ぽて / 第6話

第6話

 思えば最初から、少しおかしかったのだ。 ​ 演奏者の名前なんて興味がなかった私が、名前を調べ、顔を覚えた。  食堂で見つけ、話しかけた。また聴きたいと言った。昨日と今日の音の違いを覚えた。栞が笑うと、その声まで覚えていた。 ​ 私はずっと、それを音楽のせいにしていた。 ​ この人の演奏が好きだから。  この人の音が好きだから。  そう言えば、全部説明できる気がした。 ​ でも、もう無理だった。音楽の中にまで栞がいる。これでは逃げる場所がない。 ​ 曲が終わり目を開ける。 ​ 目の前には栞がいる。当たり前なのに、少しだけ安心した。 ​「今度はどう?分かった?」 「うん」 「演奏の事?」 「違う」 ​ 椅子から立ち上がると足が少し痺れていた。 ​ 栞の前まで歩く。近くで見ると、演奏を終えたばかりの彼女は頬が少し赤く、額に薄く汗を滲ませていた。 ​ ヴァイオリンを持ったまま、私を見ている。 ​「この前の返事、していい?」 ​ 栞が動かなくなった。 ​「……今?」 「今」 「私、汗かいてるんだけど」 「関係ある?」 「ないけど。なんだか奏らしいなと思って」 ​ 私は少し考えた。どう言えばいいのか分からない。 ​ 音楽の感想なら、いくらでも言える。でも自分の気持ちを説明するための言葉を、私はほとんど持っていなかった。 ​「私、音楽にしか興味ないと思ってた」 「うん」 「今も音楽は好き」 「うん」 「たぶん明日も、明後日も、ずっと好き」 「知ってる」 ​ 栞が笑う。 ​「でも」 ​ 窓の外で風が吹き、木の枝が揺れる。 ​ 雪は降っておらず冬ですらない。それでも私の耳には、まださっきの音が残っていた。 ​「最近、音楽聴いてても、栞がいる」 「…………」 「邪魔なくらい」 「告白で邪魔って言われることある?」 「最後まで聞いて」 「はいはい」 「目閉じてもいるし」 「怖い話になってきた」 「栞」 「ごめんって」 ​ 栞はふっと笑った ​ その声を聞いたとき、ふと思った。 ​ ああ、私はこれも好きなのかもしれない。 ​ 弦から生まれる音ではない。楽譜にも書かれておらず、誰かが再現することもできない。 ​ 白石栞という人間からしか出てこない音。 ​「だから」 ​ 私は大きく息を吸う。 ​「付き合ってみたい」 ​ そこまで言うと栞が黙った。 ​「……それが返事?」 「たぶん」 「好き、じゃなくて?」 「それはまだよく分からない」 「そこは分からないんだ」 「でも、知りたい」 ​ 栞を見る。今度は音を挟まずに。 ​「栞のこと」 ​ 銀色の髪の向こうで、彼女の目が少しだけ細くなった。 ​「それなら、いいよ」 「いいんだ」 「奏にしては百点」 「採点されてる」 「ずっとしてるよ」 「え、最初は何点だったの」 「二点」 「低い」 「人の告白に『なんで?』って言う人だから」 「今は?」 ​ 栞は少し考えてから、ヴァイオリンをケースへ置いた。 ​ さっきまで音楽があった二人の間に、今は何もない。 ​「八十点」 「二十点足りない」 「残りはこれから」 「そっか」 「うん」 ​ 音楽が鳴っていない事が不思議だった。 ​ 私はずっと、音楽がない時間は退屈だと思っていた。次に何を聴こう。帰ったら何を流そう。そんなことばかり考えていた。 ​ なのに今は、何も鳴っていないこの部屋から、すぐに帰ろうとは思えなかった。 ​「ねえ、奏」 「なに」 「もう一回聴く?」 ​ 栞がヴァイオリンを見る。私は少し考えてから、首を横に振った。 ​「今日はいい」 「珍しいじゃん」 「うん」 「じゃあ、何かする?」 ​ その質問には、まだ上手く答えられない。恋人が何をするものなのかも、私は知らない。 ​ だから、とりあえず―― ​「話しがしたい」 「何の?」 「栞のこと」 ​ 彼女が笑う。 ​ 窓の外には、夕方が来ていた。 ​ あれほど鮮明だった冬はもうどこにもない。雪も風もない。ヴァイオリンも鳴っていない。 ​ それでも私は、静かな部屋の中で彼女の声を聞いていた。 ​ たぶん私はこれからも音楽が好きだ。たくさんの曲を聴いて、たくさんの景色を見る。春を見て、夏を見て、秋を見て、また冬を見る。 ​ その景色のどこかに彼女がいるのなら、それも悪くないと思った。 ​ 音楽だけで完結していた私の世界へ、ひとつ、別の音が加わった。 ​ まだ合わせ方は分からない。  ときどきぶつかるかもしれない。  調子が外れる日だってあるだろう。 ​ それでも、一人で聴いていたころより、少しだけ世界が広く聞こえる。 ​ そんな気がした。

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