芦名 雅 / 第23話

第5話 逃げるのは私だけでいい

 十二月十八日の朝、私は朝食会場の入口で足を止めた。止まる理由なんて、ほんの数秒前まではなかった。森下さんから『煮物の出方だけ一度見てほしい』と言われて、厨房からレストラン『潮路』へ出ただけだった。窓の向こうには冬の海が見え、食事を終えた宿泊客がコーヒーを飲んでいる。焼き魚の皿を取る人、小さな子どもへ卵料理を分ける母親、新聞を畳む男性。ここ一か月で見慣れた、汐風館の朝だった。 「……水瀬千晴さん、ですよね?」  声をかけてきたのは、二十代くらいの女性だった。スマートフォンを片手に持ち、驚いた顔で私を見ている。隣にいた男性も、女性の視線を追って私の顔を確かめた。身体が先に固まった。一瞬だけ、十月の発表会場が戻ってくる。向けられたスマートフォン。『盗作なんですか』という声。何を盗んだことになっているのか分からないまま、何十もの目に見られていたあの時間。 「……はい」  否定しても仕方がない。顔まで知られているのだから。女性は悪意のある顔をしていなかった。むしろ、どう声を続けるか迷っているようだった。 「ここで働いてるんですか?」 「はい。今は、こちらで働いています」 「料理を?」 「料理というより、朝食の仕入れや、仕込みの数を考える仕事です」  言ってから、自分でも少し驚いた。  「料理研究家」でも「ホテルの者」でもなく、今の自分が何をしているのかを、短い言葉でそのまま答えられた。 「そうなんですね」  女性はそれ以上、盗作のことを聞かなかった。 「朝ごはん、おいしかったです。魚も」 「ありがとうございます。料理長に伝えます」 「あ、写真って……」  女性がスマートフォンを少し持ち上げた。胸がひやりとした。 「すみません。仕事中なので、一緒に撮るのは」 「あ、違います。もう撮っちゃって……会場の写真に、たぶん水瀬さんが入ってて」  女性が画面を見せる。窓際から朝食台を撮った写真だった。手前には料理が並び、奥で私は森下さんと話している。顔は小さいが、知っている人なら分かる程度には写っていた。 「これ、SNSに上げても大丈夫ですか?」  聞いてくれただけ、ありがたいと思った。ホテルの朝食会場で、宿泊客が自分の食事を撮る。それを止める理由はない。私だけを大きく撮った写真でもなかった。 「ホテルのお食事の写真としてなら、私からは何も言えません。ただ、ほかのお客様のお顔が写っていたら、そこだけ気をつけてもらえると」 「分かりました」  女性は素直に頷いた。それで終わると思った。森下さんに呼ばれ、私は煮物の残りを確認して厨房へ戻った。九時以降の追加は四つずつ。今日も不足はなく、最後の追加をしなくても終えられそうだった。数字を見れば、いつもの朝だった。だから私は、さっきのことを考えないようにした。考えなくても、昼前には向こうから戻ってきた。 「水瀬さん、ちょっといいですか」  フロントから来た井上さんの表情を見た瞬間、何の話か分かった。  事務室へ入ると、黒瀬さんがパソコンの画面をこちらへ向けた。  朝食の写真。  今朝の女性が投稿したものだった。 『汐風館の朝ごはん最高だった。びっくりしたのは、あの水瀬千晴さんが働いてたこと。普通にスタッフさんみたいに朝食見てた』  文章自体に悪意はない。けれど、その投稿を引用している側は違った。 『盗作で逃げた人、地方ホテルにいたんだ』 『雇う方もどうかしてる』 『支配人と何かあるんじゃない?』 『料理パクった次はホテル再生の手柄でも取るの?』  画面を下へ動かすたび、言葉が増えていく。私は最後まで読まなかった。 「投稿した方は悪くありません」  最初に出たのは、その言葉だった。黒瀬さんが私を見る。 「会場の料理を撮っただけです。私に気づいたから書いただけで、盗作だとも何とも書いてない」 「分かっています」 「削除をお願いするのは違うと思います」 「お願いするつもりもありません」  井上さんが手元のメモを見た。 