琥珀 / 第17話

17 変化

「雪音さん、なんでマスクしてるんすか?」 「ん、ちょっと顔がね・・・」 「顔が?あれ、なんか、でこ赤い?」 マスクをずらして醜い顔面を披露すると、一真くんはポカーンと口を開けた。 「どしたんすか、ソレ・・・肌荒れ?」 「いや、火傷」 「火傷!?・・・え、なんで顔に火傷?」 「鬼火にやられた」 「・・・はい?おにび・・・?」 「うん、火の妖怪」 「・・・雪音さん、大丈夫すか?熱とか・・・」 ここで、いつもより遅く春香が出勤してきた。顔を見てすぐわかった。二日酔いだ。程度は中といったところか。 「おはよー。なんでマスクしてんの?」 「おはようございます。春香さん、雪音さんが変です」 「別に驚かないけど、なんで?」 「火の妖怪にやられて、顔火傷したらしいっす」 「・・・は?」 わたしがマスクを顎にかけてニコリと微笑むと、春香は恐ろしい物でも見たかのように顔をしかめた。 「うわ・・・なにそれ、どうしたらそんな事になるわけ?」 「鬼火にやられた」 「おに・・・びぃ?アンタ、酔っ払ってる?」 「一緒にするなっ!」 「どうやったら顔にそこまで火傷負うのよ。花火でもしてたわけ?」 「・・・まあ、花火みたいなもんか」 「雪音さん、マジで大丈夫すか?疲れてるなら無理しないほうが・・・」 「無理はしてないんだけど、2人にお願いがあるんだよね」 「なんすか?」 「実は、足もちょっと負傷してまして、いつものように動けないと思うからフォローお願いしまっす!」 「・・・それはいいすけど、なんで?転んだんすか?」 「うん、まあ・・・」 「顔に火傷して足も負傷って、マジで何やってたわけ?」 「だからさっきから言ってるけど」 春香はうんざりしたように、はあ─と息を吐いた。 「ただでさえ具合悪いのに悪化しそうだわ。ま、わかったわ。アンタはドリンクメインにやって。あたしと一真くんでホールやるから」 「助かりまっす!」 「その顔晒してお客さん不快にさせても困るしね」 しっかり落とされるが、今日に限っては何も言えない。 「頼りにしてまっす!」 こんな日に限って、店は大盛況だった。早い時間から席は埋まり、長く居座る客もおらず、回転も早い。いつもなら喜ぶところだが、使い物にならない今日のわたしには罪悪感の要素でしかない。最後の客を見送った春香が5歳くらい老けて見えたのも、罪悪感から来るものに違いない。 「ごめんね一真くん、疲れたでしょ」 わたしが洗ったグラスを隣で拭いている一真くんの表情はいつもと変わらず爽やかだ。 「全然?これくらい余裕っすよ」 「さすが男の子」 「・・・男、の子ってつけられるとヘコみますね」 「えっ、そう?」 「男として見られてない気が・・・」 「とくに深い意味はないんだけど・・・」 「俺って男らしくないすかね」 「いや?背も高いし、体力もあるし」 「そーゆう見た目とかじゃなく、内面的には?」 「内面?」 「男としての魅力、ありますか?」 おっと──これは、久々の真面目モード。この子犬のような目で見つめられると、"どうにかしなくては"と思ってしまう。 「一真くんはイケメンだし気もきくし、モテると思う!」 「なんか、他人事だしぃ・・・俺は雪音さんにモテたいんですけどね」 うっ。こうやってストレートに来られると、何も言えなくなるのがわたしである。こんな時、冗談の1つでも言って上手くかわせるスキルがあれば──。 「あ"──、疲れた!足パンパン!」 ナイスタイミングで最後の食器を運んできた春香に、心の中でお礼を言った。 「ゴメンね、負担かけて」 「ホントよ、今日に限って死ぬほど忙しいし!」 文句を言いつつ、わたしが出来るだけ動かないように率先して仕事をこなすのがこの春香様だ。本当、仕事に関しては頭が上がらない。 「今度ビール奢る」 「言ったな!約束よ!」 「5杯までは」 「ケチくさっ!」 「アナタの気が済むまで飲ませたら破産する」 「・・・確かに」真面目な顔で頷いたのは一真くんだ。 「え、なになに?みんな飲みに行くの?」 話に割って入ってきたのは、本日も閉店後の一服に忙しい店長だ。 「店内は禁煙です」  365日中、300回は言うであろうこのセリフもいい加減やめようとは思うが、この姿を見ると口から勝手に発せられるのである。 「あ、いいですね〜、これから行っちゃいますぅ?店長のお・ご・り・で」 「だからさ、俺、奢らなかった時ないでしょ」 このセリフも365日中、150回は聞いている。 「ていうか、二日酔いじゃなかったの?」 「あら、よくわかったわね」 「具合悪い=二日酔い=100パーセント。でしょ」 一真くんがハハッと笑った。 「アンタも行くでしょ?その悲惨な顔もアルコール入れば少しはマシになるんじゃない?」 「ただでさえ赤いのに?わたしは予定あり」 「なんのよ」 早坂さんが迎えに来る時点で、誤魔化しようがない。だから正直に答えるまでだ。 「早坂さん来るから」 「えっ」 ハモったのは、春香と一真くんだ。 「今日も来るわけ?」 