芦名 雅 / 第24話

第6話 私の仕事です

 一月半ば。収録当日の朝、私は鏡の前で三度目の深呼吸をしていた。ホテルの制服ではない。番組側から「派手でなければ普段着で」と言われ、紺色のブラウスと黒いパンツを選んだ。料理研究家としてテレビに出ていた頃は、スタイリストが服を持ってきて、髪もメイクも人に整えてもらっていた。今日は全部、自分で決めた。それだけのことなのに、鏡に映る自分が少し知らない人に見えた。  机の上には、番組から事前に送られてきた質問項目と、私が持参できる資料が並んでいる。汐風館の朝食改善については、ホテル側の許可を取った記録を使える。予約人数を厨房へ共有する時刻を変えたこと。終盤の補充方法を変えたこと。客前へ出した料理の残りを記録し始めたこと。  一方、十月の盗作騒動について持ち込めるものは少ない。私用メールに残っていた担当開始の通知。公開済みの会社発表。私自身が保存していた、社外へ出して問題のない仕事の予定表。共有クラウドの版履歴はない。社内メールもない。最初の企画会議の議事録もない。  知っていることと、今ここで証明できることは違う。それが、今日いちばん怖かった。スマートフォンが震えた。 『ロビーにいます』  黒瀬さんからだった。  短い。  私はコートを羽織り、資料をバッグへ入れた。部屋を出る前に鏡をもう一度見たが、今度は深呼吸をしなかった。逃げないと決めたのは、十二月だ。今日は、その続きをするだけだった。  ロビーへ降りると、黒瀬さんはフロント横で井上さんと話していた。 「おはようございます」 「おはようございます」  私を見るなり、黒瀬さんの視線がバッグへ移る。 「資料、持ちすぎてませんか」 「必要なものだけです」 「その言葉、信用していいですか」 「仕事なら、かなり信用あるんでしょう」  十二月のやり取りを返すと、黒瀬さんは一瞬黙った。 「覚えてたんですね」 「そっちこそ、砂糖の本数を覚えてるじゃないですか」  井上さんが私たちを交互に見てから、何も聞かなかったことにして書類へ目を落とした。 「番組側とは最終確認済みです。水瀬さんが出せない資料を求めないこと、過去の件だけで終わらせずホテルの改善を扱うこと。それから、橘さん側も出演を受けたそうです」  分かっていたはずなのに、圭吾の名前を聞くと身体が少し固くなる。 「同じスタジオですか」 「はい」 「そうですか」  黒瀬さんが何か言いかけた。私は先に首を振った。 「大丈夫です、とは言いません」 「言わないんですか」 「言うと、たぶん本当に大丈夫なふりをするので」  自分で口にしてから、少しおかしくなった。 「怖いです。でも行きます」  黒瀬さんは頷いた。 「分かりました」  それだけだった。  励まさない。  代わりに答えない。今は、その方がありがたかった。 ◇  地域局のスタジオは、私が以前出ていた全国放送の収録現場よりずっと小さかった。派手なセットもない。中央に丸いテーブルが置かれ、その向こうにモニターが一枚ある。番組名は『地域のこれから』。観光、商店街、農業、宿泊業などを取り上げる週一回の経済番組だという。控室で簡単なメイク直しをしてもらい、スタッフから流れを説明される。 「前半は汐風館さんの朝食改善です。現場VTRを見てから、水瀬さんと黒瀬さんにお話を伺います。そのあと橘さんにも入っていただいて、十月の件について確認できる範囲をお聞きします」 「確認できる範囲、ですよね」 「はい。断定できないことを無理に答えていただくつもりはありません」  ディレクターの女性はそう言ってから、少し間を置いた。 「ただ、会社側からは従来の発表を変える回答は来ていません」 「『私が個人で持ち込んだ企画』という?」 「現時点では、その説明です」  胸の奥が重くなる。 「分かりました」 「橘さんは、料理監修と自身の担当範囲について答えると聞いています」 「はい」  スタッフが出ていく。数分後、廊下の向こうでドアが開く音がした。聞き覚えのある声がする。身体の方が先に反応した。  圭吾。  会うのは、婚約指輪を店のテーブルへ置いた夜以来だった。控室のドアを開ける必要はない。収録まで待てばいい。そう思ったのに、水を取りに廊下へ出たところで、ちょうど向こうから歩いてきた。白いコックコートではなく、濃いグレーのジャケットを着ている。少し痩せたように見えた。疲れているのか、と一瞬だけ思う。