ジ・エモン / 第23話
23 ワニの町
血走った目。
内臓をほうりこんだ、骨のかけらのみえる真っ赤な口。それはここにはない。
(UKロック、パンク・ロック……第一段階、コンポジット・ボウまで、解放……)
糸をひく。指をつまびいて、かき鳴らすような動作。
ゲンコはやくたいもない連想をする。
頭はいつもどおり、働いているようだ。
夜の闇。ぼんやりした電灯の光。
明かりひとつない暗がり。むせかえるてらてらした肉の塊の臭い。
つまびくたびに、真空じみた不可視の刃が怪物の体を斬り飛ばす。
派手に体液がとびちり、うっかりつぶした果実めいている。はあっと、ゲンコはつまりかけた息をぬいた。
(ブリットポップ……アリーナ……煙、ええと? あと何体? 三? 五……)
肉片をまきちらして、ゲンコのいた場所で四体目が動かなくなった。
次の場所にむかう前に、死んでいるのを確認する。
ゲンコはつけていた簡易ライトを消した。
レシーバーからは、ずっと冷静な声が聞こえてくる。現地にはいってからはずっとほぼ同じオペレーターが担当している。
レジーナ・マックスという、既婚女性である。ドイツ人の夫をもち、本人は中国系の外貌である。邪魔にならないようまとめた黒髪となきぼくろが印象的で、レジーとよばれると怒る。
名前にコンプレックスをもっているという点で、シンパシーがもてる。
その指示の声どおり移動をはじめながら、ゲンコはふと幻をみた。
といって、慣れっこのものである。騎士トリストラム……いや、あの思い出したくない、気分のわるくなる呼び名。
それ自体はゲンコは誇りに思っている。だが、未熟で若い部分からの感情をいえば、そうなるだけだ。
未熟で若いのも自分である。その前提を、否定し共にかかえるのをやめるとものごとに誇りがもてなくなる。
そう、あの呼び名。ゲンコは話をもどした。その呼ばれはじめたころ、PTSDと診断されたことがあった。
心的外傷後ストレス障害、フラッシュバックという症状も体験する深刻なものだ。そんなものを現場に出しても、使いものにはならない。
結果的にはゲンコは一ヶ月ほどで克服した。完全には無理で、現場で動くぶんには問題ない。診断は慎重におこなわれたものだから、信頼できた。
自分が信頼しないと意味がないものでもある。
幻とは、そのかるい後遺症だ。
診断した側にもその存在は知れている。
(ちがう、だいじょうぶだ。だいじょうぶ……)
幻のなかのゲンコは言う。レシーバーの声とかさなって、ひびいて聞こえてくる。耳鳴りに似ている。
聴覚については、ゲンコは自信がある。
ゲンコをみた医師が、私見をのべている。味覚の減退があるていどの期間、つづけられた結果、ほかの一部の五感がかわりのように発達をとげた。
正常なはたらきではなく、身体異常のたぐいで、あまり役には立たないだろう。
たしかにそのとおりで、自信はあろうが、それを便利に感じることは少ない。過敏であるぶん、よけいな音まで聞きつける。
幻の声は、さらに言う。だいじょうぶ、これは、と。
(母さんののこしたエイブリーは、こんなものじゃない、こんなものじゃ、私も、人間もまもる……ああ、ちがう、ちがう)
レシーバーから、新しい発生を観測したのを言ってくる。ゲンコは了解をかえした。
(音楽がほしいな)
(ああ、人が、人が、私の目の前で……だめ、死んでしまう。たべられて、ばきばきと、……ああ! 血が、肉が、白い骨が……)
指定された地点に到着する。すでに教えられていたとおり、包囲班と諒子の姿がある。
すでに怪物とやりあっている。
(どうしてだれもこないの、腹が……裂けて……、こ、こぼれてる……これ、だめ、通信したのに! この人しんじゃ……)
すっと、声がひいていく。諒子がまだ打っていない一体にうちかかる。空に向かってのばした触手状のものをもった怪物が、肉をとばしてうごめく。
斬った直後に、足でけ飛ばす。
よろめいた怪物に、消音された銃弾が何発も埋めこまれた。小銃の威力にたえかねて、異形の体がくずれおちる。
(慣れてる人たちが支援に来てるな)
まあ、諒子は正式には連携していないから、そのせいだろう。