「・・・うん」 そうか、色々ありすぎて時間の感覚が麻痺していたけど、早坂さんは昨日もここに来ているんだ。 「なんで?」 「ん、ちょっと用事があって」 また根掘り葉掘り聞かれるのを覚悟していたが、今日の春香の反応は違った。わたしをジッと見据える。 「用事、ね。アンタ馬鹿の一つ覚えみたいにそう言うけど、付き合ってもいない男女がそんな頻繁に会う?」 ──あ・・・"ヤバい"。 毒を吐くのはいつもの事だが、わたしにはわかった。春香が本気でイラついている事を。わたしに対して不信感を抱いていることを。 「春香。あのさ・・・」 「なによ。実は早坂さんと付き合ってました、とか言うわけ?」 「違うよ。付き合ってない」 「あそ。それで?」 これも、いつもと同じ。どうでもいいかのような口調。でも、感じる。その裏にある切実な訴えを。 ──じゃあ、どうすればいい。何を言うのが正解? 言葉が、出てこない。結局、わたしは何も言えずに終わるだけだ。 「1つ聞くけど」 「・・・え?」 「何か面倒な事に巻き込まれてるとかじゃないわよね」 「・・・えっ?」 「早坂さんよ。あの人のせいで何かに巻き込まれてるとか、そーゆう事ではない?」 「・・・何かに?って?」 「あー!だから、何かによ!警察とか!家庭とか!性癖とか!とにかく何でも!」 「せい、へき・・・え?いや、違う、そーゆうんじゃ、まったく、ぜんぜん、違う」 「あっそ、ならいいわ。何してるか知らないけど、こんな秘密主義ほっといてあたし達は飲みに行きましょ〜」 わたしは洗っていたグラスを放り投げて、春香の首に抱きついた。 「ちょっ・・・なによ」 「ゴメン・・・何も言えなくて。心配しなくて大丈夫だから」 「そんなこと一言も言ってないけどね」 わかるよ。わたしが何か隠している事に春香は気づいている。疑問、不信感、苛立ち。でも、それ以上に心配してくれてるんだよね。 言えないことが、こんなにももどかしい。 ──ふと、思った。 言えないこと。本当に、そうだろうか。言っちゃ駄目なんて、誰が決めた? わたしが"普通の人間"と違うことを伝えたら、春香はきっと、信じない。いつものように薬をやっているだの熱があるだの散々言われて終わるだろう。でも、わたしが誠心誠意伝えたら?春香はどんな反応をするだろう。 「ちょっと、髪に洗剤ついてるんだけど」 「うん」 「春香」 「なによ」 「スキ」 「・・・この状態でマジッぽく言わないでくれる?一真くんドン引いてるわよ」 「や、引いてないっす。羨ましいなと」 「なになに、どーゆう状況?俺も混ざっていい?」 店長のことは当たり前に無視だ。 「わたしね、秘密があるの」 「・・・なんのよ」 「言っても、病院に連れて行かない?」 「病院?・・・どゆこと?」 「いつか、言うから。ぜったい・・・たぶん。それまで待っててほしぃ」 春香は、何も言わなかった。それでも、わたしの"本気度"は伝わったはず。わたし以上に、わたしの事を知っている春香だから。 「はいはい。よくわかんないけど、わかったわよ」春香がわたしの背中をポンポンする。「だから、いい加減離れてくれない?あたしの髪泡だらけなんだけど」 「あい。ごめんなさい」 わたしが離れると、春香はしかめ面で髪についた泡を手で拭いた。 「アンタがあたしに告白してる間に来たわよ」 「え?」 春香が窓の外を顎で指す。「一真くんもいるし、大体は片付いたから行っていいわよ。てんちょー、雪音この顔なんで、先に帰らしていいですか?」 「オーケーオーケー、その顔でよく頑張ってくれたね」 ──顔は関係あるか? 「何か事情があるんでしょ。いいから行きなさいよ」 また、抱きつきそうになった。それを察した春香が速やかに1歩退く。 「ごめん。ありがとう」 「え〜〜、雪音さん、今日も行っちゃうんすかぁ」 「一真くん、いーからほっときましょ。貸しを作るだけ作って後でたんまり奢られるのよ」 「俺、別に奢られたくないんすけど・・・」 「大丈夫。一真くんの分もあたしが飲むから」 「大丈夫の意味が全然わかんないんすけど」 「いーから、早く片して飲みに行くわよ」 春香のアイコンタクトを受け、わたしは速やか帰りの支度を始めた。 一足先に店を出て、わたしは自分の目を疑った。いつも通り早坂さんの車が停まっており、いつも通り早坂さんが立っている。 そして早坂さんの隣には──・・・「えっ。泳斗くん?」 「ユキネッ!」 泳斗くんはわたしに気づくと、ダッシュで駆け寄ってきた。そのままわたしの胸にピョンと飛び乗る。 「ビックリした・・・泳斗くん、なんでここにいるの?」 泳斗くんがわたしのマスクを不思議そうに見つめる。 「お疲れ様。さっき瀬野と一緒に迎えに行ってきたのよ。そしたらユキネは何処ってうるさくて。車の中でも動き回るし大変だったわ」 その大変さは早坂さんの表情から伺える。そして、ある事に気づいた。 「この服、どうしたんですか?」 「ああ、買ってきたのよ。正確には人に買わせたんだけど。