むかいぬこ(@mukainuko) / 第95話

第10話 楽しい

目覚ましが鳴るより少し前に、目が覚めた。 枕元のスマホを手に取る。 六時四十八分。 まだ十二分もある。 もう一度寝ようかと思って目を閉じたけれど、眠れそうにない。 昨日のことを思い出した。 早川君の部屋へ行って、二人で変な映像を見て、ピザを食べて、小説の話をした。 付き合っているみたい、なんて口を滑らせた。 思い出した途端、布団の中で足をばたつかせたくなる。 恥ずかしい。 できれば忘れたい。 でも――。 楽しかった。 それだけは、何度思い返しても変わらない。 私は布団を跳ねのけた。 今日は日曜日。 そして、今日も早川君の部屋へ行く。 二日続けて男の子の部屋へ遊びに行く。 ……遊びではない。 小説を書くために行くのだ。 昨日、正式に互助関係を結んだのだから。 「よし」 誰に言うでもなく声に出し、ベッドから降りた。 昨日はクッキーを持っていった。 今日はお弁当を作る。 ピザ代の半分を払うと言ったのに、早川君は受け取ってくれなかった。注文したときにカードで払ってしまったからいい、と言われ、それでも食い下がる私に「こういうときは男が払うものだよ」と笑った。 あれには困った。 私には、男の子に昼食をご馳走してもらうという習慣がない。 そもそも、男の子と二人で昼食を食べる習慣もない。 だから今日は私が用意する。 それなら貸し借りなしだ。 冷蔵庫を開ける。 中身は多くない。 卵。 昨日買っておいた鶏肉。 使いかけの人参。 あとは――。 「これでいいかな」 豪華なお弁当は作れないけれど、料理そのものは嫌いではない。 鶏肉を切って下味をつけ、その間に卵を溶く。フライパンを温めると、狭い部屋に香ばしい匂いが広がった。 卵焼きを巻いて、端を少し切る。 形を確認する。 「……よし」 切った端は私が食べた。 美味しい。 次は鶏肉。 焼きながら、ふと考える。 早川君、何が好きなんだろう。 昨日はピザを普通に食べていた。 クッキーも喜んでくれた。 嫌いなもの、聞いておけばよかった。 「まあ、いいか」 嫌いだったら、次から入れなければいい。 次から。 私は菜箸を持ったまま止まった。 次からって。 毎週行くんだから、別におかしくない。 そうだ。 互助関係なのだから。 焼き上がったものを冷ましてから、弁当箱に詰めていく。 自分の分と、早川君の分。 二つ並べると、ちょっとだけ嬉しくなった。 昨日のクッキーとは違う。 一緒に食べるものだ。 鼻歌を歌いながら蓋を閉め――。 「…………」 歌っていた。 しかも、自分でも気づかないうちに。 「浮かれすぎでしょ」 誰もいない部屋で、自分に言った。 でも、口元が緩んでいる。 仕方がない。 楽しいのだから。 お弁当を冷ましている間にシャワーを浴びた。 髪を乾かし、服を選ぶ。 昨日はスカートだった。 今日はどうしよう。 クローゼットと呼ぶには少々寂しい収納を眺め、何枚か取り出してベッドの上へ置く。 これ。 違う。 こっち。 ちょっと暑そう。 白いパンツなら――。 「…………」 私は手を止めた。 小説を書きに行くだけなのに、なぜこんなに悩んでいるのだろう。 大学へ行くときなんて、もっと早い。 着られる。 汚れてない。 季節がおかしくない。 だいたい、この三つを満たせば合格である。 なのに今日は、鏡の前に立っては着替え、また鏡を見る。 結局、身体に少し沿う薄手のニットと、白いパンツにした。 鏡の前で横を向く。 後ろも見る。 変じゃない。 たぶん。 昨日の反省もあるので、下着が透けていないことも確認した。 これは必要な確認である。 早川君とは関係ない。 「よし」 鞄に財布とスマホを入れる。 お弁当も忘れずに入れた。 玄関まで行って、戻った。 もう一度、鏡を見る。 髪を直す。 「……何やってるんだろ」 自分で笑ってしまった。 家を出た。 * 八王子から吉祥寺までは、それなりに時間がかかる。 少しでも交通費を節約したい私は、今日も定期券を使える経路を選んだ。 時間はかかる。 でも、今日はあまり気にならなかった。 電車の窓から流れていく景色を眺めているうちに、昨日のことが次々と思い出される。 クワトロを知らなかったこと。 お腹が鳴ったこと。 付き合っているみたい、と言ってしまったこと。 早川君に好きな人がいると聞いたこと。 最後のだけ、少し気分が変わる。 どんな人なんだろう。 昨日も気になった。 早川君が好きになるくらいだから、きっと素敵な人なのだろう。 綺麗な人かな。 