けれど、その問いは口まで上がってこなかった。 「千晴」  圭吾が足を止めた。 「久しぶり」 「……うん」  それだけで会話が終わりそうになる。 「ホテル、続けてるんだな」 「うん」 「ネットで見た」 「そう」 「大変だったろ」  その言葉に、何を返せばいいのか分からなかった。 「圭吾も」  結局、同じようなことを返した。 「店、キャンセル出てたでしょう」 「まあな。でも今はだいぶ戻ってる」 「そっか」  店が戻っていると聞いて、ちゃんと安心した。けれど、その先に何かをしてやらなければという衝動は続かなかった。圭吾が私のバッグを見た。 「資料、持ってきたの?」 「出していいものだけ」 「千晴、全部説明しようとするなよ」 「え?」 「今ある材料で、全部決着つけるのは無理だろ」  言われた瞬間、反発が先に出かけた。けれど、言っていること自体は正しい。 「分かってる」 「ならいい」 「でも、黙るつもりもない」  圭吾が少しだけ眉を寄せた。 「僕を犯人みたいに言うなら、こっちも言うことはある」 「そんなこと言ってない」 「世間はそう取る」 「世間がどう取るかだけで話すことを決めたくない」  自分の声が思ったより落ち着いていた。圭吾は何か返そうとして、やめた。 「本番で話そう」 「うん」  すれ違う。  振り返らなかった。  胸は痛かった。  でも、以前のように足が止まるほどではなかった。  控室へ戻ると、黒瀬さんが椅子に座っていた。 「会いました?」 「廊下で」 「大丈夫ですか」 「怖いです」  今度は、すぐそう言えた。 「でも、行けます」  黒瀬さんはそれ以上聞かなかった。収録開始の声がかかる。私はバッグから資料を取り出し、スタジオへ向かった。最初に流れたのは、汐風館の朝食風景だった。焼き魚を一枚ずつ確認する赤坂さん。小鉢の数を書き込む美月さん。朝食会場で残りを見ながら追加数を決める森下さん。フロントから六時の人数を受け取る厨房。画面の中で、私は数字を書いた紙を持っていた。ナレーションが入る。 『以前は、前日と当日の宿泊変更が厨房へ届くタイミングが一定せず、経験を頼りに多めの仕込みを行っていました。現在は、前日夕方と当日朝に人数を共有。提供終盤の追加量も調整し、料理の質を落とさず廃棄を減らす取り組みを続けています』  映像が終わり、司会者の女性が私へ向いた。 「水瀬さん。インターネットでは『水瀬さんがホテルの朝食を立て直した』という書き方もされています。実際には、どうなんでしょう」 「私一人では無理です」  この質問には迷わなかった。 「私は、予約の数字と厨房の仕込みをつなぐ方法を考えました。でも魚をどう扱うかは料理長の赤坂さんが知っている。朝の現場時間は佐伯さんが知っている。会場のお客様の動きは森下さんが見ています。フロントの予約を井上さんが管理して、経理の植村さんが数字をホテル全体へつなげる。私は、その間にある数字を並べ直しているだけです」 「『だけ』ですか?」  司会者が聞き返す。私は少し考えた。 「『だけ』って言い方は、違いました」 「では?」 「並べ直すのも仕事だと思っています」  口にすると、胸の奥が少し震えた。 「料理を作る人がいて、運ぶ人がいて、予約を見る人がいて、それぞれが持っている情報をつなぐ人も必要です。私は、そこをやっています」  隣で黒瀬さんは黙っていた。司会者が次の質問へ移る。 「では、十月の件について伺います。水瀬さんは当時、会社から『個人で持ち込んだ企画』と発表されました。この点については?」  来た。  私は持参した資料へ手を伸ばした。 「まず、五月に私がこの案件へ入った時点で――」  言いながら、担当開始通知、当時のスケジュール、公開済みの仕様書をまとめて出そうとした。 「私は量産仕様と原価、工程、表示を担当していて、その前に企画が――」 「水瀬さん」  司会者が穏やかに止めた。 「確認ですが、その『前に企画が存在した』ことを示す社内資料は、今日ここで公開できますか?」  手が止まる。 「できません」 「会社側からは、現時点で企画経路に関する追加資料は提供されていません。ですので、ここで企画の起点を確定するのは難しいと思います」  分かっていた。  それでも悔しかった。頭の中には、あの日見た共有クラウドの構成も、私が途中参加だった記憶もある。でも、記憶は証拠ではない。ここで全部説明しようとすれば、証明できない部分まで言い切ることになる。 