誰にも見えないとはいえ、さすがに裸のままじゃね」 泳斗くんは白いランニングシャツに黒い短パンを穿いている。しかし、足元は裸足だ。 「着せるのも一苦労だったのよ。靴はどうしても穿きたがらないから諦めたわ」 「ふふ、可愛い」 「可愛い・・・ね。さ、行きましょう」 早坂さんが溜め息混じりに呟いた。車へ向かう早坂さんの背中が疲労を物語っている。わたしはそれが無性に可笑しかった。 「泳斗くん、その服似合ってるよ」 白いランニングシャツというのが妙に"ツボ"だった。最近見た映画で主人公の男性が幼少期に田舎で過ごした姿が正しくこれだ。そういえば、彼も家の周りを裸足で走り回っていたな。 「ボクはコレきらい」泳斗くんは肩の部分を引っ張り始めた。「なんで人間は服をきるの?」 「うーん、そうだね・・・恥ずかしいから?かな」 「はずかしい?なんで?」 「裸を見られるのはね、恥ずかしいんだよ」 「なんで?」 「なんで・・・だろ?わかんないや。みんな泳斗くんみたいに裸だったら恥ずかしくないかもね」 「うん!」 「おっと」服を脱ごうとした泳斗くんの手に触れた。「でもね、この服似合ってるし、わたしはこのまま着ていてほしいんだけど、ダメかな?」 「わかった!」意外にも、即答だった。それに何処か嬉しそうだ。 「あらあら、雪音ちゃんの言うことは素直に聞くのね」 「よーし、良い子だッ」 わたしは泳斗くんを高く抱き上げ、そのまま肩に乗せた。泳斗くんはキャッキャと嬉しそうに声を上げた。 「あら、力持ちねぇ」 「泳斗くんくらいならわたしでも出来ますよ。街で肩車してる親子とか見ると、いいなぁって思ってたんです」 「そうなの?なんだ、言ってくれればいつでもしたのに」 「・・・わたしがしたいのは、肩車する方で、される方じゃありません」 「良いこと聞いたわ。ふふ、今度ね」 ニヤリと笑う顔に悪寒が走った。そして、人の話を聞いていない。 毎度の如く助手席のドアが勝手に開き、わたしは自分が乗り込む前に後部席のドアを開けた。 「瀬野さんどうも。昨日ぶりです」 マスクの事を聞かれる前に、自分から外した。 「遊里から聞いてはいたが、想像より酷いな。どうやったらそんな事になるんだ」 「どうもなってない2人が異常なんです」 泳斗くんを瀬野さんの膝に乗せると、瀬野さんはあからさまに顔をしかめた。 「泳斗くん、大人しく座っててね」 「ユキネはどこに行くの?」 「何処にも行かないよ。前に居るから」 「ボクも前がいい!」 「あー・・・じゃあ、瀬野さん交代してもらえます?」 瀬野さんは助かったと言うように泳斗くんを膝から降ろし、自分もそそくさと車から降りた。瀬野さんからも、苦労が伺える。 わたしが瀬野さんと代わってシートに座ると、泳斗くんは後ろ向きにピョンと膝に飛び乗った。可愛すぎるだろ。 「ええ・・・アンタが隣なわけ」 すでに運転席についていた早坂さんが嘆いた。 「うるさい、我慢しろ。なんなら俺が運転するぞ」 「あ、そうね。じゃあ頼むわ」 そう言うと、早坂さんは運転席のドアを開けて光の速さでわたしの隣へとやってきた。瀬野さんは席を跨ぎ、運転席へ移動する。 「アムッ!」突然、泳斗くんが声を上げた。 「えっ、アム?空舞さん?」 泳斗くんは車内から空を見上げている。そしてその視線が前へと変わった瞬間、空舞さんが降り立った。 「・・・すごい。よくわかったね泳斗くん」 妖怪同士、何か通ずるものがあるのだろうか。レーダーみたいな? 「ああー、またそこに降りるのね」ドンマイ、早坂さん。 窓を開けると、空舞さんが飛んで中に入ってきた。そのままわたしの肩に着地する。 「空舞さん、一緒に行きますか?」 「ええ」 ──以前は絶対車や電車に乗らなかったのに。空舞さん、変わったな。 「よし、行くぞ」 「お願いしまーす」 やっと動ける。独り言を呟き、瀬野さんは車を走らせた。 泳斗くんにとっては、目に見える物全てが新鮮なんだろう。しばらく窓の外を眺めていた。クラクションの音がする度にビクッとしてわたしの手を握る。それが可愛すぎて悶絶しそうだった。 次に窓の開閉が気に入ったらしく、開けては顔を出し、閉めては窓にベッタリと顔をつけてその"跡"を楽しむ。見るに堪えない早坂さんは、目を瞑って現実逃避をしていた。 そして財前さん宅に着く少し前、泳斗くんは眠った。わたしの胸に顔を埋めて。 「羨ましいわ」 早坂さんはアームレストに肘をつき、手に顎を乗せて泳斗くんを見つめている。 「え?代わります?」 「いいの?」 「はい、寝てるし今なら動かしても気づかないかも」 「じゃあ泳斗くん後ろに寝かせるわ」 「・・・はい?」 「泳斗くんに代わってあたしがそこに行くから」 「・・・代わるのはわたしで、泳斗くんじゃありません」 「えー、少しくらいいーじゃない」 「よくないです。そもそも、早坂さんは受け止めきれません」 「じゃあ逆にしましょう」早坂さんが両手を広げた。「ほら、おいで」 ──この男、どこまで本気で言ってるのか。本当に行って困らせてやろうか? いや、早坂さんの事だ。