芦名 雅 / 第40話

第9話 初めての白髪を、二人で笑う

 玉手箱を開けた日の夜。音姫がベッド脇の端末へ視線を向けた。そこには、箱を開ける前に残した映像メッセージが、まだ消されずに残っている。 『拓海くんへ』  音姫の顔が、みるみる赤くなった。 「消します」 「待て」 「今すぐ消します」 「昨日、一緒に見て笑うって言っただろ」 「あれは成功する前の私が言ったことです」 「同一人物だろ!」  結局、再生した。画面の中の音姫は、今より少し青い顔で椅子に座っていた。 『拓海くん。これを見ているということは、たぶん私は、もう隣にいません』 「止めましょう」 「まだ十秒だぞ」 『最初に謝ります。千年前、あなたを怖がらせました。好きだからという理由で、あなたの嫌がることをたくさんしました』  今の音姫が黙る。 『それでも待ったことだけは、後悔していません。苦しかったし、何度も嫌になったけれど、最後にあなたへ「おかえりなさい」と言えたので』  拓海は画面から目を逸らせなかった。 『だから、もし私がいなくなっても、自分のせいだと思い続けないでください』 「それは無理」  思わず、画面へ返事をした。録画の音姫は当然、答えない。 『私の千年は、拓海くんに返してもらうための借金ではありません。私が選んだ時間です』  今度は隣の音姫が、そっと拓海の手を握った。 『最後に。帰ってきてくれて、ありがとうございました』  映像が終わる。病室が静かになった。拓海は鼻をすすってから、わざと乱暴に言った。 「遺言のくせに長い」 「三分二十七秒です」 「秒数まで覚えてるな」  音姫も泣きながら笑った。 「タイトル、変えておきます」 「何に」  音姫は端末を操作した。 『心配しすぎでした』 「軽っ」 「一緒に見て笑えましたから」  死んだ時のために残した言葉が、生きている二人の思い出へ変わった。それもまた、止まっていた時間が動き出した証拠だった。人間に戻った翌朝、音姫は五時に拓海を叩き起こした。何事かと思って飛び起きると、本人は枕元で自分の額へ手を当て、ひどく真剣な顔をしていた。 「見てください。体温があります」 「人間には普通ある」 「昨日まで、ほとんど変わらなかったんです」  音姫にとっては、身体が不便になっていくこと自体が新鮮だった。熱いスープで舌を少しやけどして目を輝かせ、階段を駆け上がって息が切れれば胸へ手を当てて笑う。紙で指先を切った時には、血が止まるまでの数分を本気で観察していた。拓海は呆れながらも、そのたびに昨日の包丁傷を思い出した。数秒で何もなかったことになる身体ではなく、傷が残り、治るまで時間がかかる身体。音姫はようやく、自分も世界と同じ速さで変わっていることを、些細な不便から確かめていた。  だが、一か月後。音姫は洗面所で固まっていた。 「拓海くん」 「ん?」 「これ」  一本の白髪。拓海は笑った。 「一本じゃん」  音姫は笑わなかった。 「怖い?」 「……少し」  拓海は白髪を見た。 「抜く?」 「抜いたら増えるって本当ですか」 「迷信じゃない?」 「千年前からある迷信がまだ残ってるんですね」  少し笑った。拓海は鏡越しに音姫を見る。 「俺もそのうち白髪になるよ」 「はい」 「しわも増える」 「はい」 「腰痛いとか言い出す」 「それは嫌ですね」 「そこだけ嫌なの?」 「介護します」 「早い!」  音姫が笑う。 「でも」 「うん」 「嬉しいです」  白髪を指でつまむ。 「これ、私の時間が進んでる証拠なんですよね」 「そうだな」 「拓海くんと同じ方向に」  拓海は音姫の肩に顎を乗せた。 「じゃあ大事にしろ」 「白髪を?」 「記念すべき一本目」  音姫は本当に保存した。小さな透明ケースに入れて。 『人間に戻って最初の白髪』  とラベルまで貼った。 「怖いよ!」 「大切な記録です」 「日記だけにしろ!」  そして二人は、初めて本当のデートをした。 「友達」ではない。  恋人として。音姫は前夜から服を七十二着試したらしい。 「会社のAIに相談しました」 「会社のAIを私用で使うな」 「会長権限です」 「権力の使い方がしょうもない」  海辺。千年前、拓海が逃げた場所。今は遊歩道になっている。二人は並んで歩いた。 「なあ」 「はい」 「俺、お前に言わないといけないことがある」  音姫が身構える。 「別れ話ですか」 「なんで初デートでそこに飛ぶ」 「最悪の可能性を先に」 「やめろ」  拓海は海を見る。 