「……はい」  私は資料を一度閉じた。  司会者が言う。 「一方で、今日確認できる範囲で、ご自身の担当については説明できますか?」  その質問で、視界が少し開けた。 「できます」  私は仕様書の公開部分だけを机に置いた。 「この商品の最終仕様書に、責任者として私の名前があるのは事実です。私は量産時の分量、工程、原価、保存条件、食品表示をまとめました。だから、最終仕様について責任がないとは言いません」 「企画そのものは?」 「私が作ったとは言っていません。ただ、今日はそれを証明する資料を出せません。だから、そこは『私の記憶では違う』以上のことは言いません」  自分で言って、悔しさと同時に少しだけ楽になった。証明できないことまで背負わなくていい。でも、証明できる自分の仕事まで捨てる必要もない。司会者がモニターへ目を向けた。 「ここで橘圭吾さんにも加わっていただきます」  スタジオの横から圭吾が入ってくる。向かいの席へ座る。  近い。  十月の店のテーブルより、距離だけなら近かった。 「橘さん。水瀬さんは、最終仕様の責任を認めつつ、企画を自分で持ち込んだ認識はないと話しています。橘さんの認識はどうでしょう」  圭吾は少し間を置いた。 「千晴が途中から商品開発へ入ったことは知っています」  スタジオの空気が変わった。司会者が確認する。 「途中から、というのは、料理の基本案ができたあとですか?」 「少なくとも、僕が最初に料理の方向性を見せられた時には、千晴はその場にいませんでした」  心臓が強く打った。会社の発表と、初めて公の場で食い違った。 「では、会社が『水瀬さん個人から持ち込まれた』と発表した時、違和感は?」  圭吾の口元が硬くなる。 「ありました」 「訂正を求めましたか?」 「……しませんでした」 「なぜですか」 「僕の店にもキャンセルが出ていました。スタッフもいた。あの時は、自分の店を守ることで精一杯でした」  聞いたことのある説明だった。あの夜と同じだ。ただ、今日は私と圭吾だけのテーブルではない。 「水瀬さんは、今の話をどう受け止めますか」  司会者に聞かれる。言いたいことは山ほどあった。どうしてあの時言ってくれなかったのか。知っていたなら、なぜ私だけに任せたのか。けれど、それを全部ここでぶつけても、私が今日伝えたいこととは違う。 「圭吾が店を守りたかったことは分かります」  私は言った。 「分かるから、傷つかなかったわけではありません」  圭吾が私を見る。 「でも、私は圭吾が盗作を指示したと言いたいわけじゃないです。そこは、私には分かりません」 「千晴」 「ただ、私が途中から入ったことを知っていたのに、会社の発表を訂正しなかった。それは今日、圭吾自身が話したことです」  圭吾は否定しなかった。司会者が続ける。 「橘さんから見て、水瀬さんはどんな役割の方だったんでしょう」 「現場を回すのは得意でした」  圭吾の声は、少し慎重になっていた。 「僕が料理を作って、千晴が商品にする。原価を合わせたり、工場や店舗で再現できるようにしたり、表示をまとめたり。僕は、そういう細かいところを任せていました」 「その仕事は、橘さんの仕事の一部ですか?」  圭吾が一瞬止まった。 「共同ブランドの仕事ではあります」  曖昧な答えだった。  「共同ブランドの仕事」。その言葉に、二人で一つの名前にまとめてきた時間が重なった。今日は、そこで自分の担当まで曖昧にしたくなかった。 「共同ブランドの仕事です」  私は口を開いた。 「でも、圭吾が料理を考えた仕事を、私の仕事だとは言いません」  圭吾がこちらを見る。 「味を作るのは圭吾の仕事でした。盛り付けを決めるのも、料理の核を考えるのも。そこは圭吾の仕事です」  私は一度息を吸った。 「だから、私がやった仕事も、誰かの仕事の中に消したくありません」  スタジオが静かになる。 「百食、千食になっても同じ品質で出せるように工程を作ること。原価を合わせること。表示を確認すること。人が無理なく作れる順番にすること。それは、私の仕事でした」  声は震えていたと思う。でも、止まらなかった。 「今、汐風館でやっていることも同じです。料理を作るのは料理長です。私は、その料理が明日の朝も、その次の朝も、必要な人にきちんと届くように考える」  自分の言葉が、自分の中へ戻ってくる。 「それが、私の仕事です」  誰かを言い負かした感じはなかった。