困るどころか喜んですんなり受け入れられる可能性が高い。 最近はこんな時、決まって溜め息が出る。 「ちょっと、今ため息ついたでしょ」 嫌味を込めてもう1度繰り返す。 「ねえ、ソレなんのため息?あなた最近多いわよ」 窓の外に目をやり、無視に徹する。 「ねえちょっと、なんで無視するの?もしもーし」 早坂さんが身を乗り出しグイッとわたしに近づくのがわかったが、それでも無視だ。 「正輝の言った通りね」 この鈴のような声の持ち主は1人、ダッシュボードの上で静かに進路を眺めている空舞さんだ。 「ああ・・・だろ」 意味を理解しているのは瀬野さんだけだ。「もう慣れたけどな」 「あの、なんの話ですか?」 「あなた達よ。すぐに自分達の世界に入って周りにいる人間のことを忘れるって。その通りだったわ」 「・・・いつしたんですか、そんな話」 「学校へ行った時よ。あなた達が抱擁してる時」 「ほっ!抱擁!?」──ああ、早坂さんに抱き上げられた時か。「抱擁じゃありません。あれはただの嫌がらせです」 「あら、照れてるの?可愛いわ」 「照れてません」 「まったく、そんなに褒められたら、ねえ?雪音ちゃん」 ダメだ。この人まったく話が通じない。 「昨日もそうだったわ。わたしがいること忘れてたでしょ」 反論出来ないのは、間違いでもないからで。 「とにかく、早坂さんが悪いです」 「ええ!?なんでよ!」 「なんでもです」 「まあ、そうだろな」瀬野さんから1票頂いた。 「アンタは黙って前向いて運転してなさいッ」 「中条、ストーカーはエスカレートするからな。気をつけろよ」 「用心します」 「雪音ちゃん!?・・・もう、そうやって2人してイジメるんだから。あたしのガラスのハートが壊れそうだわ」 ──ガラスのハートの割に、やる事は大胆ですけどね。あえて、口には出さないが。 3度目の財前邸。ここに来ると、無性に懐かしい気持ちになるのは何故だろう。 早坂さんは前回同様、インターホンも鳴らさずに玄関のドアを開けた。 「財前さーん、来たわよー」 「入りなさい」 財前さんの声だ。でも、なんだかちょっと違う?穏やかだけど、こんなにか細くはなかったような。 「ずいぶん古臭い家ね」 「ちょっ、ダメですよ空舞さん、そんな事言っちゃ」 「ふるくさい!」 「泳斗くんも!シッ」 わたしが人差し指を口に当てると、泳斗くんも真似をした。 早坂さんを先頭に瀬野さん、わたしと続いて中に上がる。泳斗くんはわたしに抱かれ、空舞さんはわたしの肩というハーレム状態だ。 いつもの部屋の襖を早坂さんが開ける。 「やあみんな、いらっしゃい」 ──わたしは、目をしばたたいた。そして擦った。火傷が目にも影響を及ぼしているんだろうか。 「あの、財前さんのお父様でいらっしゃ・・・」 言いかけて、思い出した。財前さんが姿を変えられる事を。というか、年齢を。そこにいるのは、齢80は超えているであろうご老人だった。 「おっ、お久しぶりです、財前さん」 声が裏返り、早坂さんが噴き出す。 「雪音ちゃん、元気そうだね」 1つに結んだ髪型は変わらないが、色は真っ白で、声が掠れている。それに、着物の袖から覗かせる手首は触れたらポキっと折れてしまいそうなほど細い。 「財前さんも!お元気・・・そうで、何よりです」 声がくぐもったのは、自分の発言が的確ではないからで。 財前さんは顔に刻まれた深い皺を更に際立たせて微笑んだ。 ああ、やっぱり財前さんだ。 「君が、泳斗くんだね」 「・・・あっ、そうです。泳斗くん、この人は財前さんだよ。財前 龍慈郎さん」 「リュージロー!」泳斗くんが財前さんを指さした。 「りゅうじろうさん!だよ」 財前さんはハハッと笑った。 「構わないよ。そして君の肩にいるのが、空舞ちゃんだね」 「そうです!空舞さん、この人が財前さんです」 「今聞いたわよ。落ち着きなさい」 ──いや、その通りで。なんでわたしだけテンパっているんだろう。 「2人から話は聞いてるよ。まず、座りなさい」 財前さんの隣に瀬野さん。財前さんの向かいにわたし。その隣に早坂さん。これも、毎度同じだ。 膝に乗せた泳斗くんは大きな木のテーブルが気に入ったのか、撫でるように触り始めた。 財前さんは泳斗くんの手をジッと見つめた。 「ふむ。泳斗くん、ここに立てるかい?」 財前さんがテーブルにチョンと触れる。 「うん!」泳斗くんはわたしの膝を踏み台にして、ピョンとテーブルに上がった。 財前さんは顎をさすりながら泳斗くんをまじまじと観察している。 「その服、脱げるかな?」 「えっ!いいの!?」 泳斗くんは返事を待たずに着ていたシャツに手をかけた。着慣れていないせいか、少し手間取っていたが、ズボンはすんなりと脱いでみせた。 「ほう・・・これは、興味深い」 財前さんの視線は泳斗くんのヘソから下へ注がれている。 「でしょ?あたしも最初見た時、驚いたわ。こんな立派な物がついた妖怪、見た事ないわ」 「立派な物つーか、人間とまったく同じ物、だろ」 「あら、アンタよりは立派なんじゃない?」 