ゲルトヒーデルへの不服はわきにおいて、もう二体にまとめて斬撃をあびせかける。
気をひいたところへ、怪物の背後から諒子のムチが連続で斬りかかる。二体どころか、さらにもう一体をまきこんで倒す。
(本当、たのもしいったら)
本部が目をかけるのもわかる。
ゲンコは内心、かなり感心した。
レシーバーから通信がはいる。
今日ははやく終わりそう、と、レジーナのかたくおちつきはらった声が流れた。
ノーフェイス・エージェントがまたあらわれたそうだ。
ついさっき報告された発生地点二ヶ所のうち、一ヶ所がすでに鎮静しかけている。
かわらず見事な手並みだ。
出現がコントロールできるものでない、そのことをのぞけば、ありがたいことこの上ない。
レジーナがちいさいジョークにするくらい、「彼」の闖入は慢性的になっているが、現場の人間としては微妙だろう。冗談に皮肉った意味もあらわれてはいる。
その日の発生は、それ以上はげしくはなかった。
ちょうど終わったころ、ゲンコは諒子といっしょになった。たんに、動きの関係上、共同していた。
エイブリーを使う人員は、なるべくばらけて動くのが常だ。そこにサポートの人員をつける。
ただ、今回のように特別言われれば合流することもある。
終了のサインをコールしていると、諒子が横を通った。
ゲンコはちらりとみて、通信しながらゆるい足どりで追いかけた。
「お疲れ様です」
声をかける。諒子は答えず、その場で頭をふらつかせた。
ゲンコはやや意表をつかれた。
が、諒子の横にいき、かがんで明かりをつけた。諒子の顔には直接あたらないようにする。
諒子の顔色は真っ青である。ほほやなんかは、反対に紅潮している。発熱しているかのようだ。
「待ってください」
と、レシーバーでオペレーターをひきとめる。ことわりを入れてから、諒子の額をさわる。
熱はない。体温が伝わってくるだけだ。
むしろ、冷たすぎる。
汗はかいていたが、冷や汗のようだ。それにふつうの汗もあっただろう。
これでは、どっちにしろ判断できない。
「諒子さん。歩けますか」
「ゲン、コ……ん……つか、れ……、」
返答がもうろうとしている。
歩けそうにない、ということはないし自分で歩いてもらったほうがいい。
ゲンコは肩を貸した。レシーバーで事情を手ばやく話す。
現場にいる人間は、手順を熟知してこなせる。ゲンコがひとりいるより、よほど好転する。
そもそもゲンコも衛生的ではない。怪物の体液や肉片でべっとり汚れている。
諒子は浅い呼吸をして、返事がない。
とにかく、ここでは現場の動きの邪魔になる。適当であるところをみつけて、ゲンコは諒子を座らせた。休ませるようにしながら、明かりで怪我の確認をする。
(返り血が邪魔だな)
よごれた手では皮膚に直接さわるのも、どうかと判断する。
ゲンコは明かりを消した。
やがて、すぐに現場の人間がやってきた。ゲンコはまかせて去ろうかとも思ったが、スタッフが遅れるので、ということで手を貸した。
特殊な条件下でやっているのだから、人員は潤沢にというのは基本だがそのとおりにはいかないことがややある。
(自分に合流するように言ったのは、このことかな)
現場での対処がひと段落つくと、ゲンコは諒子につきそって、待合用に用意された部屋に座っていた。
洗浄処理を終えたあとに言われたためだ。
諒子はこういう場合のための、用意された手順で洗浄処理をうけている。シャワーは浴びていないが、清潔な服は着せられている。
ほほの紅潮や汗はひいていたが、顔色は紙っぽく、肌にうす寒くなるようなかわきが感じられる。
つきそうように言ったスタッフの言では、めだった身体の異常はない、つまり、すくなくとも急性のなにかという可能性はない。
どうも強い緊張やストレス、心労などの心的な原因。それだけでなく、確定できない原因がある、とのことだ。
言ったエイター・レイテは、ゲンコも何度も見知っている男性医師である。ポルトガル系のベテランで、本人はやや生まれ育った南米のノリがある。たまに妙に田舎くさった口調で軽口を口にする。
「あんたじゃなくてもいいが、いまはそれが適任だろうな」
