むかいぬこ(@mukainuko) / 第94話

第9話 互助関係

早川君が持ってきた平たい箱から、焼けたチーズの匂いが漂ってきた。 その瞬間。 きゅるるる。 「…………」 鳴った。 かなりはっきり鳴った。 早川君を見る。 目が合った。 聞こえている。 「……お腹、空いたね」 「うん」 優しい。 聞かなかったことにしてくれた。 私は何もなかった顔でソファから立ち上がった。 「何か手伝うよ」 「大丈夫。飲み物を用意するだけだから」 「でも、注文も早川君だし、受け取ったのも早川君だし」 「じゃあ、箱をテーブルに持っていってもらっていい?」 「任せて」 ようやく仕事を与えられた。 これ以上何もかもやってもらったら、私は人の家でアダルトビデオを見て、パソコンを借りる約束をして、昼ご飯までご馳走になるだけの女になってしまう。 いや、並べてみると、すでにかなりひどい。 箱を持ち上げる。 温かい。 そして、いい匂いがする。 これが本物の宅配ピザ。 さっきから「本物」と言っているけれど、偽物のピザがあるわけではない。 私がフライパンで作ったものだって、たぶんピザだった。 たぶん。 ダイニングには四人掛けのテーブルがあった。 私の部屋なら、これ一つ置いただけでかなり邪魔になるだろう。 箱を真ん中に置いて椅子へ座ると、対面式のキッチンで早川君がグラスにジュースを注いでいるのが見えた。 「…………」 男の子の部屋で、昼ご飯の準備をしてもらっている。 しかも二人きり。 なんだか――。 付き合っているみたい。 また同じことを考えてしまった。 今度は絶対に言わない。 私は口をきゅっと結んだ。 「お待たせ」 「うん」 早川君が向かいに座った。 さっきまで隣同士でテレビを見ていたから、向かい合うと少しだけ安心する。 「開けるよ」 「うん」 箱が開いた。 ふわっと湯気が上がり、さっきより濃いチーズの匂いが広がった。 「わあ……」 思わず身を乗り出す。 四つに分かれたピザには、それぞれ違う具が乗っていた。 肉っぽいもの。 海老っぽいもの。 野菜。 チーズがたくさん乗っているところ。 確かに豪華だ。 豪華なのだけれど。 「クワトロって、ずいぶんバラバラなんだね」 「え?」 「具。なんか統一感ないなって」 「そりゃ、四種類だからね」 「…………」 「四種類のピザを、一枚にしてるんだよ」 「…………」 私はてっきり「クワトロ味」という味があるのだと思っていた。 さっき聞いたと思うが、理解していなかった。 危ない。 いや、もう言ってしまったから手遅れだ。 早川君が私を見ている。 「もしかして――」 「食べよう」 「う、うん」 遮った。 お願いだから、それ以上は言わないでほしい。 早川君は少し笑ったように見えたけれど、何も追及せず、一切れ取って皿に乗せてくれた。 やっぱり優しい。 私はピザを両手で持ち、伸びたチーズを切ってから口へ運んだ。 「…………!」 美味しい。 生地はふわっとしているのに端は香ばしく、チーズも私がスーパーで買うものとは何かが違う。 何が違うのかは分からない。 とにかく美味しい。 「どう?」 「美味しい」 「よかった」 「すごく美味しい」 二回言った。 でも、本当に美味しいのだから仕方がない。 高校生のときに食べた宅配ピザも感動するくらい美味しかった。 けれど、今食べている方が美味しい気がする。 お店が違うからだろうか。 それとも、焼きたてだから? 「綾瀬さん、本当にピザ好きなんだね」 「うん」 よく食べると言ってしまったことを思い出した。 「……好きだよ」 これは嘘ではない。 食べる機会がないだけだ。 私はもう一口かじった。 やっぱり美味しい。 「そういえば」 早川君が二切れ目へ手を伸ばしながら言った。 「さっきの話なんだけど」 「さっき?」 「週末、ここで一緒に書くっていう話」 「ああ……」 付き合っているみたい。 思い出してしまった。 忘れていたのに。 「僕は本当に構わないよ。綾瀬さんが嫌じゃなければ」 「嫌じゃないよ」 答えてから、少し早すぎた気がした。 「パソコンも使わせてもらえるし、助かる。すごく」 これは本当だ。 自宅ではスマホで下書きをして、大学でパソコンを使って清書する。そんなやり方を続けている私にとって、落ち着いてパソコンを使える場所があるのはありがたい。 しかも、早川君も同じコンテストに応募する。 分からないところを聞くこともできるし、お互いの原稿を読めば、自分では気づかないところも見つかるかもしれない。 でも。 「わたしばっかり得してない?」 「そう?」 「だって、パソコンまで借りるんだよ。早川君は?」 「僕も綾瀬さんに読んでもらえる」 「それだけ?」 「それだけって、結構大きいと思うけど」 早川君はそう言って、ピザを一口食べた。 「自分で書いてると、変なところに気づかないんだよ。頭の中では分かってるから、書いてなくても分かった気になっちゃうし」 「あ、それは分かる」 「でしょ?」 確かに。 