「お前な・・・」 わたしの視線に気づいた早坂さんがハッとした。 「やだ!ゴメンなさい、雪音ちゃんには刺激が強かったわね。今のは聞かなかったことにして」 とくに反論はしなかったが、この人はわたしを何歳だと思っているんだろう。そりゃあ、春香には今時の中学生のほうがわたしより大人だと言われるけど。 「ありがとう。もう着てもいいよ」 「ボク、着たくない!」 「うーん、でも着たほうがいいかな」 泳斗くんは財前さんと目を合わせると、素直に言う事を聞いた。わずかだが、一瞬ピリッとした空気を感じた。 財前さんには有無を言わせぬ何かがある。泳斗くんもそれを感じるんだろう。 「泳斗くん、そこは腕だよ。頭はこっち」 服を着させてあげると泳斗くんは大人しくわたしの膝に座った。 「泳斗くん、君に家族はいるかい?」 財前さんの問いに、泳斗くんは首を傾げた。 「かぞく・・・?」 「ああ、君と同じような者は近くにいるかい?」 泳斗くんは首を横に振った。 「そうか。君は公園の池に居たと聞いているが、ずっとそこにいたのかい?」 泳斗くんはコクンと頷いた。 「自分が何故・・・いつからそこにいたのか、わかるかな?」 泳斗くんは、黙り込んだ。上から表情を覗き込むが、返答に困っているように見える。 「ボクは、ずっとあそこにいるよ」 財前さんは泳斗くんを見つめ、フッと微笑んだ。 「そうか。わかった」そして、視線が空舞さんに向けられる。「空舞ちゃん、君に関しては、とくに言う事もないかな。君達が聡明なのはよく知っているよ」 「君達?」言ったのはわたしで、肩にいる空舞さんは何も喋らない。 「ああ、僕の周りにもいるんだよ。空舞ちゃんと同じ姿をしたものが」 「そっ、それは、カ、カラス・・・ですか?」 財前さんはクスリと笑い、頷いた。 「そうだね」 「・・・やっぱり、喋るんですか」 「もちろん。みんなとても賢く、知的で聡明だよ」 それは妙に納得出来た。 「今度君にも紹介するよ」 「いえ、結構よ。わたしは昔から単独で動いていたから。これからも変える気はないわ」 財前さんはフッと笑った。 「そうか。まあ、今は1人じゃないようだしね」 空舞さんに笑み向けたが、何をニヤついているのと言われ、前に向き直った。 「財前さん、この子どう思う?」 言ったのは早坂さんだ。そのこの子は、木のテーブルの木目を興味深そうに指でなぞっている。 「そうだね。おそらくこの子は、君達の思っている通り・・・"僕と同じ"だろう」 「・・・同じ?」 「お前、わかってたんじゃないのか?」 「え?何を、ですか?」 瀬野さんが怪訝な顔で早坂さんを見た。 「本能ではね。雪音ちゃん、泳斗くんは半分人間なのよ」 「・・・・・・えっ!!」 「おい、全然わかってないぞ」 「いいのよ。雪音ちゃんは本能が働くけど、それを当たり前と捉えないから。それがあなたの良いところよ」 わたしに向ける早坂さんの笑顔は、フォローではなく本心だとわかった。それが情けないようで、でも嬉しくて、どんな顔をしていいかわからない。 「遊里の言う通りだね。驚いてはいたが、君はもう理解してしているだろう?」 「・・・はい。そう言われて、なんていうか、カチッとハマった気がします」 財前さんはハハッと笑った。 「それでいい。君のようにあらゆる視点から物事を考えられる人間は必要なんだ。そうじゃなくても、僕たちはこの類の事には固定概念が強くなってしまうからね」 財前さんが節目がちに2人を見る目には、わたしが知らない何かが映っている。 早坂さんは俯き微笑んでいるけど、その目は今ではなく、遠くにある別のモノを見ている。そう感じた。 わたしの手は、自然と早坂さんの横顔に伸びていた。 早坂さんがピクッと反応してわたしを見る。 「・・・あ、ごめんなさい」 頬から離れたわたしの手を早坂さんが素早く掴んだ。 「どうしたの?」 「・・・いえ、なんか、滅入ってるように見えて・・・勝手に手が伸びてました。ごめんなさい」 早坂さんは虚ろな表情でわたしを見つめた。 「もう・・・可愛いわねぇ」 「え」 「謝らなくていいのに。もっと触れていいのよ?」そう言い、掴んだわたしの手で自分の頬をスリスリする。 「ちょ・・・」 「あたしも触りたくなってきたわ」 「えっ」 今度は自分の両手でわたしの頬を挟み、マッサージするように揉み出した。 「ちょっ、早坂さん!やめっ・・・」 「あ〜、モチモチして気持ちーわ」 「やめっ、早坂さんッ」 「ギャッ!」 早坂さんの悲鳴の理由は、空舞さんがクチバシで早坂さんの手を突いたからだ。 「また始まったわね」 「お前らな、そーゆうのは2人の時にやれ」 瀬野さんは心底呆れている。さっきの車の件もあり、恥ずかしくなって顔を伏せた。 「ゴメンゴメン、ついね。そう、それで ──この子をどうするかって話だけど・・・」 「どうするか?」反応せざるを得なかった。早坂さんの声のトーンから良い事ではないのがわかる。「まさか・・・」 「いや、その必要はないだろう」 財前さんが即答してくれて、安堵した。 「この子は自分の事を何もわかっていないようだ。