と、医師としてはふみこんだことまで、ゲンコに告げて言った。
指示どおり、おちつかせるためにゲンコは諒子のとなりに座り、こうしたほうがいい、と思うようにしていた。
肩を抱き、身体を密着ぎみによせる。
鼓動が聞こえる、というより伝わるようにだ。
それだけが理由ではないが。
(てっぺん越えてそうだな)
時計をもちこむのを忘れていた。この部屋には、めだつ場所に時計がおいていない。
天井を見ながら、握っている諒子の手をぼんやり意識する。皮がかたい。
かっちり鍛えられている。ゲンコにはこころえはないが、日本というと剣道かなにかだろうか。
諒子の呼吸は、かなり落ちついたものの、いかにも脈が早そうだった。
(時間がおそい……)
「諒子さん」と、ゲンコはよびかけた。諒子は、もうろうとしたままのようすだ。
だが、聞いてはいたらしい。
「はい……」
と、かぼそく反応した。
その受け応えのしかたが、いつもの諒子らしくなく、ゲンコはため息をついた。表には出していない。
ぶしつけに、髪をひとなでする。手つきには慎重をはらっていたが、なんの反応もしないのを見て、かなりの罪悪感をおぼえる。
もともと、そういうのは気にならないたちだ。諒子の頭に手はおかないようにして、かるくさするようにする。
「だいじょうぶ、きっと、だいじょうぶ……」
ささやく。
諒子はかわらず、あまり反応しないが、ゲンコの肩にふれていた頭が、ややかたむいた。体重をあずけたのだろう。
落ちつかない呼吸がくりかえされる。こんこん、と、ドアが鳴った。ゲンコは態勢はそのままで返事をした。
カウンセラーの女性が入ってきた。ゲンコは諒子からはなれ、やっと帰ることにした。
その翌々日。
日中。
諒子の自宅近くの公園で、まちあわせてゲンコは、ゲルトヒーデルと会った。
二人である。
「こんにちは」
ゲンコは、やってきたゲルトヒーデルに言った。
ゲルトヒーデルは、むしろなんとなくとまどったふうな気配があった。
言ってくる。
「こんにちは」
「諒子さんはどんなふうで?」
「問題ありません。元気そうでしたよ。でも、現場にでるのはまだストップがかかりそうですね」
ゲンコは立ったまま、納得をかえした。
「そうでしょうね」
「また現場で体調をくずしても、よくないですから」
「そりゃ困ります」
正直にゲンコは言った。ゲルトヒーデルは、見ため消沈したりとかはない。ゲンコから、紅茶の缶をうけとってプルタブを開ける音を静かにさせている。
ゲンコは甘ったるいアップルジュースを飲んでいる。
「遅かれ早かれ、こうなることはわかっていました。ひと一倍負担がかかる要因はありましたので」
「まあ、アラームはもってる人間の感覚がだいぶ独特とか」
アラーム。別名をプリクソス。前述した特徴から、明言こそされていないがエイブリーのひとつとして数えられている。
現在、論だけあって実用の追いついていない技術、ナノマシンにその形態を推測される。現存しているアラームの保有者というのは、いわば群体であり総体でひとつのエイブリーであると。
可能であれば保有者どうしの意思疎通も実現されるはずである、と、人道的な基準にのっとって研究がされている。と、される。
(脳に直結するわけのわからないものの研究が、人道的でやってても進むのかな)
「だけでなく、出現の頻度は異常判定レベル。ヤオヨルズに連日むきあっているのは、ただでさえ精神によくありません。すこし厳しかった……というのに、いままでなにもなかったなんていうのが」
「ま、そのとおりですね」
怪物や、怪異に対処するさいに、その場にいるだけで、という条件づけで無視できる精神への負荷が認められる。
経験則で提唱され、比較研究により判断された事項である。
この負荷は蓄積される。なので、現場にのぞむスタッフは連続での臨場はさけるよう配慮される。増員して交代々々、とくに直接的な怪物の駆除にあたる場合、三日から五日以内に間を空ける。
諒子もその対象だったが、不十分であったようだ。
まあ、現場スタッフの方針企図に非は考えにくいため諒子の自己管理に比重がおかれるだろう。