「問題は、この投稿からホテル名まで一気に広がったことです。さっきから電話が増えてます。普通の問い合わせもありますけど……そうじゃないのも」 「予約は?」 「キャンセルが出始めています。ただ、全部がこれのせいとはまだ言えません」  そこを断定しないところが井上さんらしかった。私は自分の手を見た。朝食の残数を書くために持っていたペンの跡が、人差し指に薄く残っている。  ホテルへ来てから、一か月以上。数字を揃えた。厨房と会場の記録をつないだ。魚の仕入れを見た。赤坂さんと何度も言い合い、美月さんに止められ、森下さんと補充のやり方を変えた。その全部が、たった一枚の写真で別の意味にされていく。 「私、今日は客前に出ない方がいいですよね」 「今日はそうしてください」  黒瀬さんは即答した。胸の奥が少し沈んだ。けれど、続いた言葉は違った。 「あなたを隠すためじゃありません。今は、わざと写真を撮りに来る人が出る可能性がある。宿泊客とスタッフを巻き込みたくないので、しばらく表は俺と井上さんで判断します」 「……はい」 「厨房と事務の仕事は普通にしてください」 「普通に?」 「普通に」  できる気がしなかった。それでも私は頷いた。昼を過ぎると、口コミサイトにも低い評価がつき始めた。泊まった形跡のない文章ばかりだった。 『盗作騒動の料理研究家を雇っているホテル』 『経営者の感覚を疑う』 『朝食が売りらしいけど、その朝食も誰かの真似では?』  最後の一文を見たところで、私は画面を閉じた。そこまで言われると、私ではなく赤坂さんたちの仕事を汚されている。胸の奥に熱いものが湧いた。  怒りだった。  自分のことを何と言われても平気なわけではない。けれど、今朝の魚を焼いたのは赤坂さんたちだ。小鉢を何度も出し直したのは美月さんで、客の様子を見ながら追加数を決めたのは森下さんだ。私が全部作ったわけでも、私一人で変えたわけでもない。それなのに、私の名前があるだけで、ホテルの仕事まで盗作の延長にされる。 「水瀬さん」  美月さんに呼ばれ、顔を上げた。いつの間にか厨房の入口に立っていた。 「これ、今日の朝の記録です」  いつも通りの紙を渡される。用意数、客前へ出した数、残数。 「……ありがとう」 「ネット、見ました?」 「少しだけ」 「私、見ない方がいいって料理長に言われました」 「それがいいです」 「でも、ちょっと見ました」 「見たんですね」 「腹立ったので閉じました」  美月さんはそれだけ言って、冷蔵庫へ戻ろうとした。 「美月さん」 「はい」 「迷惑かけて、ごめんなさい」  言うと、美月さんの眉が寄った。 「何がですか?」 「ホテルの口コミまで荒れてるから」 「それ、水瀬さんが書いたんですか」 「違うけど」 「じゃあ、謝られても困ります」  言い方が思ったより強かった。 「でも、私がいなければ」 「その言い方、前に料理長が言ってた『数字だけで分かった顔するな』と同じじゃないですか?」  返す言葉が止まった。 「私たちが迷惑かどうか、水瀬さんが勝手に決めるんですか」 「そういうつもりじゃ」 「私は、朝の記録めんどくさいって今も思ってます」 「そこはまだなんですね」 「でも、前よりゴミが軽い日は嬉しいです。だから、その仕事までなくなる方が私は嫌です」  美月さんはそう言って、今度こそ作業へ戻った。手元の記録用紙が、急に重く感じた。謝れば済むと思っていたわけではない。でも、またやっている。相手の気持ちを聞く前に、自分が消えた方がいいと決めかけている。 ◇  翌日、ホテルの代表番号へかかってきた電話を、私は偶然聞いた。フロント横の事務スペースで資料を受け取っていたときだった。井上さんが受話器を取り、いつもの穏やかな声で応対している。 「はい、ホテル汐風館でございます」  最初は普通だった。ところが数秒後、井上さんの表情が変わった。 