ベッドに座ったまま身動き取れずにいた。 トイレに行きたくても、早坂さんが手を離してくれない。どうにか逃れようと試みても、その手が弱まることはなく、わたしが動くたびに握る手に力がこもる。 この男、本当は起きてるんじゃないのか? 無理矢理離れたら、起こすかもしれない。そう思うと何も出来ず、結果こうして1時間も早坂さんとおばあちゃんの寝顔を見続けているのである。 携帯でもあれば時間を潰せるが、バッグと共に下に置いたままだ。 背もたれもない状態では身体も悲鳴を上げてくる。最終的に、睡魔も襲ってくるというものだ。 最初は我慢していたが、とうとう限界を迎えた。早坂さんが起きる前に、起きればいいよね。手を握ったまま、わたしは早坂さんを背にしてベッドに横たわった。 「んん・・・」 熱い。 それに、苦しい。息がしづらい。 ──あれ、わたし、何してたんだっけ。 ああ、そうだ。ここは、早坂さんの家だ。 早坂さんが寝たあと、わたしもちょっと寝ようと思って、それで──・・・ 「ん?」 心臓が爆音を立てて鳴り始めた。 まてまてまて、この状況はいったい、なんだ? 落ち着け。1つずつ、理解していこう。 わたしはベッドに横になっている。見えるのは空のゼリーと、早坂さんの腕。右腕はわたしの頭の下。左腕はわたしのお腹。この"位置関係"で言うと、背中の温もりは──早坂さんの身体。そして口の中には、唐辛子。 「ブヘッ」 3本の唐辛子をベッドの上に吐き出した。──おばあちゃんめっ! 「ン・・・」  頭の上から聞こえた声に今度は心臓が止まりかけた。わたしに回る腕に力が入り、背中に早坂さんの身体が強く押しつけられる。ビクッと足が動くと、早坂さんの足が上から絡まる。 もはやわたしは、拘束状態だった。 ──重い。そして、トイレに行きたい。 どうしよう。起こさずに、この拘束から逃れられるか。早坂さんの腕の中でゆっくり身体を捻ると、その腕が更にわたしを強く締め付けた。 ダメだ。これは、絶対脱出できないヤツだ。 諦めて、大人しくすることにする。 ──しかし、この状況はいいのか。腕枕をされたことにも気づかなかった。 頭の上でスースーと早坂さんの寝息が聞こえる。よかった、熟睡出来ているということは薬が効いているのかも。 緊張が薄れると、決まって安心感に包まれる。この部屋に入った時からそうだった。ここは、早坂さんの匂いでいっぱいだから。 今、隕石が落ちてきて世界が消滅しても、悔いは無いな。そんな事を思いながら、再び目を閉じた。 そう、目を閉じて二度寝に入ったわたしだったが──今は、非常に困っている。 とっくに目は覚めているものの、狸寝入りを決め込んでいるからだ。わたしが起きた時、早坂さんはすでに起きていた。そして、背中にいたはずの早坂さんが目の前にいた。 いつの間に、こんな事になったんだろう。 早坂さんはわたしを胸に抱いたまま、携帯をいじっている。 それに、さっきから微かに聞こえるこの音は、ゲームか?騒がしい機械音に、カチャンカチャンという金属音。どこかで絶対聞いた事があるのに、何なのか思い出せない。 "リーチ!" ──ああ・・・「パチンコですか」 「ぅわっ」 早坂さんがわたしの身体ごとビクッと動いた。「ビックリした・・・起きてたの?」 「今、起きました」嘘ですゴメンナサイ。顔を上げられないのは、顔の所在地がわかるから。 「ごめんなさい・・・わたしも寝ちゃいました」 「ん?なんで謝るの?あたしはむしろ礼を言いたいくらいなんだけど」 「・・・体調はどうですか?」 「うん、だいぶ楽になったわ」 「・・・ホントに?」 「プッ、嘘ついてどーするの」 「熱、測ってください」 「・・・大丈夫?」 「え?」 「固まってるけど、どしたの?」 「なんでもありません」 「雪音ちゃん?ちょっとこっち向いて」 早坂さんの手が顎に触れ、無理矢理上を向かされる前に、わたしは早坂さんの胸にしがみついた。 「・・・・・・あたしとしてはこの上なく嬉しいんだけど、ホントにどうしたの?」 「い、いっぱいいっぱいで・・・今は顔見れないデス」 自分が何を"しでかしている"のか、理解する余裕はなかった。ただ恥ずかしくて、顔が上げられない。 と思っていたら、早坂さんの身体が突然離れた。 「・・・・・・えっ」 今、何が起きたのだろう。まるで静電気でも起きたかように、早坂さんはわたしに背を向けた。 「あの・・・早坂さん?大丈夫ですか」 「大丈夫じゃないわ。あぶな」 「あの・・・」早坂さんの大きな背中に手を伸ばす。 