(この騒動になってから、怪物の探知範囲にいて夜も昼もなく感知している。そのうえ怪物との実戦自体は少ないままで、連戦。いや、自分以外の感覚も知らない人間をおしはかるのは、あんまりだな)
ゲンコは思いつつ、表情をやわらげた。
「とにかく、現場では不確定な要素は厳禁です。なにもなかっただけ良しとしましょう」
「そうですね」
「そうですね、じゃない」
ゲンコは言うと、ゲルトヒーデルに歩みよった。こちらを見ているのに、ココアを飲むような気軽な手つきで胸ぐらに手をかける。
「あなたの事情に首つっこませたんだろ」
ゲンコは、胸ぐらをつかんだ手に力をこめた。言う。
「私に後始末回してんじゃねーよ」
「すみませんでした」
「はあ」
ため息をつくと、ゲンコは服はつかんだまま言った。ゲルトヒーデルは、言いわけ一つせず、しかし意志のかたそうな目をくずさない。
その目を見つつ言う。
「あなたから、彼女に協力の件をとりけすよう言えませんか」
「そうしなければならない理由はありません」
ゲンコは聞くと、ゲルトヒーデルの服から手をはなした。これ以上つかんでいれば、この場で喧嘩になり、ゲンコがあっけなくねじふせられることだろう。
(諒子の件は、ゲルトヒーデルの件がなくたって、ここで仕事をすることになったし、そうなったら経過になんのちがいもない。ゲルトヒーデルへの協力の件は諒子から言いだしたわけではない、けれども自分の意思で協力しているっていう。まあ、本人から確認したかは微妙だけど)
ゲンコは、置いていたコーヒーを手にとった。考える。
(むしろゲルトヒーデルがよくやっていて、私が彼女を非難するのってどうなのよ)
「諒子があなたにお礼を言っていました」
「そりゃ私が彼女の立場でもそう言いますよ」
「あなたはそういうところがあると、なんとなく思っていたわ。やっぱり一度殴られたほうがいいのではと」
「私は暴力は嫌いです。自分が殴られるのはもっと嫌ですが」
しれっと言うと、ゲルトヒーデルはふむと考えこむ目をした。
「やっぱり、殴り返していたほうがよかったかしら」
言う。あのままつかんでいたら、やっていたようだ。ゲンコは察していたが。
「でも、諒子の身を案じてくれたのは私もお礼を言います。あなたのおかげで、と思ってはいるようなので」
「それはどうも。ぜんぶ言われてやったことですが」
「知っているわよ」
ゲルトヒーデルはしらけた目で言うと、立ち去るそぶりを見せた。ふと尋ねてくる。
「そうやってわかりやすく怒っていればいいのに」
ゲンコは答えて言った。
「ちがいます。私は身体弱いんで、あんまり怒ったり泣いたりとかやると、それで倒れるって話だったんです」
(本当は日本語で荒っぽいこと言うと、ヘンな言葉づかいになるんだけどね)
「本当は日本語で荒っぽいことを言うと、変になるからでしょう」
ゲルトヒーデルは言った。
「あなた丁寧語や敬語のほうがラクって言っていたじゃない」
それじゃ、と唐突に言うと、そのまま立ち去っていった。
ゲンコは腕時計を確認した。
(本当、嫌な女)
手首をさする。諒子への態度をみるに、自分がただ嫌われているというだけだ。
ゲルトヒーデル本人の性格は、言うほど破たんしてたりはしない。
(帰るか)
思うと、空き缶を処理して公園の入り口へむかった。公園の入り口を出て、歩道を見やると男がひとり歩いてくるのがみえる。
(諒子さんのことに関してとか、私が言うような話じゃなさそうなんだよな)
さしでがましいことを口にした。
そう思っていると、歩いてきた男がふとゲンコに目をとめた。そこで、変なことが起こった。
「おっ」
男は、ゲンコを見ると言った。
なにかおどろいたようだ。ゲンコは男をみた。
知らない男だ。
中肉中背の、めだつところのない容姿。
どこかひっかかるものはあったが、心あたりではない。
ゲンコが首をかしげる気分でいると、男は言った。
「まいったな、まさか会うとは」
わけのわからないことを言う。いぶかしんでいるゲンコにさらに言ってくる。
「こんにちは、ゲンコ・オブライアン。わたしも名前をなのりたいところだが、ま、君に名のる名前はもっていなくて」
男にそう告げられると、ゲンコはなにか察したように瞳をまたたいた。動揺がかすかにうかんでいる。