圭吾が負けたとも思わなかった。誰かの仕事を奪わず、自分がやった範囲だけを自分の名前で置けた気がした。司会者が少し間を取り、黒瀬さんへ向いた。 「黒瀬さん。最後に一つだけ。現在も盗作疑惑が完全には解消されていない水瀬さんを、なぜ汐風館は雇い続けるのでしょう」  黒瀬さんは、私を見なかった。カメラの正面を向いたまま答えた。 「十月の件の真偽は、うちが判断できることではありません」 「それでも採用した」 「展示会が中止になったあと、未提供の食材を安全に分けているのを見ました。その後、うちで三日間、厨房と数字を見てもらった。今は、ここでやった仕事を見て評価しています」 「世間の評判より、目の前の仕事を?」 「仕事の評価なので」  短い答えだった。それ以上、私の無実を代わりに主張しない。でも、今の私の仕事については迷わない。そのことが、何より心強かった。収録が終わると、照明が少し落ちた。スタッフがマイクを外しに来る。圭吾は席を立ったあと、私の前で止まった。 「言うようになったな」 「そうかな」 「ちゃんと、自分の仕事だって言ったな」  胸の奥に、小さな痛みが走る。 「たぶん、そうだった」 「……悪かった」 「何に?」 「それを、俺も当たり前にしてたこと」  謝罪は短かった。全部を許せるほどではない。でも、聞こえなかったことにする必要もない。 「今日は、それだけ受け取る」 「うん」  圭吾はそれ以上言わなかった。出口の方へ歩いていく。私は呼び止めなかった。 「水瀬さん」  今度は黒瀬さんだった。 「帰れそうですか」 「その聞き方だと、私が一人で帰れない人みたいです」 「そういう意味じゃありません」 「分かってます」  私は少し笑った。 「言えました」 「はい」 「でも、勝った感じはしません」 「勝ち負けの収録じゃないでしょう」 「そうですね」 「帰りますか」  帰る。  その言葉が、以前より自然に聞こえた。 「はい。ホテルへ」 ◇  三日後、私用メールに旧会社から連絡が届いた。件名は、『商品企画経路および対外発表に関する外部レビューへのご協力依頼』。文面を一度読んだだけでは、意味が頭へ入ってこなかった。取引先から説明を求められたこと。  取締役会の判断で、外部弁護士と商品開発実務者、主要取引先の監査担当を含む検証を始めること。企画の流入経路、社内の確認手続き、炎上後の会社発表が適切だったかを調べること。そして、私にも資料提出と聞き取りへ協力してほしいこと。画面を下まで読み、もう一度最初へ戻る。ようやく手が震えた。今度は、怖さだけではなかった。机の向こうで仕事をしていた黒瀬さんが、私の顔を見る。 「どうしました」  私はノートパソコンを彼の方へ少し回した。 「調べるそうです」 「何を?」 「あの商品の企画が、どこから来たのか」  黒瀬さんは画面を読んだ。すぐに何かを祝うようなことは言わなかった。 「協力するんですか」 「します」  返事は、今度は迷わなかった。  十月からずっと、私が知っていることと、世間に証明できることの間には大きな穴があった。その穴を、ようやく誰かが正式に調べようとしている。 「怖いですけど」 「はい」 「でも、逃げません」  黒瀬さんは頷いた。私は返信画面を開く。最初の一行に、自分の名前を書いた。 『水瀬千晴です。調査に協力いたします』

運営おすすめ

週間ランキング

全ランキング

反応スコアランキング

もっと見る

PV・ブックマークランキング

もっと見る

更新された連載作品

すべて見る
読み込み中…

新着短編

すべて見る
読み込み中…

作品一覧

読み込み中…

作品ダッシュボード

作品全体の公開状況と、読者からの反応をひと目で確認できます。

作品パフォーマンス

選択期間のPVが多い順

上位5作品
ライブラリ

作品の公開状況と構成

最近の更新

最後に編集した作品

要チェック

公開前に確認したい項目

プレビュー
読者に表示される見た目

表示設定

文字サイズ
100%
背景色
縦書き表示
リッチモード
目次
読み込み中…

キーワードを入力して作品を探しましょう

アクセス解析
アクセス解析データは 5分おき に自動更新されます
読み込み中…
ランクイン記録
通知
通知はありません
地形ブラシ
25
スタンプ
ツール
装飾
表示
100%

世界地図

100%

REACTION SCORE

反応スコアの内訳