「今あたしに触れたら、何するかわかんないわよ」 触れる寸前で、手を止めた。その意味がわからないほど、アホではない。たぶん。でも、それがどんな意味だろうと、わたしは今、早坂さんに触れたかった。だから、そうした。 早坂さんのシャツをギュッと握った。けれど、早坂さんは微動だにしない。 少しだけ早坂さんに身を寄せると、ベッドがギシッと音を立てた。 「今言ったの聞こえてた?」 「聞・・・こえてません」 一瞬。一瞬だった。一瞬で、わたしは早坂さんに両手首を押さえつけられていた。 早坂さんの重みが身体にのしかかる。でも、重くはない。わたしに負荷がかからないように自分の体重を支えている。それでも、わたしを掴む手は力強い。 早坂さんのこんな顔は初めて見た。射るようにわたしを見る。いつもの優しさは微塵もない。怖い。でも、その目から逃れる事が出来ない。 「早坂さん・・・」 「あたしは警告したわよ」 早坂さんは、わたしの顔を挟むように両肘をついた。もはや身動き出来ないのに、逃さないというようにわたしの頭を押さえつける。 早坂さんの口が少しだけ開き、わたしの元へ下りてくる。 なんでこんなに落ち着いているのか、自分でも不思議だった。 そして、その唇がわたしの唇に触れ──る寸前で早坂さんは止まった。目を閉じ、ふうと息を吐く。 「美麗ちゃん・・・」 「え"っ」 「なんだ、接吻しねーのが?」 横を見ると、おばあちゃんの顔がベッドに乗っていた。 「ギャ───ッ!!」 わたしが飛び起きると同時に早坂さんは離れ、そのままベッドに仰向けに寝転んだ。 「おっ!おばあちゃん!いつからそこに!?」 「全然起ぎでこねーがら心配して来たら、接吻してっからよ!わけーのはいいなぁ!ガッハッハッ」 「してません!」 「ある意味助かったわ」ボソッと呟いた早坂さんは腕で顔を覆っている。ある意味って、なに? 「てててっ、ていうかっ、今何時ですきゃ!?」    平静を装うスキルはわたしには備わっていない。 「5時過ぎだっ!」 「ええ!?もうそんな時間!?」 「けっこう寝たわねぇ。そりゃ体調も良くなるはずだわ」 勢いでごまかすわたしが滑稽に見えるほど、早坂さんは冷静だ。 テーブルの体温計を早坂さんに渡した。 「もう下がってるわよ」 「測ってください」 素直に体温計を脇に挟んだ早坂さんは、わたしの手で遊び始めた。指1本1本をマッサージするように触る。 すっかり、通常モードだ。それが悲しいような助かるような。複雑だが、わたしも出来るだけさっきの事は考えないようにする。 「ほら、36.8℃よ」 「薬が効いてるだけかもしれないので、油断は禁物ですね」 「凄いわね、こんなに効くとは思わなかったわ。昨日は飲んでも下がらなかったのに」 「咳止めですからね・・・症状に合った薬を飲みましょう」 「風邪薬なんてどれも同じだと思ってたわ。ああ、期限が切れてたから効かなかったのかしら?」 ──もはや、突っ込む気にもなれないが、これを機にもう少し知ってもらいたいものだ。 「次に風邪を引いた時は、シッカリお願いしますよ」 「イヤよ」 「・・・いや!?」 「だから、また来て」 不覚にも、可愛いと思ってしまう自分がいた。子供みたい。 「その時考えます」 「ええっ!?そこは、うんって言うとこじゃないの!?」 「大丈夫ですよ。うん十年ぶりの風邪のようですし?次はよぼよぼのおじいちゃんになった時じゃないですか」 「じゃあ、その時はそばにいてね」 ──・・・来てね。ではなく、いてね。 それはまるで──・・・「そういえば、瀬野さんに連絡しなきゃ」 「無視?」 「心配してるだろうし、帰る時に連絡しろって言われてたんですよね」 「とことん無視なのね。瀬野なら、さっきあたしが連絡したわよ」 「えっ、そーなんですか?」 「ええ、あなたがあたしの腕の中でスヤスヤ寝てる時に」 ──この男、わたしの"照れ隠し"に気づいて言っている。そういう笑顔(かお)だ。 「そうですか。何時に来れるのかな・・・」 「来ないわよ」 「・・・はい?」 早坂さんはベッドから立ち上がり、天井に向かって身体を伸ばした。 「泊まるって言ったから」 「・・・・・・誰が?」 「プッ、あなた以外誰かここにいる?」 次に早坂さんは腕のストレッチを始めた。ボキボキと怖いくらい骨が鳴る。 いや、そんなことより──「わたし泊まるんですか!?」 「・・・嫌なの?」 「いっ・・・やじゃないですけど・・・」 「今日お休みよね?明日の朝あたしが送ってくから」 「雪音!