人間に害を与えるとも考えにくい。これはあくまで僕の臆測だが・・・おそらく母親は人間。言葉を話せるのも母親から覚えたのだろう」 「・・・でも、じゃあ、その母親は・・・」 「僕たちのように、"見える"人間なのは間違いないが、どういう経緯(いきさつ)でこの子が1人、その場所に居たかはわからない」 ──頭の中に、嫌な考えが押し寄せる。 泳斗くんには何の記憶もない。物心がついた時からずっとあの池にいたということは・・・産まれてすぐ、捨てられた──? 「でも、泳斗くんは何も覚えてないのに、どうして言葉を話せるんだろう・・・」 「ああ、僕も産まれた時から話せたよ」 「・・・・・・えっ」 「お腹の中で母親の言葉を聞いて覚えたみたいなんだ。僕自身、よくわかっていないんだけどね。母親は驚いていたよ」 いや、わたしも驚きというか、驚愕なのですが。 財前さんは堪えかねたようにプッと噴き出した。 「君の表情はコロコロ変わって、見てて飽きないよ。ついさっきまでは険しい顔をしていたのに」 あんぐりと開いた口を閉じた。 「でしょ?それが可愛いのよぉ」 早坂さんの顎がわたしの肩に乗る。 「早坂さん、近い」 これ以上何か言われる前に、早坂さんの顔を押しやった。 「それで、コイツはどーする?あの池にまた戻すか?」 財前さんではないが、自分の表情を制御出来ない。あの場所に、また戻す?あそこに、あの池に、1人ポツンと居る泳斗くんを想像すると胸が締め付けられた。かといって、わたしに出来る事は何もない。だから何も言えない。 「泳斗くん、君はまた、あの場所に帰りたいかい?」 財前さんの言葉にわたしは顔を上げ、泳斗くんはわたしを見上げた。 「ユキネは、くる?」 「あ・・・遊びには行けるけど・・・ずっと一緒にいるのは、無理なんだ・・・ゴメン」 泳斗くんは、わたしの腕をギュッと自分に巻きつけた。 「ボク、帰りたくない。帰らないと、ダメ?」 ── 財前さんの反応が知りたいけど、彼の顔が見れない。もしそこに、少しでも否定の色が見えたらと思うと、こわい。 「ダメ、じゃないよ」 一瞬、心臓が飛び跳ねたが、聞き間違いではないよね? 「だったら、僕と一緒に暮らさないか?泳斗くん」 「ッ・・・ええええッ!?」 「大きな声を出さないでって何度言ったらわかるの?」 「ゴメンナサイ!・・・あのっ、いいんですか?」 「ああ、僕は留守にする事が多いけど、雪人(ゆきひと)もいるし大丈夫だろう」 「・・・ゆきひと?」 「あ、雪音ちゃん会ったことなかったかしら?」 「雪人、入りなさい」 財前さんが廊下に向かって言うと、すぐに襖が開いた。 そこに立っていたのは、財前さんと同じく着物姿の男性だ。目にかかる黒髪で表情はよく見えないが、20代だろう。痩せ型で肌も白い。 「失礼します」 男性は財前さんの少し後ろに膝をついて座った。 「紹介するよ。深山 雪人(みやま ゆきひと)だ。雪人、彼女が雪音ちゃんだよ」 雪人さんはわたしに向かって頭を下げた。 「お初にお目にかかります。雪人と申します」 「あっ」わたしも慌てて頭を下げる。「初めまして、中条雪音と申します」 「財前さんからお話は伺っております。今後もお会いする機会があるでしょう。どうぞ宜しくお願いいたします」 「は、はっ!こちらこそ!」 隣で早坂さんがプッと笑うのが聞こえた。 なんというか、礼儀正しい人だ。自然と背筋がピンと張る。 「雪人、泳斗くんの事、頼んだよ」 男性は髪の隙間から泳斗くんを見つめると、わたしにしたように頭を下げた。 「宜しくお願いします」 ── そんな、子供相手に頭を下げなくても。よほど真面目な人なのだろうか。 「ユキヒト!」泳斗くんが雪人さんを指さして言った。 「泳斗くん。ユキヒトさん、だよ」 「構いません」 ──なんか、無表情でロボットみたいな人だ。 「あの、聞いてもいいですか?」 わたしの問いに雪人さんは顔を上げた。 「なんでしょう?」 「ゆきひとさんのゆきって、降る雪ですか?」 「・・・はい、そうですが」 雪人さんが不思議そうにわたしを見ているのは、続きがあると思っているからだ。 「わたしと同じか聞きたかっただけで、とくに意味はありません・・・スミマセン・・・」 「・・・そうですか」 いたたまれない沈黙に包まれる。 まったく、この口は、どうでもいい事をペラペラと。 「ちょっと、同じ雪だからってなんなの?」早坂さんがグイッと近づく。「そんなに嬉しいわけ?」 「ただ聞いただけです」 「見つめ合ってたじゃない」 「違います」 「興味持っちゃダメよ!」 「話を飛躍しすぎです」 「雪人!アンタ改名しなさい!」 「無理ですね」 冷静に返す雪人さんが、ジワる。 「なに笑ってるの?今、雪人見て笑ったでしょ」 「違いますよッ、てか何なんですかさっきから!」 「ボク、ここに住むの?」 泳斗くんが小さな声で呟いた。 「ああ、嫌かい?」 今度は大きく首を振る。「ううん!ボク、ここがいい!」泳斗くんは目をキラキラさせてとても嬉しそうだ。 