「千年前、俺はお前が怖かった」 「知っています」 「でも、ちゃんと言えばよかった」  音姫は黙る。 「勝手に逃げないで。重いって。嫌なことは嫌だって」 「はい」 「だから今度は言う」  拓海は音姫を見る。 「身辺調査は嫌」 「はい」 「位置情報を勝手に追うのも嫌」 「……はい」 「今ちょっと間があった」 「気のせいです」 「あと」 「はい」 「好きなのは嫌じゃない」  音姫が止まった。 「もう一回」 「言わない」 「拓海くん」 「顔近い」 「もう一回」 「嫌だ」 「録音しますから」 「やめろ!」  追いかける音姫。逃げる拓海。千年前と同じ。でも。少し走ったところで、拓海は自分から止まった。音姫が背中にぶつかる。 「どうしたんですか」 「もう逃げないって言ったから」  振り返る。音姫の頬に触れる。 「捕まえた」  音姫は、頬に触れた拓海の手を両手で包んだ。 「逃げないんですね」 「何回確認するんだよ」 「まだ千回くらい」 「一日一回でも三年かかるぞ」 「短いですね」  拓海は笑った。笑ってから、音姫の顔が思ったより近いことに気づいた。音姫も気づいたらしい。さっきまで追いかけ回していたくせに、急に動かなくなる。 「音姫」 「はい」 「目、閉じるの早くない?」 「千年勉強しました」 「その知識の使い方やめろ」  けれど、拓海は離れなかった。ほんの短く、唇を重ねた。一秒にも満たない。離れたあと、音姫は完全に固まっていた。 「……千年勉強した割に弱いな」 「実技は初めてなので」  声が小さかった。拓海の方まで恥ずかしくなる。 「今の、記録する?」 「記録しません」 「珍しい」  音姫は赤くなった顔を隠しながら言った。 「これは、覚えていたいので」  その言葉だけは、拓海も茶化せなかった。 「……それ、私の台詞です」 「たまにはいいだろ」  音姫は泣きそうな顔で笑った。 「はい」  その日。千年間追い続けた少女は。初めて、追いかけなくても隣にいてもらえた。初デートの帰り、二人は花屋の前を通りかかった。 「拓海くん」 「ん」 「花、興味あります?」 「別に」 「そうですか」  音姫は少し残念そうな顔をした。拓海はそれに気づいて、店に入った。 「何選んでるんですか」 「別に」  一輪の花を買う。小さな、白い花だった。 「これ」 「私にですか」 「他に誰がいる」  音姫はしばらく固まっていた。 「……記録していいですか」 「もう聞くな、それ」 「拓海くんから花をもらうのは、初めてです」 「俺、お前に花あげたことなかったんだな」 「はい。だから、嬉しいです」  拓海は照れ隠しに海の方へ視線を逃がした。何でもない一輪を、そんなに大事そうに持たれると困る。家に帰ると、音姫はすぐに花を押し花にしようとした。 「今からか」 「新鮮なうちに」  慣れた手つきだった。 「手際いいな」 「昔、拓海くんのお母さまに教わりました」 「そうか」 「四つ葉のクローバーの押し方も、教わりました」 「四つ葉?」 「拓海くんが子供の頃見つけたものを、標本にしてあります」 「そんな昔のものまで残ってるのか」 「はい」 「見せてくれよ」  音姫はためらった。 「見たら、思い出しますか」 「何を」 「拓海くんが、まだ子供だった頃を」 「覚えてないけど」 「私は覚えています」  しばらくして、音姫は古い標本帳を持ってきた。四つ葉のクローバーが、色褪せながらも、そこに残っていた。日付が書かれている。千年以上前の日付だった。 「これ、俺が見つけたやつなのか」 「はい。拓海くんが、私にくれました」 「くれたのか、俺が」 「はい。『お前にもいいことあるように』って」  拓海の記憶には、まったく残っていない出来事だった。だが音姫にとっては、千年間、大切に保管し続けるほどの記憶だった。 「悪い、覚えてない」 「いいんです」 「よくないだろ」 「私が、二人分覚えていますから」  その言葉に、拓海は何も返せなかった。新しい花を、標本帳の隣にそっと挟む。 「これも残すのか」 「もちろんです」 「もう一つ増えるな」 「増やしましょう」  音姫は嬉しそうに笑った。千年前の四つ葉と、今日の白い花。同じ帳面の中で、二つの時間が、静かに寄り添っていた。

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