泊まってげ!ババ抜きするべ!」 「おばあちゃん・・・勝っちゃうよ」 「さーて、ある物で夕飯でも作ろうかしらね」 ──なぜか、こんな展開になってしまった。 一応、2人きりではないし変に意識する必要はないよね。しかし、さっきの事を考えると──。 「卵とウインナーはあったわね。雪音ちゃん、オムライスとチャーハンだったらどっちがいい?」 まあ、この男は平然としているし?無駄に気を揉むのはやめよう。 「オムライスで」 それから、早坂さん特製の激うまオムライスをご馳走になり、その後は映画を観てまったりと過ごした。おばあちゃんとのババ抜きは10回やって断念した。こんな"茶番劇"があるだろうか。おばあちゃんは勝つまで粘りたかったみたいだが、その可能性は皆無だ。かと言って、わざと負ける事もしないが。 今度わたしが来るまでに、早坂さんが別のゲームをレクチャーしておくということで話はついた。 そこまではよかったのだが、問題はシャワーを浴びて、時刻が0時を迎えようとした時だった。 そろそろ寝ましょうかと早坂さんに促されたのはいいが、わたしは一体、何処で寝れば? さっきは成り行きで一緒に寝たものの、こうとなっては話が別だ。 「あの、早坂さん。わたしここで寝ますね」 早坂さんはキッチンで水を飲みながら、キョトンとわたしを見た。 「ここでって?」 「え、ここです」わたしは自分が座っているソファーを叩いた。 「させると思う?」 「まったく問題ありませんよ。なんならウチのベッドより広いし」 「あー、そっか・・・」独り呟き、早坂さんは何か考え込んだ。「あたしがソファーで寝てもいいんだけど、病人じゃない?」 「え?はい」 わたしが代わりにご飯を作ると言った時、病人扱いするなと言われた気がするが。 「客間にベッドはあるんだけど、シーツも洗濯してないのよね」 「別に気にしませんよ?」 「駄目よ。ダニは至る所にいるし甘く見ると危ないのよ」 「・・・はあ」 「だから、あなたの寝る所は1つしかないのよね」 「・・・おばあちゃんと一緒でもいいんですが」 「美麗ちゃんの布団は子供用よ?それにもう少ししたら地鳴りのようなイビキかき始めるけど」 「・・・じゃあ、わたしは・・・」 「雪音ちゃん、何もしないから。まあ、説得力ないと思うけど」 「・・・あい」 就寝場所は決まっていたようだ。 何もしないと言われて、少し残念だと思ったのは──バレていないはず。 それから1時間後。 早坂さんとベッドを共有しながら、わたしは暗闇の天井を見つめ、1人思いふけっていた。 なぜ、こんな事になっているんだろう。今更過ぎるが、なぜわたしは早坂さんと同じベッドで寝ているんだ。 夕方まで寝ていたせいで、眠気など1ミリもない。そのせいでこれ以上ないくらい頭が冴えている。その反面、これは現実なのかと、夢を見ているような、ふわふわした自分もいる。 "適度"な距離を保ち、隣にいる早坂さんは何を考えているんだろう。両腕を頭の下で組んだまま大人しくしているが、呼吸や足の動きで起きているのがわかる。 「起きてます?」 「気が合うわね。あたしも今、同じ事聞こうとしてたわ」 「ビックリするくらい眠くないんですけど」 早坂さんがクッと笑った。「そりゃそーよね。さっきまで寝てたようなもんだし」 「早坂さんも全然?」 「ええ、むしろ冴えまくってるわ。何して遊ぶ?」 「・・・しりとりとか?」 「じゃあ、あたしからいい?」 「どぞ」 「寝酒でも、飲もうかし"ら"」 「・・・楽になったからって、調子に乗らないでくださ"い"」 「一杯だけなら、い"い"?」 「ダメに決まってるでしょう、何言ってるんですか」 「あら、もう終わったの?チェッ」 「それで思い出した。今日来た時、シンクにウイスキーのグラスあったんですけど、アレいつ飲んだんですか?」 「・・・・・・次は何する?」 「昨日飲んだんですね?」 「美麗ちゃんじゃない?」 「聞けばわかりますけど」 「・・・少ししか飲んでないわ。ほんの少し」 「量の問題じゃありません!高熱ある人間が、なんで飲もうとするんですか!」 「いやー、それがね、嫌な夢見るから熟睡できればと思って飲んだんだけど、飲んだら、ああ違うなって思ってすぐに捨てたのよ。これは本当よ」 「・・・当たり前ですよ。身体が辛い時、嫌な夢見るのはわかりますけど・・・ぜったい駄目です」 「そうね。肝に銘じるわ」 ──どんな、夢を見るんですか? 聞きたいけど、今は聞いてはいけない気がした。 