「申し訳ございませんが、従業員個人に関するお問い合わせにはお答えしておりません」  私のことだ、とすぐ分かった。 「当館の朝食および食品管理につきましては、料理長を含む各責任者の管理下で運営しております。……はい。ご意見として承ります」  受話器の向こうから、こちらまで声が漏れてくる。内容までは聞き取れない。  けれど、長い。  井上さんは一度も声を荒らげず、最後まで応対して電話を切った。 「すみません」  また、口から出た。井上さんが私を見る。 「水瀬さん」 「はい」 「昨日も美月さんに謝ったでしょう」 「何で知ってるんですか」 「厨房は狭いですから」  情報が早すぎる。 「電話は仕事です。嫌がらせならこちらで記録して対応します。あなたが受話器の前に立つ必要はありません」 「でも」 「でも、は黒瀬さんに言ってください」  そう言われた直後、当の本人が事務室から出てきた。 「呼びました?」 「ちょうどいいところに」  井上さんが私を見る。 「お願いします」 「何をですか」 「この人の『私が辞めれば』を止める係です」 「井上さん」  黒瀬さんの目が私に移った。 「言ったんですか」 「まだ言ってません」 「言う顔をしてます」 「顔で決めないでください」 「じゃあ、違います?」  違うと言えなかった。黒瀬さんは少しだけ息を吐いた。 「事務室へ」  言い方は静かだったが、逃げられる雰囲気ではなかった。  ドアが閉まる。  机を挟んで座ると、私は先に言った。 「辞めた方がいいと思います」 「理由は」 「見てるでしょう」 「見ています。でも、あなたの言葉で聞きます」  私は膝の上で手を組んだ。 「私がいる限り、ホテル名と盗作の話が一緒に出ます。口コミも荒らされる。電話も来る。予約をやめる人だっているかもしれない」 「はい」 「私一人辞めれば、少なくともここへの理由は減ります」 「それで全部収まると思いますか」 「全部じゃなくても」 「あなたがここにいた事実は残ります。辞めたあとも『問題があって辞めさせた』と書く人はいるでしょう」  分かっている。  それでも、何もしないよりはましだと思った。 「だったら、せめてこれ以上は」 「水瀬さん」  黒瀬さんが遮った。 「ここで一つ確認します」 「何をですか」 「汐風館で、仕入れの数字を偽りましたか」 「してません」 「廃棄記録を都合よく変えた?」 「してません」 「衛生上使えない食材を、原価が惜しいから使えと言った?」 「言うわけないでしょう」 「厨房の仕事を、自分一人の手柄だと外へ話した?」 「してません」 「じゃあ、うちであなたを辞めさせる理由はない」  言葉に詰まった。 「昔のことは」 「俺にはまだ分からない」  即答だった。  第1話のサービス通路と同じ答え。  この人は、今でも私の無実を無条件には信じていない。それなのに、前よりそのことが怖くなかった。 「じゃあ、どうして私を残すんですか」 「ここでの仕事を見たからです」 「それだけ?」 「十分でしょう」  黒瀬さんは私から目を逸らさなかった。 「世間が十月の一枚の仕様書を見て何を言うかは、俺には変えられません。でも、ここであなたが何をしてきたかは、俺が見ています」  胸の奥が、ゆっくり熱くなった。信じています、とは言わない。大丈夫だ、とも言わない。ただ、見たと言う。最初からこの人は、それしか言っていない。 「ホテルへ迷惑をかけたくないんです」 「それは分かります」 「なら」 「だから、ホテルに残るか辞めるかまで、ホテルのためだと言って勝手に決めないでください」  声は強くないのに、逃げ道がなかった。 「赤坂さんも、美月さんも、井上さんも、森下さんも、それぞれ判断できます。俺もできます。あなた一人で全員の迷惑を決めないでほしい」  昨日、美月さんに言われた言葉と同じだった。相手の気持ちを聞く前に、自分が消える結論を出す。それは、周りを思いやっているようで、実際には周りの選択まで取っているのかもしれない。 