むかいぬこ(@mukainuko) / 第97話

第12話 そんなことって、あるのかなあ

撮影現場には、紗栄子のほかに数人のスタッフがいた。 三脚に載せられたカメラ。部屋の隅には照明が並び、長い棒の先にはマイクらしきものがぶら下がっている。 ホテルの一室なのに、そこだけは本当に撮影現場だった。 「へえ……」 紗栄子は思わず辺りを見回した。 見学だけ。 そう決めてしまえば、さっきまでの不安も少しだけ薄れてくる。こんなところ、普通に生活していたら見る機会なんてない。 来てよかった――とまでは思わないけれど、一万円ももらったし、ちょっと得した気分にはなっていた。 そんな紗栄子の目が、一人の男の子で止まった。 若い。 たぶん、自分と同じくらい。 背はそれほど高くないけれど、すっきりした顎に、少し憂いのある目。まつ毛が長く、横顔だけなら女の子みたいにも見える。 でも、鼻筋はすっと通っていて――。 イケメンだ。 かなり。 つい見てしまった。 「なに?」 目が合った。 「俺の顔に何かついてる?」 感じ悪っ。 「別に。撮影現場が珍しかっただけ」 「ふーん」 男の子は興味をなくしたように目を逸らした。 むかつく。 ちょっと顔がいいからって、何なのよ。 「彼が今日の男優さん。海野海《うみのかい》君」 立花が紹介した。 「上から読んでも海野海、下から読んでも海野海」 「…………」 紗栄子は頭の中で確認した。 うみのかい。 逆から読んで――。 違うじゃん。 どこから突っ込めばいいのか迷っていると、海が面倒くさそうにため息をついた。 「それ、毎回言うのやめてもらえます?」 「いいじゃない、覚えやすくて」 「覚え方が間違ってるんですけど」 意外とまともなことを言った。 「こっちは紗栄子ちゃん。今日は見学」 「はあ」 それだけ。 海は紗栄子を一度見ただけで、また視線を逸らした。 「…………」 何よ。 美少女が目の前にいるのに。 もうちょっと何かあってもいいんじゃないの? いや、別に褒めてほしいわけではない。 ただ、反応が薄すぎる。 「紗栄子ちゃん」 後ろから小さな声で呼ばれた。 杏果だった。 「ちょっといい?」 「はい?」 杏果に連れられ、さっきの控室へ戻る。 扉は閉めなかった。 そのことに、紗栄子は少し安心した。 「あの、どうしたんですか?」 「その……」 さっきまできびきびしていた杏果が、なぜか言いにくそうにしている。 「やっぱり今日、出てもらうのって無理かな?」 「ええっ?」 話が違う。 「杏果さんが出るんじゃなかったんですか?」 「そのつもりだったんだけど……男優さんが変わったの」 「男優?」 「本来来る予定だった人が来られなくなって、代わりに海君が来たみたいで。私もさっき知ったの」 なるほど。 紗栄子には分かった。 「ああ」 「なに?」 「あの人、感じ悪いですもんね」 「え?」 「杏果さんも嫌なんでしょ?」 「いや、そういうことじゃなくて」 「だって、男優さんが変わったから嫌なんですよね?」 杏果は黙った。 違うのだろうか。 しばらくして、大きく息を吐く。 「海君、元カレなの」 「ええっ!!」 思わず大声が出た。 慌てて口を押さえる。 「元カレ?」 「声、大きい」 「すみません。でも……」 紗栄子は扉の向こうを見た。 さっきの感じの悪いイケメン。 それから杏果。 もう一度、頭の中で二人を並べてみる。 「だったら逆に、杏果さんの方がいいんじゃないですか? お互いのこと知ってるんだし」 「だから嫌なの」 杏果は即答した。 「仕事なのに、プライベートみたいになるでしょ。それに、別れた男となんて絶対に嫌」 「…………」 そういうものなのだろうか。 紗栄子にはよく分からなかった。 別れ方にもよるのかもしれない。 杏果は困ったように笑った。 「ごめんね。断っていいから。こっちの都合だし」 「でも、撮影は?」 「どうにかする」 そう言いながらも、さっきまでとは明らかに元気がない。 紗栄子は海のいる部屋を見た。 杏果を見る。 もう一度、海の方を見る。 感じは悪い。 でも。 顔は悪くない。 むしろ、かなりいい。 それに――。 十五万円。 頭の隅から追い出したはずの数字が、また戻ってきた。 いや。 お金で決めるわけじゃない。 杏果が困っているからだ。 たぶん。 「……私、演技なんてしたことないですよ」 「うん」 「何をすればいいのかも分からないし」 「それは全部説明する」 「本当に、今日だけですか?」 「もちろん」 杏果が頷く。 逃げるなら今だ。 帰ってもいい。 一万円はもうもらった。 それでも、紗栄子はもう一度だけ扉の向こうへ目をやった。 海はこちらを見ていなかった。 別に、それでいい。 むしろ、何を期待しているんだ、私は。 「…………」 紗栄子は小さく息を吐いた。 「分かりました」 「え?」 「今日だけ。やってみます」 杏果の顔がぱっと明るくなった。 「ほんとに? ありがとう!」 「わっ」 いきなり抱きつかれた。 「ちょ、ちょっと杏果さん」 「助かったあ……」 杏果は本気で安心している。 その様子を見ていると、今さら「やっぱりやめます」とも言いにくい。 紗栄子は、もう一度だけ撮影部屋の方を見た。 あの感じの悪い男と。 私が。 「…………」 大丈夫かな。 こうして紗栄子は、予定になかった仕事をすることになった。 * 「――ここまで」 私は読み終えて、ノートパソコンから手を離した。 隣に座っていた早川君は、すぐには何も言わなかった。 画面を見たまま、少し考えている。 「……どう?」 「うーん」 その「うーん」が怖い。 