「ふふ、よかったね泳斗くん」 泳斗くんはクルリと向きを変え、わたしの胸に抱きついた。 「ユキネもここに住む?」 「アハハ、わたしは一緒に住めないけど、遊びにくるね」 「いっぱい?」 「ふふ・・・うん」 「・・・フフ」──あ、今のはきっと、わたしの真似だ。泳斗くんは嬉しそうにわたしの服をギュッと掴んだ。いやだから、可愛すぎだろうって。 「羨ましいわぁ」 隣から聞こえてきた呟きは無視した。 「よし、そうと決まったら帰るぞ」言いながら瀬野さんが立ち上がる。 「そうだね、もういい時間だ。雪音ちゃん、いつでも来るといいよ。鍵は開いているから勝手に入ってもらって構わない」 「ええっ!?・・・はい、ありがとうございます」 早坂さんもだが、この人達には戸締りという概念は無いんだろうか。 3人に見送られ、わたし達は財前さんの家を後にした。 泳斗くんは最後の最後までわたしの胸にしがみつき離れようとしなかったが、またすぐに会いに来るという約束で解放してくれた。 その間、雪人さんはずっと頭を下げていて、それはわたしが玄関の扉を閉めるまで続いた。 「なんか、不思議な人ですね」 車に向かいながら、ボソりと呟いた。 「誰が?」 「雪人さん」 「興味持っちゃダメって言ってるでしょ!」 「持ってません。なんか、ずーっと無表情だし、ロボットみたいだなって・・・」 「本当にロボットなんじゃないか」真面目なトーンで言ったのは瀬野さんだ。「ありえなくもないだろ」 「まあ、そうね。喜怒哀楽の何1つとして見た事がないわ。案外中身は機械だったりして」 「・・・2人してやめてくださいよ。あの人は、その、人間ですよね?」 「ええ、ロボットかはわからないけど妖怪でない事は確かよ」 「言うなら財前さんの付き人だ」 「・・・付き人、ですか」 「なぁに?ヤケに雪人のこと気にするわね」 「え?あ、いや・・・2人以外に初めて会ったから。その、"見える"人に。なんか新鮮で」 「それを言うなら、他にもっといるぞ。見える奴らは」 「なるほど・・・あ、ムカデの時、電話よこした人もそうですよね。確か、須藤さん?」 「よく覚えてるな。そのうち会う事もあるだろ」 「いいのよ会わなくても。ヤローは」 「お前もヤローだろ」 「だからあたしだけでいいの。雪音ちゃんの担当はあたしなんだから。ね?」 ね?って、そんな笑顔で言われても──担当って、なんだ。 帰りの車も当たり前のように瀬野さんが運転席へと向かった。早坂さんは後部席のドアを開けると、珍しく自分から先に乗り込んだ。 「・・・なんですか」 「ほら、おいで」 早坂さんはシートに座り、わたしに向かって手を広げている。 「なんで?」 「今度はあたしが抱っこしてあげるわ」 「結構です」 「わたしはここで失礼するわ」言ったのは、肩にいる空舞さんだ。 「えっ!一緒に行かないんですか?」 「あなた達と同じ空間にいるのは苦痛よ」 「えええ・・・」 「すぐ自分達の世界に入るしね。じゃあ、また」 そう言い、空舞さんはいつものように夜の空へ羽ばたいて行った。 「同感だ」やっと聞き取れる声で瀬野さんが囁いたのは、聞こえなかった事にする。 「もお、つれないわねぇ」 ──この人だけは、気にも留めていないようだ。わたしは溜め息と共に、車へ乗り込んだ。 広いシートに深く腰掛け車に揺られると、なんとも言えない疲労感が一気に押し寄せてきた。そりゃあそうだ、鬼火の件からまともに身体を休めていないのだから。 でも、それ以上に──・・・。 「よかったわね」 「・・・え?」思わず、自分が口にしていたと錯覚しかけた。 「泳斗くんよ。あそこに帰す事にならなくて」 「・・・はい。わたしも今、そう思ってました」この人は本当に、わたしの脳内が見えてるんじゃ? 「まさか財前さんがああ言うとは思わなかったわ」早坂さんは笑いながらルームミラーで瀬野さんと目を合わせた。 「わたしもです。でも、本当にありがたかったです」 早坂さんはやれやれと言うように笑い息を吐いた。 「まるで母親のようね。少し入れ込みすぎじゃない?」 「あは。なんか、泳斗くん見てるとほっとけなくなるんですよね」 あの子が1人寂しい想いをしていたのは事実だ。人間じゃないとはいえ、ただの小さな子供でしかない。 「まあ、それがあなたの良い所でもあるんだけど。あたしは少し心配になる時があるわ」 早坂さんの切なそうに笑う横顔に、胸がきゅうっと締め付けられた。 「大丈夫です。早坂さんが見ててくれるから、わたしは安心出来るんです」 早坂さん元々大きな目を更に大きくした。もしかして、大胆な事言ったか、わたし。 「お前、そんな事言うとストーカーが悪化するぞ」 前方からの突っ込みに、早坂さんはガクッと頭を垂れた。 「・・・腹立つけど、今のは助かったわ」 「助かった?」わたしの頭の上にはクエスチョンマークが1つ。 「勝手にね、手が出そうになるのよ」 「・・・手?」クエスチョンマークがまた1つ。 早坂さんはわたしの頭をワシャワシャと掻き乱した。 