「そう警戒するものでもない。どうせ君は警戒する意味もわからないんだし。わたしたちは初対面だ。いいね? さて、はじめまして。わたしの名前はグ・レェンディルとか、君たちには呼ばれている」
男は言うと、あごをなでた。いや、男にも見えない。声もそうは聞こえない。
容姿かたちが判然としなかった。それでいて、目の前に人間がいることは確実と感じられる。
「ここで会ったのは、そうなるべきではない。ただイタズラ好きで意地も悪い、あるいはそんなものすらないものによる仕込みだ」
「あなたは……光を嫌う……」
「そうそう、閉め切ったカウンター席のある店で時間帯も夜がいい。いまはそういう話はしていない」
男のような女のような人影は言った。鼻で笑うような、だが、どことなく愛嬌のある女性めいた表情。
「わたしたちは運命共同体であそこ以外では会うべきではないし、徹底的に実際、避けていた。避けるまでもなく、会わないのがわたしたちでもある……問題は、それが百パーセントわたしの都合だからいざとなったらだれも配慮しない。うん、そういうところは君とも共通するといえる。せっかく表で会ったのもなんだし、ひとつ忠告でもするか」
なにがいいかな、と、男は面白そうな顔をした。最後に思いついたらしかった。
「ゲンコ・オブライアン、君は世間知らずなこまっしゃくれたガキだ。だから気をつけたまえ」
グ・レェンディルは笑うと、姿を消した。
翌日。
前日の気分をひきずりながら、ゲンコはその日の放課後をむかえた。
今日も日中の出現はない。
授業を終えてから、ゲンコは弓道場にいた。屋外になっているタイプで、間取りを広くつかったむこうに、的がしつらえられている。
ゲンコはひいていた弦をぱっとときはなった。
矢が的を大きくそれて地面にささった。
「ええっ」
ゲンコはがっかりした声をあげた。
「笑う」
雁内が言う。
「そこは、ドンマイとかじゃないの?」
「弓ひける時点で、経験者しょ? それがハジメテって顔ではずしてうーんて」
雑誌をめくっていた雁内は、片手でいじっていた携帯電話から顔をあげた。
「うん? がっかりするつうことは、経験者じゃないのか。やるね、矢が前に飛んで刺さるなんて」
「カリナって、人をほめたりするのね」
雁内はまったく聞いていない顔をした。
実際に聞いていないかは、わからない。
「あとは引かないどいてね。怪我したら私が怒られるんだから。そうなったら殺す」
片手間に言う。
ゲンコはおとなしくひきさがった。もともと雁内にむりくりたのみこんだことで、ねばる理由もない。
借りている弓と道具類をかたづける。
(これがワキュウってのか)
弓をにぎった手を、開き閉じしていると、雁内がふとこちらを見てくる。
指のあいだに器用にはさんだチュッパチャップスをゆらしつつ。
「やっぱモリイさんはちょっとヘンね」
「それ、ほかの人にも言われたな」
「そら言うよ。言わんでも思ってるでしょ」
「変わってるもんはしょうがないじゃん」
「自分に甘いし」
雁内は笑うでもない。さっさと雑誌に目をもどしている。
「服とか興味なさげだし?」
「センスないだけよ」
「もうちょっと自分に興味もてっての」
「そういや、カリナと○○さんて幼馴染なんだっけ?」
「なに、急に。そうだけど」
「○○さんのカレシも知ってる?」
雁内は無視するようにだまりかけたが、んー、と、こともなげにうなった。
「それなんか関係あるっけ? あー、なんかあったあった。だいじょうぶだったん? アレさ」
「ちょっと腫れて口切ったくらいかな」
「ま、私にも責任あるけど。本当、ごめんね。アイツ紹介したの、私だから」
「あん? ○○さんは、ちがうこと言ってたけど」
雁内は、考えこんでいたのと同じ調子でんー、と前置いた。
「つまりさ、○○がヨコレンボしてて、アイツのことモノにしたいーって言ってたのよ。だから、私がちょっと声かけたりして、アイツと前のカノジョひきはがすのに協力したっていうか」
「そうなんだ。いろいろできんだね」
「そうね。まあ、私もあの前のカノジョとはそんときちょっとあったし?」