ライティングの仕事でも、自分では完璧だと思って提出した文章が、戻ってくると真っ赤になっていることがある。 「だから、お互いに読んで、気づいたことを言う。それなら僕にもメリットあるよ」 「でも、わたし、ちゃんと意見言えるかな」 「面白いとか、分からないとかでもいいんじゃない?」 「そんなのでいいの?」 「むしろ、その方が知りたいかも。説明したつもりなのに分からないって言われたら、書き直さないといけないし」 なるほど。 小説を書いた経験では、早川君の方がずっと上だ。 だから私が教えられることなんてないと思っていた。 でも、読むことならできる。 それに、私には分からなかったということ自体が、役に立つこともあるらしい。 「じゃあ、本当にお互い様なのかな」 「そうだよ」 「そっか」 それなら少し気が楽になる。 一方的に助けてもらうのは落ち着かないけれど、私にもできることがあるのなら話は違う。 「なんていうんだろう、こういうの」 「こういうの?」 「お互いに助け合う関係」 「協力関係?」 「なんか仕事みたい」 「じゃあ……互助関係とか」 「互助関係?」 聞き慣れない言葉だった。 「お互いに助けるって意味」 「へえ」 早川君が、少しだけ得意そうな顔をしている。 「なんか固くない?」 「そう?」 「大学生の男女が毎週部屋に集まって、官能小説を見せ合う関係でしょ?」 「……言い方」 「間違ってないよね?」 「間違ってはいないけど」 二人で笑った。 でも、互助関係。 悪くない気がする。 恋人でもない。 ただのサークル仲間とも、少し違う。 同じコンテストに応募して、お互いの小説を読んで、助け合う。 終わりも分かりやすい。 「コンテストが終わるまで?」 「そうだね。とりあえず七月末まで」 「じゃあ、それまで互助関係」 「うん」 なんとなく契約みたいになってきた。 「よろしくお願いします」 私は座ったまま、ぺこりと頭を下げた。 「こちらこそ」 早川君まで頭を下げる。 おかしくなって、また二人で笑った。 「でも、一つだけ気になる」 「なに?」 「早川君、好きな人いるんだよね」 早川君の動きが止まった。 さっきまで普通に食べていたピザを、皿へ戻す。 「……いるよ」 やっぱり。 分かっていたことなのに、実際に聞くと少し変な感じがした。 胸の奥に、小さなものが引っかかる。 痛いというほどではない。 ただ、気になる。 「だったら、わたしが毎週ここに来て大丈夫なの?」 「どういうこと?」 「その人に知られたら、誤解されないかなって」 「…………」 早川君が黙った。 やっぱり問題があるのだろうか。 「片思いだから」 「え?」 「まだ付き合ってるわけじゃないし。だから大丈夫」 「そっか」 片思い。 早川君が、誰かを好きでいる。 どんな人なんだろう。 同じ大学? 文藝サークル? それとも、全然知らない人? 聞いてみたい気もしたけれど、さすがにそこまで踏み込むのはやめた。 代わりに私は、残っていたピザを一口食べた。 さっきと同じ味のはずなのに、少しだけ味が分からなくなった。 「綾瀬さん?」 「ん?」 「どうしたの?」 「ううん」 私は首を振った。 「そのうち、わたしにも手伝えることがあったら言ってね」 「え?」 「ほら、互助関係なんでしょ? 小説ばっかり助けてもらったら、わたしが得するだけだし」 「いや、そこまでしなくても」 「ダメ。お互いに助けるんだから」 言ってから、なぜか胸の奥がまた引っかかった。 自分で言ったのに。 早川君が好きな人とうまくいくように手伝う。 何もおかしくない。 むしろ、それくらいしないと釣り合わない。 「分かった。そのときはお願いするよ」 「うん」 話がまとまったところで、私は残っていた最後の一切れに手を伸ばした。 「あ」 早川君の手と重なりそうになり、二人とも止まる。 「食べていいよ」 「いや、綾瀬さん食べなよ」 「でも、早川君が頼んだんだから」 「僕はいつでも食べられるし」 いつでも。 その言葉に、私はあっさり負けた。 「……じゃあ、いただきます」 「どうぞ」 最後の一切れを皿に乗せる。 遠慮した方がよかったかもしれない。 でも、美味しいものは美味しい。 私は一口食べてから、向かいにいる早川君を見た。 さっきまで、男の子の部屋で二人きりというだけで妙に緊張していたのに、こうして食卓を挟んでいると、不思議なくらい普通に話せる。 ピザのこと。 小説のこと。 これから毎週ここへ来ること。 それから、早川君に好きな人がいること。 今日だけで、昨日まで知らなかったことをずいぶん知った。 「どうかした?」 「ううん」 「また何か考えてた?」 「ちょっとだけ」 私は残っていたピザを食べる。 やっぱり美味しい。 高校生のときに食べたものより、本当に美味しい気がする。 理由はよく分からない。 でも、一つだけ分かったことがある。 「ランチを二人で食べるって、いいね」

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