それとも可愛い人? 小説が好きな人かもしれない。 そこまで考えて、やめた。 考えても分かるわけがない。 それに、もし困っているなら手伝うと言った。 互助関係なのだから。 スマホを見る。 まだ約束の時間には余裕がある。 早く家を出すぎた。 自分でも分かっていた。 電車の時間を一本遅らせても十分間に合った。 でも、遅れるよりはいい。 そういうことにしておく。 吉祥寺駅へ着いた。 時計を見ると、約束の三十分前だった。 さすがに早すぎる。 今日は待ち合わせをしているわけではない。直接マンションへ行くことになっている。 このまま行ったら迷惑だろう。 どこかで時間を潰そう。 そう思いながら改札を抜けた。 人の流れに乗って歩き――。 「あれ?」 見覚えのある頭が、人混みから一つ飛び出している。 背が高い。 眼鏡。 少し長めの髪。 「…………」 早川君だ。 なんで? まだ三十分もある。 私に気づいたらしい。 早川君がこちらを見て、手を上げた。 「綾瀬さん」 私はなぜか一瞬、柱の陰へ隠れたくなった。 いや。 なんで隠れるの。 別に悪いことはしていない。 早く来すぎただけだ。 私は何もなかった顔をして、早川君のところへ向かった。 「おはよう」 「おはよう」 「どうしたの?」 「何が?」 「今日は直接行くって話だったよね」 「ああ……」 早川君が少しだけ目を逸らした。 「なんとなく、迎えに来た」 「迎えに?」 「うん」 「でも、まだ早いよ」 「綾瀬さんだって」 「わたしは……」 困った。 どうして三十分も早く来たのか、自分でもうまく説明できない。 「電車の時間がちょうどよかったの」 嘘ではない。 その電車を選んだのは私だけれど。 「そっか」 「早川君は?」 「僕は――」 少し間があった。 「少しでも早く会えたらいいかなって」 「…………」 胸の奥が、ふわっとした。 昨日、改札で早川君を見つけたときと似ている。 でも今日は、少し違う。 何が違うのかは分からない。 「なんてね」 早川君が笑った。 「綾瀬さん、また道に迷うかもしれないし」 「迷わないよ!」 せっかくふわっとしたものが、一瞬でしぼんだ。 「昨日行ったばっかりだよ?」 「吉祥寺って人多いから」 「人が多くても道は変わらないでしょ」 「それもそうか」 「もう」 二人で笑った。 なんだか昨日より話しやすい。 たった一日しか経っていないのに。 「じゃあ、行こうか」 「うん」 早川君が歩き出す。 私も隣を歩く。 昨日は、後ろをついていった。 今日は最初から横だった。 駅を出ると、日曜日の吉祥寺は朝から人が多かった。 井の頭公園へ向かう人。 小さな子供を連れた家族。 私たちと同じくらいの男女もいる。 そのうち何組が恋人なのだろう。 見ただけでは分からない。 友達かもしれない。 兄妹かもしれない。 私たちは――。 互助関係。 そう考えると、なんだか可笑しい。 もし誰かに「二人はどういう関係ですか」と聞かれて、「互助関係です」と答えたら、どんな顔をされるだろう。 「綾瀬さん?」 「なに?」 「なんか笑ってない?」 「笑ってないよ」 「笑ってる」 「気のせい」 そんなことを話しているうちに、早川君が少しずつ前へ出ていった。 脚が長いから、一歩が大きい。 昨日もそうだった。 「早川君」 「ん?」 「歩くの早い」 「あ、ごめん」 すぐに速度が落ちた。 昨日と同じ。 それだけのことなのに、少し嬉しい。 私は早川君の隣へ追いついた。 今日はお弁当がある。 これから二人で小説を書く。 お昼になったら、一緒に食べる。 昨日と同じように。 その先は、まだ何も決まっていない。 「ねえ」 「ん?」 「今日、お昼買わなくていいからね」 「どうして?」 「作ってきた」 「え?」 早川君が足を止めた。 「お弁当」 鞄を軽く叩いてみせる。 「昨日、ピザご馳走になったから」 「本当に?」 「うん。二人分」 「……そっか」 早川君が笑った。 クッキーを渡したときと同じ顔だった。 「楽しみだな」 その一言だけで、朝から作った甲斐があった気がした。 「期待しすぎないでね。普通のお弁当だから」 「綾瀬さんが作ったんでしょ?」 「そうだけど」 「だったら楽しみ」 また胸の奥が、ふわっと軽くなる。 なんだろう。 昨日から、こんなことばかりだ。 でも。 悪い気はしない。 むしろ――。 楽しい。 私は少しだけ早川君との距離を詰めて、また隣を歩き始めた。

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