「なんでもないわ」 ──全く意味がわからないんですけど。 その意味を理解したのは、それから数分後だった。窓の外を眺めながら、昨日の事を思い出していた。目を開けた時、早坂さんの顔がすぐ近くにあった。ほんの、数センチ先に。 手が出そうになるって、そういう事?わたしに対して? 横目で早坂さんを見ると、澄ました顔で携帯をいじっている。 首にキスしたり、額にキスしたり、口に──しかけたり──この人の行動はわからなすぎて、本当に腹が立つ。 「たらし・・・」 車の音でかき消されるくらいの小声で呟いたが、早坂さんはピクリと反応してこちらを見た。 「今、何か言ったわよね」 「言ってません」 「嘘おっしゃい!聞こえたわよ」 「何も言ってないので空耳ですね」 「なんでそんな事ばっか言うの!ねえ、ちょっと、聞いてる?」 そんな事ばっかりって、逆になんでそんな事ばかりするんですか?わたしは窓の外に目を向け、早坂さんの抗議を無視し続けた。 瀬野さんを降ろした後は、早坂さんの命令で助手席へ移動してわたしの家へと向かった。 一瞬だった。家がもっと遠くだったらよかったのに。最近は毎回思う。そう思うのは、もっと一緒にいたいからで──やっぱり、わたしはこの人が好きなんだと実感させられる。 「じゃあ、今日もありがとうございました。ゆっくり休んでくださいね」 「あなたもね」 ドアを開けようとしたわたしの手を、早坂さんが掴んだ。 「雪音ちゃん、何か、悩み事ある?」 本日3つ目のクエスチョンマークが現れた。 「え?悩み事?・・・ですか?」 「勘違いだったらいいんだけど、今日お店から出てきた時、少し元気ないように見えたから。何かあったかなって」 ── この人は本当に・・・ここまで来ると、怖さすら覚える。 今日は店を出た後すぐに泳斗くんを見つけて、そんな素振りは一切無かったはずなのに。 「悩みというか・・・ちょっと滅入ってたのはホントです」 「あたしでよかったら話して。言いたくないなら聞かないわ」 わたしが黙っていると、早坂さんがギュッと手を握った。 「やっぱり気になるから聞きたいわ」 その言い様に、思わず噴き出した。 「・・・春香、なんですけど」 「うん?」 「2人に会ってから、こうやって出かける機会も増えたじゃないですか」 「うん」 「最初は誤魔化せてたけど、こうやって続くと、やっぱりおかしいなって思うんですよね。出かけるのはいつも夜遅くだし。何してるの?って聞かれても、本当の事言えるわけないし。わたし嘘が下手だから、いつも変な態度とっちゃって・・・」 「あー、春香ちゃんはあなたに隠し事されてると思ってるのね」 「はい。深くは聞いてこないんですけど、今日は春香のわたしに対する不信感が凄く伝わってきて」 「本当に仲が良いからこそ、少しの違和感も気になるのよね」 「・・・本当の事を言えないのが、もどかしくて。辛くて」 「言えないって、誰が決めた?」 「・・・・・・え?」 「言っちゃダメって、誰かに言われたの?」 「いや・・・だって・・・」 ──いや、そう。わたしもそう思ったんだ。本当の事を言ったらダメなの?と。そんなの誰が決めたの?と。 「あなた達が本当に信頼し合ってるなら、あなたの言葉をちゃんと聞いてくれると思わない?」 「・・・そうなんですけど・・・」 「こわいのよね。どういう反応されるか。頭がおかしいと思われるんじゃないかって」 その通りだった。春香なら信じてくれると思う反面、昔の母さんの事を思い出すと、口にするのがこわい。 「あたしは、あなたの気持ち1つだと思うけど。言いたいと思うなら言うべきよ。先の事ばかり考えないで、あなたの気持ちを大事にしなさい。あなたが伝えたいと思うほど大事な人なら、相手もわかってくれるんじゃない?無責任に聞こえたらゴメンなさいね」 ──不思議だった。心のモヤが一瞬にして吹き飛んだ。 「まあ、もしもの時はあたし達がいるし?証明という意味では・・・」 「早坂さん!」早坂さんの手を両手でギュッと握った。「ありがとうございます!」 「え?あ、うん・・・」 「わたし、なんか勇気湧いてきました」 「それは良かったけど、最後の話聞いてた?」 「近々言おうと思います!」 そうだ。わたしは春香に伝えたい。聞いてほしい。先の事ばかり考えて怖がるな。 「聞いてないわね」 「よし!じゃあわたし帰って、シミュレーションしますね!」 「・・・ああ、そう。シミュレー・・・」 「ではまたッ!気をつけて帰ってくださいね!」 車を降りて、意気揚々と部屋へ向かった。 そうだ。わたしは言うんだ。やっと、言える日が来たんだ。 今までのわたしなら、絶対こんなふうには思えなかった。早坂さん達との出会いが、わたしに変化をもたらした。それはきっと泳斗くんも同じで──わたしはもっと、自分に自信を持ちたい。 「あら、今日は振り返ってくれないのね」 その日、早坂さんが車の中で寂しげに呟いていたのは、知る由もない。

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