「やっぱり変?」 「変というか……」 早川君は画面を少し戻した。 「紗栄子、ここで本当に出るって言うかな」 「え?」 予想していなかったところを指摘された。 私はてっきり、文章がおかしいとか、展開が強引だとか、そういうことを言われると思っていた。 「だって、杏果さんが困ってるし」 「うん」 「それに十五万円」 「そっちが本命?」 「違うよ!」 思わず早川君を見る。 笑っている。 「もう。真面目に聞いてるのに」 「ごめん。でも、十五万円に反応してるところは紗栄子らしくて面白かった」 「でしょ?」 そこは褒められた。 「ただ……」 早川君がもう一度画面を見る。 「さっきまで絶対に嫌だって思ってたんだよね」 「うん」 「それが杏果さんに頼まれたら、やってみるってなる。そこが僕にはちょっと早く感じたかな」 言われて、読み返してみる。 杏果さんが困っている。 海は感じが悪いけれど格好いい。 十五万円。 書いたときには、それで繋がっているつもりだった。 「理由はあるよ?」 「うん。でも……」 早川君は少し考えてから、画面を戻した。 海が出てきた辺りで手を止める。 「紗栄子って、海のこと結構見てるよね」 「え?」 「最初に会ったときも、かなり細かく顔を見てるし。感じ悪いって怒ってるわりには、ずっと気にしてる」 「だって、イケメンだから」 「それ、紗栄子も同じなんじゃない?」 「…………」 私は画面を見た。 海を見つけて、つい見とれる。 素っ気なくされて腹を立てる。 杏果さんの元カレだと知って驚く。 確かに、どうでもいい男の人にしては、ずいぶん気にしている。 「じゃあ、海君が気になるから出演するってこと?」 「そこまで紗栄子自身に分からせなくてもいいんじゃないかな」 「分からないのに?」 「うん。本人は杏果さんを助けるためだと思ってる。でも本当は、海のことが少し気になってる。それも理由の一つになってる、くらいで」 私は首を傾げた。 「本人も気づいてないのに?」 「そういうことって、あるんじゃない?」 「あるのかなあ」 「たぶん」 早川君も経験があるわけではないらしい。 「だったら、海を見てるところを少し増やすとか。出演するって決める前に、もう一回だけ海を気にするとか」 「ああ……」 それなら書けそうだ。 杏果さんを助けたいのも本当。 十五万円に心が動いたのも本当。 でも、それだけではなくて、感じが悪いと思っている海のことが、なぜか気になる。 その理由を、紗栄子自身はまだ知らない。 「じゃあ、その辺を少し足してみようかな」 「うん。でも、あんまりやると『この二人、これから何かあります』って分かっちゃうから、ほんの少しでいいと思う」 「なるほど」 私はもう一度、海が登場するところまで画面を戻した。 言われてみれば、紗栄子の気持ちを説明しようとしすぎていたのかもしれない。 本人にもまだ分からないことなら、分からないまま書いてもいい。 読んでいる人の方が先に気づくことだってある。 「難しいなあ、小説って」 「今さら?」 「今さら」 私はソファの背もたれに身体を預けた。 書けば書くほど、分からないことが増えていく。 「でも、早川君は書けるんでしょ?」 「何が?」 「自分が経験したことのないこと」 「書けるとは言ってないよ」 「え?」 早川君はテーブルに置いてあった自分のノートを取った。 「僕も今、それで悩んでる」 「どんな話?」 「まだ決めきってないんだけど……不倫」 「不倫?」 思わず聞き返した。 「早川君が?」 「僕がするわけじゃないよ」 「分かってるよ」 「官能小説って何を書けばいいのか調べてたら、不倫ものが結構あってさ」 「へえ」 「それで、昔からある話にも、そういうのって多いなと思って」 早川君はそこで、いくつか作品の名前を挙げ始めた。 源氏物語。 近松門左衛門。 何とか心中。 途中から私にはよく分からなくなった。 「早川君」 「なに?」 「また難しい話になってる」 「あ、ごめん」 本人にも自覚があったらしい。 「つまり?」 「昔から、許されない恋愛って物語になってきたんだなってこと」 「なるほど」 それなら分かる。 「でも、不倫かあ……」 私は考えた。 好きになった人に、すでに好きな人がいたら。 それだけでも嫌なのに、その人が結婚していたら。 「わたしには無理だな」 「何が?」 「好きな人が結婚してたら、諦める」 「そんな簡単に?」 「だって、どうしようもないでしょ」 「好きになった後で知ったら?」 「…………」 それは困る。 「それでも諦める」 「即答じゃなくなった」 「うるさいな」 早川君が笑う。 「でも、そういうところなんだよね」 「どういうところ?」 「自分ならどうするかって考えてみても、実際その立場にならないと分からない」 「うん」 「だから僕も、どう書こうかなって」 早川君はノートを閉じた。 「それで、参考になりそうな映画を見つけたんだ」 「映画?」 「うん。不倫を扱った恋愛映画」 嫌な予感がする。 「またアダルトビデオじゃないよね?」 「違うよ」 早川君が吹き出した。 「普通の映画」 「ならいいけど」 「せっかくだし、一緒に観ない?」 「今から?」 「うん」 私は時計を見る。 まだ昼前だった。 お弁当を食べるには少し早い。 小説も、この先をどう直すか考えたくなってきた。 それなら、少しくらい休憩してもいいだろう。 「いいよ」 「じゃあ、観ようか」 早川君がテレビのリモコンを取った。

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