ひばり / 第69話

第8話 愛され委員長のオシゴト④

 事態が収束し、静まり返った教室に、電子ロックが解除される乾いた音が響いた。  そこに現れたのは、いつも通りの澄ました顔をした黒崎聖だ。 「……何があった」  黒崎が足を踏み入れた室内は、まさにカオスそのものだった。  床にへたり込んで塞ぎ込む幸田、魂が抜けたように机に突っ伏す時枝、そして一人だけ平然と髪を整えている千田。 「あれ、黒崎くん?もしかして、私のことが心配で駆けつけてくれたの?」  千田は一瞬で怯える美少女の仮面を貼り直し、潤んだ瞳で彼を見つめる。 「……違う。学園のイントラネットに、看過できないレベルの異常なログを察知した。その発生源を確認しに来ただけだ」  黒崎は迷惑そうに自身のリンカーを弄り、千田の視線を冷たくあしらう。 「そうなんだ。でも私、すっごく怖かったから……。黒崎くんが来てくれて、本当に嬉しいな」  千田はしおらしく微笑むが、その隣にいる時枝の耳には、リンカーの|指向性通信《プライベートメッセージ》で彼女の《《本音》》が直接流れ込んできた。 『——見て見て時枝くん!黒崎くんのあの「何だこの女」って言いたげな困惑の顔!いただきました!最高のご馳走だわ……!』 (……こいつ、本当に……っ!)  時枝はもはや突っ込む気力すら湧かず、ただこめかみを押さえるしかなかった。一方、黒崎は二人の温度差など気にする様子もなく、床で震えている幸田の前で足を止めた。 「……彼女は。もしかして、今回のノイズの発生源か」  黒崎は無機質な手つきで宙にコンソールを展開し、幸田のリンカーから漏れ出している残存ログの|追跡《トレース》を開始する。 「……ダークウェブで出回ってる、自己増殖型の強制ダイブ・スクリプトだな。誰にでも使えるツールだが、引き換えに自分の個人情報を裏で横流しされる代物だ。正気の沙汰じゃないな」  黒崎の指が止まる。彼は一瞬だけ、背後に立つ千田を怪訝そうに振り返った。 「……このログ、解析結果が歪んでいる。まるで、何かに《《無理やり書き換えられた》》ような……」 「えー、何のことかな?」  千田は小首を傾げ、どこまでも無邪気に笑ってみせる。  必死なんだろうな、と時枝は思った。あくまで彼女は、黒崎の前ではただの同じクラスの委員長として認識されたいらしい。 「ねえねえ。彼女、すっごく辛そうだから、私が保健室まで連れて行ってきていいかな?」  幸田の肩を抱く千田の指先が、トントンと一定のリズムで叩いている。 「大丈夫だよ、世莉ちゃん。保健室で、ゆっくり二人だけでお話ししよう?私たち、ずっと《《トモダチ》》だものね」  その声には、先ほどまでの怒りも、友情も、一片も混じっていない。ただ、新しいログを整理するための、冷徹さだけが宿っていた。  二人が教室を去り、静寂が戻る。  残された黒崎は、自身のリンカーに表示された異常ログの残滓を消去し、ふと時枝を振り返った。 「……時枝」 「どうした」 「委員長は、逞しいな。……あんな攻撃を目の当たりにして、かなり怖い思いをしたはずだ。今は気が張っているだけかもしれない。……クラスメイトとして、少しはケアしてあげろよ」  黒崎の双眸には、一点の曇りもない善意と気遣いが宿っていた。  鏡の前で《《ルシフェル様》》の決めポーズを練習し、黒崎の隠し撮りでフォルダを埋め尽くしている女に対して、この男は何という恐ろしいアドバイスを贈るのか。 「……いや。あいつに限って、そんなことは絶対にないと思うぞ」 「なんだ、薄情なやつだな。助けてもらったんだろう?」  黒崎は心底意外そうに眉を寄せる。 『ねえ時枝くん、今の聞いた!?「ケアしてあげろ」だって!わざわざ様子も見に来てくれたし……何あれ、もしやツンデレなの!?あー、もう、世莉ちゃんには感謝しかないよ!最高のイベントを発生させてくれて、本当にいい仕事してくれたなぁ!』  頼むから黙ってくれ――そう叫びたい気持ちを時枝はぐっと堪え、ただ唸るしかなかった。  黒崎の無垢なまでの善意が、この女の歪んだ推し活を加速させる燃料になっている。その事実に気づいているのは、この教室で自分一人だけだという敗北感が、重くのしかかる。 「それよりもお前、……。いや、まあ、いいや」 「……?変なやつだな」  黒崎は本を抱え直し、何事もなかった顔で悠然と教室を後にした。  一人残された時枝は、夕闇に沈む教室で、力なく椅子に座り込んだ。 ◆◆◆  嵐が去った後の教室には、いつもの喧騒が戻っていた。  数日ぶりに復帰した佐藤大樹が、包帯こそ巻いていないものの、どこか病み上がりの不安定な足取りで時枝の席に近づいてくる。 「よう時枝。……全く、酷い目にあったわ」 「俺も危なかったよ」  時枝は嘘偽りのない実感を込めて返した。物理的なダメージよりも、精神的な汚染の方がよっぽど深刻だった。 「誰もはっきりとは言わないけどさ。……犯人って、やっぱり幸田だよな?あのタイミングで転校なんてさ。大人しい顔して、本当、何考えてるか分からないよな」  佐藤の推測に、時枝は曖昧な苦笑いを返すことしかできなかった。  幸田が転校したのか、あるいは千田の手によって——システム上の|不要な一時ファイル《キャッシュ》として処理されたのか。それを確かめる勇気は今の時枝にはない。  ふと視界の端で、完璧な微笑みを振りまきながらノートをまとめる千田と目が合った。彼女は時枝に向かって、一瞬だけいたずらっぽくウインクしてみせた。 (……全部俺に押し付けやがったな、あの委員長)  千田が幸田の暴走を上書きし、ねじ伏せた事実は、ネットワーク上から綺麗に消去されている。  代わりに流布されているのは、「転校生の時枝が、持ち前のハッキング技術で千田と幸田の窮地を救った」という、千田が捏造したあまりにも都合のいい英雄譚だ。  そこに、もう一つの誤解の種が近づいてくる。 「……時枝」  聞き慣れた声。だが、そこにはいつものような刺々しい攻撃性はない。  振り返ると、有明が所在なさげに自分の腕をさすりながら立っていた。 「寧々から聞いた。あんたが、……色々場を収めてくれたって」 「いや、俺は何もしてないけど」  反射的に否定したが、それが逆効果であることは有明の潤んだ瞳を見れば明らかだった。 「……あんた、やるじゃん。その、私、今まで……寧々のことで、酷くあたってごめん」 「いいって。本当に、俺、大したことは……」 「……あんたって本当に、そういうところあるわよね。……この埋め合わせは、いつか絶対させなさいよ!」  普段の調子で強気な言葉を残すと、有明は気まずそうに視線を逸らし、自席へと戻っていった。 「は?」  ポカンと口を開ける時枝の肩を、佐藤がニヤニヤしながら叩く。 「……おいおい、今度は有明かよ?転校早々、委員長とエースをダブル攻略か?お前、案外節操ないよな」 「……どうしてそうなるんだ。帰らせてくれ」  時枝は机に突っ伏し、深く、重い溜息を吐いた。  守りたかった平穏な日常は、もはや影も形もない。

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