井氷鹿 / 第17話

7.本木にまさる末木なし3 The first is the best.

 全然落ち着かず、ぐるりと店内を見回す。  座り心地の良いはずの革張りのソファ、間接照明の柔らかな灯り。  BGMはショパンの、子犬のワルツだ、これ。  まぁ、どこをどう見ても高そうなお店なのは間違いなさそうで。  客をもてなす為に、作られた空間なのに。  ダメだ、じっとしてられないよ。  居心地が悪くて、ローテーブルを挟んだ出口側の席に座り直したら、先程の女の子がやって来てメニューを広げて見せてくれた。 「何になさいますか」   うおおぉ、メニューに値段がない!  「好きなの頼んでいいよ」  「好きなのって」  と言ってる自分の目が泳いだのが分かったよ。  こんな酒のメニュー渡されてもだ、さっぱりだ。 「あ、ウイスキーダブルで」   先輩はそう女の子に言うと、こいつはロックでと勝手にオーダーされる。  「会員のゲストは基本ドリンクはフリーなんだ」  それは、お気遣いありがとうございます。  暫くして、カラカラと軽い音がして樹が何やら乗ったワゴンを押して来た。  「これ、まー爺のね」   といってマッカランのボトルを取り、テーブルに置く。  続いて慣れた手つきでグラスにアイスを入れ、山崎の十二年ものでロックを作ってくれた。 「わーちゃんはこっちね。平川さんはいどーぞ。チェイサーは麦茶持ってきました」   むぎちゃ? 麦に麦ってか。  シルバーカラーのポットから濃い色の液体を注ぎ、先輩に渡す。  「いっちゃん気が利くなぁ。ありがとう」  と樹に笑いかけ、グラスを受け取る。 「かんぱーい」   待ち切れなかったのか、先輩がウイスキーを二口ばかり喉に流しこみ、チェイサーの濃い色の麦茶をコレまたうまそうに飲んだ。  「わーちゃんも、これ美味しいからどーぞ」   そんじょそこらの麦茶じゃないんだよと、樹が入れてくれた麦茶のグラスを先輩が僕の前に置いてくれる。  グラスを持つと、煎りたての麦の香りが漂ってきた。  なんだコレ、香ばしくて。  「うまっ」 「職人さんが焙煎した本物の麦茶だぞ。それをちゃんとやかんで煮出したら、こうなる」   確かに。珈琲と見紛う色の濃さ。  三人で麦茶談義してたら、カウンターの方が何やら賑やかになってきた。 「おっといけない。たぶんまー爺だ。平川さん、行ってきます」   げっ。やばいやばいやばいっ。  トイレに逃げようとしたら、出迎えに行った樹がまー爺を連れてきてしまう。  はえーよ、樹。  「平川ちゃん、ごめんごめん。急いで食ってきた。まだ紅緒はデザート食ってるが」   そう言いながら、まー爺一人がこちらに歩いてくる。  良かった、まだ来ないんだ。  来る前に挨拶して帰ろっと。  先輩が立ち上がったので、僕もコレ幸いと立ち上がる。  「あれ、亘くんじゃないか。何だ、平川ちゃんが言ってた人って君だったのか」   と僕の方へ歩いてきた。 「まーちゃん、日向をご存知だったんですね」   先輩が自分の席をまー爺に譲ろうと、一歩踏み出す。 「平川ちゃん、わしはホスト側だよ。やだよ、上座なんざ」   と言いながら、僕を先輩の隣に押しやる。 「亘くんも、お客様なんだからね」  そう言って、見慣れた笑顔で僕を見上げた。 「さて、じゃ改めて」   まー爺が僕に名刺を渡してきた。  笠神ビルと印字された名刺だ。  その肩書きに驚いてしまう。  いっつも神社周辺に居て、よく遊びに連れて行ってもらってたけど。 「どうだ、驚いただろう。これが必殺遊び人の名刺だ」  「遊び人の名刺、初めていただきました」   捧げ持つようにして名刺を頂くと、まー爺はえっへんと、おちゃめに胸を張り僕を見上げる。 「わしが名刺を渡すまでになったんだねぇ。大きくなったねぇ」   僕は苦笑いを浮かべた。  ええ、見てくれだけは大きくなりましたよ。  僕も会社からもらった名刺をまー爺に渡す。 「ほー、インターンねぇ。見習いみたいなもんか」  「そうです。平川先輩の付き人ですよ」   ほれ、座ってと言われ僕らはソファに腰掛けた。  笠神不動産って紅緒のばーちゃんの会社だよな。  まー爺が取締役員って大丈夫か。 「必殺遊び人って」   不思議そうに先輩が僕とまー爺を見る。  「だってわしの仕事って昼間、暇じゃない。だから」 「実際遊んでたじゃん、ね」  そう言いながら樹がマッカランのロックを作り、まー爺に渡す。  「そのお陰で、おまえら色んな所へ連れて行ってやっただろうが」   確かに、長期休みや週末なんかよく連れ出してくれたっけ。  子供をぞろぞろ引き連れて、フットワークが軽いというか、面倒見のいい人だよな、未だにお世話になってます。  おっといけない。帰るんだった。 「まー爺、会ってすぐで悪いけど、僕そろそろ……」   そう言って席を立ちかけたら、聞き覚えのある声が響いてきた。 「居たーーーーっ」  右手で僕を指さしてる。 「あ」  ひょっこり出てきちゃったよ。  うっ、足が。  やっべー。体が動かねぇ。    マジでひょっこり、紅緒が出てきたよ。  どうしよう。逃げようにも、体が全然動かないんだ。  何だか夢みたいで。  あいつがわずか数メートル先に立って、こっちを指さしている。  それに、何だかとても怒ってるようだぞ。   僕に向かって、ツカツカと歩いてくるが、それが次第に足早になり。  うっそ。   勢いよく僕に抱きついてきた。  あんなに会いたいと願った紅緒が、抱きついてきたよ。    僕にとってこれはもう、抱きとめるというより抱擁で良いんじゃね?  紅緒の感触。こんなに華奢だったっけ。  こんなに頭、小さかったっけ。  こんなに泣き虫だったっけ。  彼女の懐かしい香りが、鼻腔を満たす。  「わーちゃん。何してたんだよう」  五感全部が紅緒で一杯になる。夢みたいだ。   ああ。幸せ……  そう感じた僕の意識はぶっつり、ここで途切れた。

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