「○○さんとは、友達だから?」
「そんなところかなあ」
雁内は携帯電話で、時間を見た。
言う。
「子供のころっていうか、今も子供だけど、共働きで親とかいなかったときに、料理作ってくれたり、中学のころもまあ、ちょっと荒れてたし? そのころにそばにいてくれて、よく世話してくれたりとかね」
ひたいを指でなでながら言う。
「○○も、私がかわいそうだからとか、ドウジョウっぽい感じでおたがいさまだったわけだけど。それもイイワケよね? 結局、別れさせるようにアレコレしたってのはそうゆうことなわけだし」
雁内は、「そろそろトモダチくるからいい?」と、あとはゲンコを追いだした。
「じゃ、さよなら。ありがとね」
ゲンコは礼を言って、弓道場をあとにした。
(第三段階か)
ぼんやり思う。
べつに、いまさら練習やイメージトレーニングが要るとも思わない。
しかし、エイブリーをあつかうようになって以来、正確にはあずかるようになったのはもっと前の段階だ。あつかう、というのは実際に現場に立って使用する段階をいう、と、なにかと道具にふれていないと妙な不安がわく。
ガットギターには段階がある。第一段階がコンポジット・ボウ。
練習用の弓くらいの意味で、糸を弾いて接近戦をおこなう。不明な機構で生じる真空波。ただし、あくまで名目上は弓であるからとっくみあいは最後の手段……つまり、所詮はあの銀の筒状は実際の弓ではない。
そのため、あるていどの距離は置いての近接使用。
そのほかに、もちろんのこと矢も撃ち出せる。
この矢については、ゲンコが使用するうえで制限している。真空波を使用するよりも、負担があがるためである。
これは所有コードによる仕様である。
(私が使用しているかぎり、解放されるのは第二段階まで。その上というか、解放するのになにか大きな負担があるとされる第三段階がある……)
ゲンコは気にすることはあっても、興味がうすかった。自分が生きているかぎりは体験することのない話だからだ。
(そのためにちがう感覚もためしたくなった……まさか?)
母親ができなかったもの。
いや、そうでなくても、ゲンコにはできないのだ。
そう考えたあたりで、ゲンコは妙な音を聞いた。
音のほうをふりかえるが、誰もいない。
ただの校舎の一階にある廊下である。それもいまは放課後だ。
夕暮れともいかない、けだる気な午後の沈みかけた日があたりを照らしている。窓の側の壁はそれをさえぎっていた。
(誰もいない? なんで?)
いつもの幻。
そんな理由が思いうかぶ。
(昨日の……なんだったか)
ゲンコは、まぶたをすがめるようにした。昨日のことが思いだされる。なにも思いだせることはない。
公園で、ゲルトヒーデルと喧嘩ごっこのようなやり取りをした。その後、公園の入り口を出て歩道を見た。そこから記憶がない。
なにもなかった。
(なにもなかった。いまと同じ)
ゲンコは、気にしない体で目をそらした。
怪物ではない。出現したとして、すぐに包囲班がなだれこんでくる。
怪物は音を立てない。つまりは、本物の幽霊かなにかだろう。
「?」
廊下のむこうで、人影が見えた。教職員か生徒だろう。
一瞬、まっすぐな廊下にあらわれた人影は、どこからあらわれたのかわからない気がした。見た感じ、教室かなにか、なんの部屋かゲンコも覚えていない部屋に入ったようだ。
あんなところに入れる部屋があるとは知らなかった。引き戸を閉める音がはっきりと聞こえたし、人影は制服姿の女であったように思う。ゲンコの目がたしかなら、セーラー服である。菅原大附属の特徴的な制服では、もちろんなかった。
(そりゃなにかの見間違いで、ただの人間だろ)
ゲンコは冷静に判断した。ポケベルを取り出す。連絡をうながす報せだ。
こっそりとこわばった首すじから、力をぬく。じつは、ミュートしたポケベルの振動に内心、飛びあがった。
文字どおり心臓にわるいタイミングだ。
うらみ言を言いながら、ゲンコは連絡に走った。校内にいくつかポイントを見つけて、電話のときには移動してまわる。
(幽霊なんているんだ、ここ)
背後にじっとこちらを見やる視線を感じながら、ゲンコはその場を去った。