「もし、私が残りたいって言ったら?」 「残ってください」 「即答ですね」 「雇用継続の判断は、もうしてますから」 「そうじゃなくて」  言いかけて、止めた。何を聞こうとしたのか、自分でも分かったからだ。仕事以外でも、いてほしいのか。そんなことを聞く段階ではない。黒瀬さんも追及しなかった。 「辞めるかどうかは、水瀬さんが決めてください。ただし『みんなのために消えます』は、理由にしないでください」  私はしばらく黙った。辞めれば、楽になる部分はある。宿泊客に見られることを気にしなくていい。ホテルへの悪意を見るたび、自分のせいだと思わなくていい。  東京へ戻る場所があるわけではない。それでも、逃げることはできる。逃げることを『迷惑をかけない選択』と呼べば、また自分だけで周囲の答えを決めることになる。 「……残りたいです」  声にすると、思ったより怖かった。 「ここで、まだやりたい仕事があります」  黒瀬さんが頷く。 「分かりました」 「本当に、いいんですか」 「今、俺が何を話してたと思ってるんですか」 「確認です」 「いいです」  その一言で、肩の力が少し抜けた。守ってもらった、という感じとは少し違った。逃げ道を塞がれたわけでもない。辞める自由は残したまま、残る理由を私自身に返された。それが、ありがたかった。 ◇  三日後の午後、黒瀬さんに呼ばれて事務室へ入ると、井上さんもいた。机の上には、一枚の企画書が置かれている。 「地域経済番組から取材の依頼が来ました」  黒瀬さんが言った。 「今回の炎上について?」 「もともとは、汐風館の朝食改善を取り上げたいという話でした。数字がどう変わったか、地域の仕入れを残しながら何を変えたか。先月から打診は来ていました」 「初めて聞きました」 「まだ受けるか決めてなかったので」 「また説明が遅い」 「そこは認めます」  珍しく素直だった。井上さんが企画書を私の方へ向ける。 「今回の再炎上を受けて、番組側が内容を変更したいそうです。ホテルの改善を取材する以上、あなたの過去の件を完全に無視するのも不自然だと」 「……私に、盗作の説明をしろってことですか」 「説明の機会を設けたい、という言い方です」 「会社は?」 「旧会社と橘さん側にも取材を申し込むそうです」  圭吾の名前を聞いた瞬間、指先が冷たくなった。あの店で指輪を外して以来、直接話していない。黒瀬さんは、私の返事を待っている。 「断ってもいいんですよね」 「もちろん」 「ホテルだけ取材を受けることは?」 「できます。ただ、その場合でも番組は今回の件に触れるでしょう」  逃げても、名前は残る。さっき自分で選んだばかりだった。  ここに残ると。  なら、ホテルが何をしてきたかまで、私の過去に飲み込ませたくない。私は企画書の表紙へ目を落とした。 「私が出たら、ホテルの朝食の話もちゃんとできますか」 「番組側の条件では、そのための取材です」 「赤坂さんたちの名前も出せます?」 「希望すれば」 「私一人が立て直したみたいにはしたくないです」 「そこは俺も同じです」  私は一度、息を吐いた。 「受けます」  井上さんが少し驚いた顔をした。黒瀬さんは表情を変えない。 「本当に?」 「確認ですか?」 「はい」 「受けます」  もう一度言う。 「ただし、私はまだ昔の件を証明できません。社内資料も勝手には出せない。それでも話せる範囲なら」 「その条件は先方にも伝えます」  黒瀬さんが企画書を閉じた。怖くないわけではない。圭吾と同じ場所に立つことになるかもしれない。また、知らない人たちに顔を見られる。それでも、今回は一つだけ前と違う。消えるためではなく、残るために話す。私はその違いを忘れないように、企画書の打ち合わせ日を自分の手帳へ書き込んだ。

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