「話変わるけど、あの量、よく持って来れたわね」 「え?なにがですか?」 「冷蔵庫開けた時、あたし大家族だったかしらって錯覚したわ」 「ああ・・・なんか、何買っていいかわからなくて。あれでもだいぶ戻したほうです」 「しばらくは何も買わずに済みそうだわ」 「いや、食べれない物は無理せず捨ててくださいね」 「あなたが買ってくれた物を捨てるわけないでしょ。ふふ、毎日雪音ちゃんを思い浮かべながら食べるわ」 「・・・早坂さん」 「ん?」 「って、変わってますよね」 「ええ!?何よ急に」 「いや・・・わたしたち、会ってそんなに時間が経ってるわけでもないのに・・・そこまで、その、大事に思ってくれてるから」 「あら、それは伝わってるのね。よかったわ。そうねぇ・・・年月で言うなら、そんなに経ってないわね。だからこそ、怖い部分もあるわ」 「と、ゆーと?」 「今でこうなのよ?この先あなたと時間を共有すればするほど、恐怖心も募っていくんだろうなって」 「恐怖心、とは?」 「うーん、そうねぇ・・・考えられる事全部、かな」 「それが聞きたいんですが」 「アハ、あたしもうまく説明できないわ」 「・・・わたしが、死んだら・・・とか?」 早坂さんは黙った。表情は見えないが、空気が張り詰める。何が、この人をこんなに不安にさせるんだろう。 「死にませんよ、わたしは」 早坂さんがこっちを向いたのがわかった。 「この先、時間を共有して、命の危険を感じる事があったら・・・その時は、早坂さんを盾にしてわたしは生き延びます」わたしも早坂さんを見た。「それでいいですか?」 「・・・クックックッ」ベッドが小刻みに揺れ始めた。早坂さんが暗闇の中でわたしの手を捕まえる。「そうね。気が楽になったわ。ありがとう雪音ちゃん」 「盾にするって言われて礼を言うのも、おかしな話ですけどね」 「雪音ちゃん」 「はい」 「さっきの、無かったことにしていい?」 「さっきの?」 「抱きしめていい?」 ──"何もしないから" 「・・・そーゆーこと、わざわざ聞かれると・・・」 「いい?」 無言は、肯定の証。 早坂さんはわたしの頭を持ち上げると、自分の腕を差し込み、そのままわたしを胸に抱き寄せた。髪にあたたかい息がかかる。 「う─、落ち着く」 わたしも、今回は緊張より安堵が勝ったらしい。説明しようのない幸福感に包まれる。 「わたしも、この部屋、落ち着きます」 「え?何もないのに?」 「早坂さんの匂いでいっぱいだから」 「お願いだから、あんまり可愛いこと言わないでちょうだい。あたしのために」 「え、あ、はい」 「うーん、これなら寝れそうだわ」 「同じく」 「最後に1つ聞いていい?」 「はい?」 「下着、どお?」 「・・・どお、とは?」 「サイズはどうしようもないけど、穿き心地とか?」 急な泊まりで下着を用意していなかったため、わたしは今、早坂さんの新品のボクサーパンツを拝借中なのである。スウェットは持っている中で1番小さな物を貸してくれたが、わたしが着ては関係ない。何にせよぶかぶかなのだから。 「そーゆう意味では、最高ですね。開放感あるし。ハマりそう」 「プッ、ならよかったわ」 「買って返しますね」 「そんなことしたらおしおきよ?家でパジャマにでもしなさい」 「・・・空舞さんに何言われるか」 「いいじゃない。あたしのパンツを穿いて寝る雪音ちゃんか・・・フフ」 若干、寒気がした。 「わたし、早坂さんの服だけで1週間過ごせそうなんですけど」 「ハハッ、もうあなたの物なんだから好きに着るといいわ。あなたがあたしの物を身につけてくれると嬉しいし」 「じゃあ、これから愛用します」 「今まで着てなかったの?」 「なんか、もったいなくて」 「なんでよ、じゃんじゃん着なさい。それで仕事に行きなさい」 「それこそ、何言われるか・・・」 「それが目的だからいーの。見せつけておやり」 ── 一真くんのことを言っているんだろうか。 「あー、あたしこのまま死んでも悔いは無いかも。なんならこのまま死にたいわ」 同じこと、考えてる。 「ふふ・・・」 朦朧とする意識の中で、わたしは早坂さんの背中に腕をまわした。ここに、早坂さんがいることを確かめるように。 出来れば、この先もこうやってそばにいたい。ずっと、そばにいさせてほしい。 おでこに熱い息がかかる。その熱と感触が消えないうちに、わたしは目を瞑った。

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